第35話 放牧明けで帰って来て気がつけば紫苑ステークスです

 7月も間もなく終わろうかという頃、過酷な、本当に過酷なダイエット大作戦に見舞われていた私は、無事にスマートな姿に戻って美浦トレーニングセンターへと帰ってきました。なぜか引き運動を桜花ちゃんも手伝ってくれていましたけど、受験ですよね? 大丈夫なんでしょうか?


 ぶつぶつと、お腹周りがとか、二の腕がとか言ってましたから、あれが乙女の大敵、受験太りという物ですね。


 私が北川牧場を出発するときには満面の笑みでしたから、きっと目標を達成出来たんだと思います。もっとも夏期講習がどうこうと言ってたので、元の木阿弥にならないことをお祈りしておきます。


ナムナム~。


 そして、美浦トレセンへと帰ってきた私を見た調教師のおじさん達は、満面の笑みで出迎えてくれました。


「うん、しっかり休養できたようだね。これなら秋に向けて良い勝負ができそうだ」


「ブフフ~ン!」(でしょ、良い感じよね!)


 私も長いお休みを貰えた御蔭で、元気一杯なのです。特に放牧の最後辺りで桜花ちゃんが夏休みにはいって、一日の多くの時間で一緒に遊べたんです。本当ならもう少しお休みでも良かったと思います。


「う~ん、やはりちょっとドッシリしてますから、紫苑ステークスに向けて絞っていきましょう」


「そうだな。べレディーは1800m以上を走ったことがないから、2000mを重点的に経験させておきたいな」


 ドッシリ? ん? とにかく調教師のおじさん達が話をしています。この感じだと次のレースは2000mになるみたいです。また距離が延びるみたいですね。


「タンポポチャは関西馬だ。恐らくローズステークスへ向かうだろう。そうなると関東馬で紫苑ステークスに出てくるのは・・・・・・」


 馬房へと案内されながら、二人の会話を何気なく聞いていると、今度はタンポポチャさんとは別のレースになるみたいです。


 ちょっと寂しいのですよ。


 でも、タンポポチャさんは私が休んでいる間に大きなレースで勝ったみたいです。


 桜花賞で私はぐったりしちゃったのに元気ですよね。


「秋華賞へのトライアルレースだ。ましてやGⅢだからな、出来ればここは勝っておきたい」


 秋華賞? 春に走った桜花賞と名前の感じが似ているので、此れも大きなレースなのかな? そのレースだとタンポポチャさんもご一緒できるかもしれませんね。


 トライアルレースという事は、勝たないと出れないのでしょうか? 良くわかりませんがとりあえず頑張ることにします。


「あ、ベレディーお帰りなさい!」


 馬房に到着すると、鈴村さんがノートパソコンを片手に待ち構えていらっしゃいました。


「ブヒヒーン」(ただいま~)


 鈴村さんにお返事をするのですが、あの手にしたノートパソコンはやっぱりまたレースのお勉強用なのでしょうか?


 その姿に何となく帰って来たんだなあって思えるのが、間違っているような気がします。


「鈴村騎手、ノートパソコンを持ってと言う事は、またベレディーにレースを見せるのか?」


「あ、はい! ベレディーは2000mはまだ走ったことがないですよね? なので紫苑ステークスと秋華賞のレースを見せようかと」


「まあ、桜花賞で効果があったのかは判らんが、勝ててるからなぁ」


「あの最後の走法も謎ですが、調教で走りが変わるかも確認したいです」


 鈴村さんと皆さんがお話しして、結局はレースでのお勉強をする事になったみたいです。


 やって損はないという事みたいですが、私の睡眠時間は減っちゃいますよ?


◆◆◆


「なあ、今度の紫苑ステークスだけどさ、一番人気はミナミベレディーで良いんだよな?」


 競馬雑誌パドックの編集部では、来週発売される雑誌の内容打ち合わせが行われていた。


「タンポポチャ他、有力所はローズステークスへ出走ですし、今年の有力馬は栗東の馬ばかりですから。紫苑ステークスだと、やはり注目はミナミベレディーになると思います」


 近年、重賞を勝つ馬は関西に所属する馬に偏る傾向があった。この為、関西の栗東トレセンに有力馬が集まる傾向が生まれてしまっている。


 秋華賞へ向けたトライアルレースは、大きく分けて紫苑ステークス(GⅢ)とローズステークス(GⅡ)があり、関東馬が紫苑ステークス、関西馬がローズステークスに集まる傾向がある。


 この為、競馬関係者の中では、秋華賞における有力馬は自然とローズステークスに出走する馬という事になる。


「紫苑ステークスで3着までが優先出走権があるからな。ミナミベレディー以外にも、オークス3着に入ったプリンセスフラウもいる。あとラジオ福島を勝ったユニカローラもいる。ただ、桜花賞を勝ったミナミベレディーのインパクトを考えると小粒だな」


「各新聞などもミナミベレディー有利と見ていますよね。馬見調教師も距離が延びるのはプラス要素だって言ってますし」


 ただ断トツの一番人気かというと、騎手が女性の鈴村騎手であり、またミナミベレディーの血統が今ひとつという事で、人によって判断が分かれるところであった。


「しかし、桜花賞を勝って、レースでの連対率も高いのに何でこんなに人気が無いんだ?」


「やはり血統ですかね。今時カミカゼムテキの子で走るなんて誰も思って無かったですよ」


「まあカミカゼムテキもサンデー系と言えばサンデー系ですが、母馬はチューブキングの血統です。こちらも今の高速競馬に対応できるかと言うと厳しいですよ」


「ただ、桜花賞を勝った御蔭で、チューブキングのファンも取り込んで人気は沸騰してきていますね」


「まあ桜花賞馬だからな。重賞2勝馬だし、人気が出てもおかしくは無いんだが。競馬予想では、誰も秋華賞で勝つと思ってないのが何とも」




 打ち合わせ会議に出席している面々は、思い思いの意見を述べる。


 しかし、ある意味言いたい放題言われているミナミベレディーではある。本人? 本馬? が聞いてなくて幸いだった。もし聞いていたら多分・・・・・・意味が判らず首を傾げていたかも知れない。


 トッコがサンデー系と言われて思い浮かべるのは、恐らくアイスクリームサンデーや、フルーツサンデーなどのデザートくらいであろう。


「まあ、アイドルの細川嬢がやたらとミナミベレディーを絶賛してたけどな」


「ああ、確か今回番組で取材に行って、すっごく人懐っこかったらしいです。あと、氷砂糖を貰うと喜んで不思議なダンスをしてくれるとか」


「・・・・・・それって良いのか? 駄目じゃないのか?」


 予想師泣かせの馬、ミナミベレディーだった。


◆◆◆


 美浦トレーニングセンターに戻って、今までと同じように訓練をしているうちに、季節は変わってあっという間に9月になっちゃったみたいです。


 ちなみに、桜花ちゃんは夏休みが8月一杯あったはずですが、残念ながら夏期講習とかお勉強漬けで遊びに来てくれませんでした。


 受験生ですから仕方が無いのですが、すっごく悲しいです。


 でも、聞いた話ですが、8月の未勝利戦で妹のサクラヒヨリが無事に勝利したそうです。同じ美浦トレセンにいるのですが、そう言えば一緒に走ったことは無いのですよね。


 鈴村さんのパソコンを見ての勉強会も佳境を迎え、気がつけばレース当日になっていました。


「秋晴れでよかったね。雨だとどうしようかと思ってた」


 パドックで騎乗した鈴村さんと一緒に本馬場へと向かうさなかに、そう話しかけてきます。


 雨だと足下が滑るのですよね。あと脚下がグショって感じになるから好きじゃありません。


 雨の日に調教で芝だけでなく砂地とかでも練習しましたけど、やっぱり上手く走れないのです。だから私もお空が晴れてくれてほっとしました。


「今日は8番だから無理して先行しないでいいからね。好位置に付けて4コーナーから前に並ぶ感じかな? 内に先行馬と逃げ馬が1頭ずついるから、スタートしても慌てないでね」


「ブヒヒン」(は~~い)


 確かダークミストさんとミラクルドラマさんでしたよね。


 初めてご一緒するお馬さんですが、特にミラクルドラマさんは名前にインパクトがあるので覚えちゃいました。


 本馬場に入ってゲートへと向かうのですけど、コースを見ているとスタートしてすぐに観客席の前を走るんですよね。


 見ている人の歓声とかで、気持ち的に焦っちゃうお馬さんとか出そうです。しかも、カーブが最初と後で2回もあるのです。こうなると最初がゴチャゴチャしそうで嫌な感じですね。


 ゲート前の馬だまりという所でぐるぐると回っている間に、私は他のお馬さん達の様子を見ます。


 ただ、何となく今までのレースで見てきたお馬さんより、一回り大きいお馬さんが多いですね。


 むぅ、あのお馬さんはヤバイです! 全体的にスラッとしていて美人さんです。わ、私ほどじゃないですけどね!


「ブルルルル」(油断できないですね)


 ゼッケンの下に書かれているのは、7番の文字とミラクルドラマという名前です。うわあ、名前だけでなく、ミスお馬さんコンテストでも私と良い争いをしそうです。


 思わず私がじっと見ていると、私の視線に気がついたミラクルドラマさんが此方を見ました。そして、途端に挙動が怪しくなります。


 お耳がペターンになりましたよ!


「ブフフン」(勝ったわ)


 私の美しさに恐れをなしたようです。仕方が無いですよね、私綺麗ですから!


 そんな事を思っていると、なぜか鈴村さんが首をトントンしてきました。


「ベレディー、珍しく興奮してるけど、落ち着いて。どうしたのかな、久しぶりのレースだから?」


 ん? 私は普通ですよ? いつもどおりですよ?


 鈴村さんの様子に、思わず首を傾げます。


「あ、落ち着いた! よかった、突然頭を振り出すから吃驚したわ」


 あれ? 頭を振ってました? 記憶にないのです。


 ただ、ここでゲートへと案内されましたので、レースへ集中することにします。何といっても私はスタートが命ですからね。


 ゲートへと入るとやたらとお隣が煩いですね。横目でチラリと見ると、先ほどのミラクルさんです。


 ゲートが苦手なのか、前脚で地面をカツカツしたり、頭をブンブンしたり、大丈夫でしょうか?


「ベレディー、もうすぐだよ」


 お隣を気にしてたら、何時の間にか最後のお馬さんがゲートに収まろうとしています。鈴村さんの言葉に私はいつものように馬体をグッと沈めました。


ガシャン!


 何時ものように、大きな音を立ててゲートが開きます。私はいつもの様に飛び出し加速しようとしました。


ドンッ!


「きゃぁ!」


 加速を始めてすぐに、右側からスタートしたミラクルさんが此方へとぶつかってきました。


 私のスタートと加速が良かったお陰と、ミラクルさんが出遅れたお陰で真面にぶつかる事はなかったのですが、あとミラクルさんの騎手が何とかしようとしたのかもしれませんが、ぶつかり自体はそれほど強くなかったのです。


 私は咄嗟に体勢を立て直そうとしながら、それと合わせて鈴村さんが落馬しないようにバランスを取ります。


 ただ、そのせいで加速が出来ず、またもや大きく出遅れることになっちゃいました!


「ベレディー、大丈夫! 痛いところない?!」


 結局、ぶつかったミラクルさんと最後方を走る事になりました。


 ミラクルさんは私以上に加速がつかず、更に遅れています。


 大丈夫かな? 私は今のところ大丈夫そうです。痛い所は特にありません。ただ、レースが大丈夫かと言うと駄目そうでしょうか?

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