第29話 桜花賞 前編
桜花賞、3歳牝馬にとって最も重要な3大レースの一つと言っても過言ではないレース。
春の桜花賞、オークス(優駿牝馬)、秋の秋華賞、とこの3タイトルを取れば牝馬3冠の称号を戴く。この栄誉を戴く為にも、まずはこの春の桜花賞を勝たなければならない。桜花賞を勝った馬のみが牝馬3冠へと挑戦する権利を得るのだから。
もっとも、競馬を良く知らないトッコにとって、そんなレースもあるんだねくらいの感覚しかない。そもそも、競馬関係者の気持ちよりも、桜花ちゃんなどの親しい人への思いしか気にもしていないのだが。
そんなミナミベレディーは、調教を終えて馬房へと戻った所である意味溜息を吐いていた。
「ブフフン」(重いわぁ)
ここ最近は、毎日のように鈴村さんが調教後に馬房にやって来ます。そして、過去にあった桜花賞のレース映像を見せてくれるのですが、画面サイズが小さくて今一つ良く判りません。
それでも、そのレースの実況を聞いていると何となくイメージが湧きあがるので実況って不思議ですね。
「わかる? ベレディー、あのね、桜花賞は最後の坂がキツイの。だから先行馬は最近のレースでは勝ててないんだよ」
鈴村さんがブツブツと画面を見ながら説明してくれるけど、陽が落ちた馬房の中でノートパソコンを馬と一緒に見ながら独り言を言う人。第三者が見たら結構怖いんじゃないかな?
「恐らくファニーファニーとかは先行すると思うけど、私達は中団前よりに控えたいの。4コーナーを過ぎてから一気に加速して、坂で前の馬を抜く。そこからは只管加速して、どれだけ粘れるか勝負。
タンポポチャや他の追い込み馬が一気に伸びて来るけど、ここの坂が勝負の分かれ目なんだよ」
「ブヒュン」(鈴村さんが重いわぁ)
繰り返される鈴村さんの説明を聞きながら、私も色々と考えるんです。鈴村さんが言うレース展開って、タンポポチャさんと最後に一緒に走ったレースみたいなのですよね?
多分、あのレースでタンポポチャさんが走った感じと、同じような方法だと思います。
私が必死に追い付こうとして、タンポポチャさんにどんどん離されて行ったのが思い出されます。
「プヒン」(無理よ?)
あの時のタンポポチャさんを思い浮かべると、スパート場所が一緒でもとてもでは無いですが並走する事すら難しいと思うんです。
その前のレースでは、タンポポチャさんが私と先頭を争ってペースが崩れたからの結果ですよね。それこそ、息を入れる間もないレースでしたから。
そう考えるとやっぱり先頭を走って、走って、最後まで粘るしか無い様な気がするよ?
「うん、これ以上悩んでてもしょうがないか。枠順で幸い3番だし、スタート勝負は変わらない!」
色々とレースについて語っていた鈴村さんですが、漸く吹っ切れたのかな? ノートパソコンを片付けて、その後はあっさり帰っていきました。
結構なレースの映像と言うか実況を聞かされてきましたけど、ハッキリ言って良く判んないが正解です。
囲まれたら終わりとか、前が壁になってとか、聞いていると運の要素も強いですから、追い込み馬とかが絶対に強いとも限らないみたいですし、そもそも映像が見れてないんです。
「ブルルルルン」(何とかなるよね?)
それこそ、悩んでいてもしょうがないですからね。でも、桜花ちゃんの名前のついたレースですから、出来れば勝ちたいです。
◆◆◆
そして翌日、まだレースまで日数があるのに栗東トレーニングセンターという場所に馬運車で運ばれてきました。馬運車に乗せられてから、すっごく時間が掛かりました。
思わず北海道から移動してきた時の事を思い出しちゃいましたよ。
「お疲れ様、今日はゆっくり休んで移動疲れを取ってくれ」
栗東トレーニングセンターへ到着すると、お迎えしてくれたのはいつもの厩務員のおじさんです。そういえば、今日は一緒では無かったですね。
若しかすると新幹線で移動してきたのでしょうか? そもそも、厩務員さんや騎手の人ってどこに泊まっているのでしょう? ビジネスホテルかな? 謎は深まるばかりですね。
「ブフフフフフン」(お腹が空いたの~、今日のご飯は何かな)
馬房に案内されてご飯の入っている桶を覗くと、ニンジンもリンゴも入っていました!
「キュヒヒーン!」(わ~~い、ニンジンとリンゴだ!)
私はさっそくボリボリとご飯を食べています。すると、何時の間にか調教師のおじさんが目の前に立っていました。
「よしよし、飼葉の喰いも良いし、艶も悪くない。レースにはなりそうだな」
「ブフフン」(がんばるよ~)
私の返事に苦笑を浮かべて鼻先を撫でてくれますが、多分通じてないんだろうな。
「いいか、ベレディー。今度の桜花賞では、間違っても前のアルテミスSのような走りはしちゃだめだぞ? 最後の坂は、先行馬殺しと言われていてな。無茶な走りをしてきて、そのまま最後の坂を走ろうものなら故障しちゃうからな」
私が話を理解していると思っている訳ではないだろうけど、調教師のおじさんは私に暫く話し続けました。
「さて、良い時間になってしまったな。ベレディー、色々聞いて貰ってすまんな」
そう言うと、調教師のおじさんは氷砂糖をくれます。
「キュイーン!」(わ~い、氷砂糖だ!)
普段は最初にくれるので、今日は手ぶらかと思っていた中での氷砂糖に嬉しさも一入です。
そんな喜ぶ私を見て、調教師のおじさんは笑いながら帰っていきましたが、何か私は悩み相談者になったみたいな気がします。
鈴村さんもそうですけど、お馬さんに話をしても判らないと思うんですよね。
それにしても、そっか、先頭で走って先頭でゴールするのは無理なんですね。ちょっと予定が狂っちゃいますね。
色々と考えたのですが、もともと競馬の事は良く判りませんよ。だから、あとは成り行きに任せちゃいましょう。何をどうすれば勝てるのかとか、私みたいな素人が考えてもですよね。
そして、私はついに運命の桜花賞の当日を迎えます。なんちゃって?
◆◆◆
桜花賞当日は、数日続いている好天に恵まれ馬場の状態も良、逆に初夏を思わせる暑さでした。
私はいつもの様に、厩務員のおじさんに引かれながらパドックを廻っています。同じように回っているお馬さんの中には、タンポポチャさんの姿も見えました。
ゼッケンを見ると8番なので、私からちょっと離れていますね。
ご挨拶をしたい所ですが、ちょっと難しそうです。それでも、チラチラと私を見て来るので、私の事に気が付いてくれているみたいで嬉しいです。
「さあ、今日は頑張ろうね。12番人気なんて気にしなくて良いからね。前走は2着なのに、やっぱりGⅠでミスしたのが影響してるのかな」
止まれの合図とともに鈴村さんが騎乗して、そんな事を言います。そもそも私は自分の人気なんて気が付いてないんだけどな。恐らく鈴村さんが気にしているんだと思います。
「トッコー、頑張って~~」
ん? あ、桜花ちゃんがいた!
「プヒヒヒ~~ン」(わ~い、桜花ちゃんがいた~)
前のレースの時には居なかった桜花ちゃんが、今日のレースには来てくれました。出来たら近くに行きたいけど、多分怒られちゃうと思うので桜花ちゃんには頭を振ってお返事だけします。
レースが終わったら会えるから、その時までお楽しみは取っときましょう。
それにしても、桜花賞だから態々来てくれたのかな? 桜花ちゃんの名前が付いていますもんね。せっかく来てくれたんだから、やっぱり頑張らないとです。
「ベレディー、桜花ちゃんも来てくれたから頑張ろうね! 目指せ掲示板! 出来ればオークス出走権!」
鈴村さんが何か言ってますが、オークスですか? そういえば誰かも言ってた気がします。オークスが何か良く判らないんですけど、私にとっては桜花ちゃんの名前のこのレースの方が大事ですよ?
「ブルルルン!」(今日は勝つのです!)
いつもより当社比1.3倍くらいやる気が漲っています。
そして、トンネルを潜って本馬場へと向かいました。
ただ、前ほどでは無いですけど、鈴村さんがだんだんと話をしなくなってきているのがちょっと心配です。
「返し馬だよ、でも急がなくて良いからね」
本馬場へと入ってゲートの方に向かいます。その時の様子では鈴村さんは落ち着いているかな? でも、やっぱりちょっと震えてる?
「キュフフン」
ゲート前の馬溜まりでは、偶々ですがタンポポチャさんと見つめ合うタイミングがあったのです。そこで、一応ご挨拶をしておきました。ただ、タンポポチャさんもレース前だからか何だか緊張しているみたい? ちょっとご機嫌斜めっぽいです。
そんな中でも淡々と準備は進むのですが、遠くでラッパの音と手拍子、そして今まで経験したことの無い大きな歓声が上がるのが判りました。
おおお、何か盛り上がっていますね。芸人さんか有名人でも来ているのでしょうか?
ちょっとあの大きな歓声が気になりますが、そろそろゲート入りかな?
先程の歓声で一部のお馬さんが、ちょっと神経質になっているのが判ります。ただ、比較的遠くでの歓声なのでそれ程影響はないかな?
他のお馬さんの様子をもう少し確認したかったのですが、3番の私はさっさとゲートの中へと案内されちゃいました。
「落ち着いていくからね。手綱はゆったり、手綱はゆったり」
う~ん、鈴村さんがゲートに入ってからちょっと緊張気味? 前の事を思い出しちゃうのかもしれませんね。
私も頭をゆっくりと前後に動かして手綱の感じを確認しますが、大丈夫です、問題なさそうですよ。
「ごめんね、ベレディーまで緊張が伝わっちゃったかな」
鈴村さんは私の動きが気になったのか、私の首をポンポンしてくれます。たぶん私を落ち着けようとしてくれているのかな。
その間にも、他のお馬さんのゲート入りは進んで行きます。
「ベレディー、最後の馬が入るよ」
お馬さん達のゲート入りを確認していた鈴村さんが、何時もの様に私へと声を掛け、私は横目で係員さんの動きを見ながら馬体を沈めました。
ガシャン!
大きなレースであろうとこの音は変わらないです。ゲートが開くと同時に私は飛び出しました。
スッと前に出れたので、内側のお馬さん達より半馬身程前に出て、そのまま加速していきます。
「よし! 最高のスタートだよ!」
まだレースは始まったばかりですが、ここで漸く鈴村さんのホッとしたような明るい声を聴くことが出来ました。
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