第28話 桜花賞出走決定

 桜花賞に出走できる馬の数は最大で18頭、それ故に騎手の数も最大18名である。その狭き門を多くの騎手達が奪い合っているのは競走馬と同じであった。

 同じ騎手であっても、生涯GⅠに勝てずに引退する騎手が殆どと言っても良い。GⅠに勝てるような競走馬は、大体が一流ジョッキーと呼ばれる人達が騎乗を依頼され、余程の実績、運、人脈が無ければ騎乗できるチャンスは少ないのが現実だった。


「ミナミベレディーが桜花賞出走を決めたみたいだな」


 木内裕也騎手、御年40歳。通算勝利数368勝、内GⅢ12勝、GⅡ2勝、GⅠ0勝、GⅠを勝てると思えた馬にも何度か巡り合ったが、いつもあと一歩が届かない。

 そんな木内騎手は、桜花賞でファニーファニーへと騎乗する事となった。


 所謂、乗り替わりである。


「よお、木内騎手、お手柔らかに頼むよ」


 次レースに出走の予定が無い木内騎手が、騎手控室で今週の競馬新聞に目を通していると、先輩である鷹騎手が声を掛けて来た。


「鷹騎手、それはこっちのセリフですよ。タンポポチャはガチガチの一番人気じゃないですか。ファニーファニーはインスタグラマーが桜花賞を回避して来たんで、桜花賞の出走を決定したんです。まあ、御蔭で乗り替わりでご指名頂けたんですがね」


 当初、ファニーファニーはフローラSへの出走が有力視されていた。しかし、そこにフラワーCを勝ったインスタグラマーが出走を決めた事で、ファニーファニーの陣営は急遽、桜花賞へと出走を切り替えたのだった。


「ファニーファニーは距離適性が中々読み切れていないみたいだね。どちらかと言うとマイラーっぽいけど、末脚がそこまで鋭くないから」


 良いところまでは行く。ただ勝ちきれない。競馬において良くあることではある。


 ただ、今回ファニーファニーのオーナーからは掲示板内の死守を依頼されている。その為の乗り替わりであるが、勿論の事、木内はGⅠ初勝利だって諦めてはいない。


「実際の所、ファニーファニーとミナミベレディーの両陣営に営業を掛けていたんですけど、ミナミベレディーサイドには断られました。前走ハナ差の2着ですからね。鈴村騎手にもう一度チャンスをって処でしょうか? 羨ましいですねぇ」


 GⅠ初出場で大ミスをしでかして、それでも主戦騎手をさせてもらっている。そして次はまたもやGⅠだ。それも桜花賞だ。それなのに、騎手は引き続き鈴村騎手を使用するなど木内騎手としては信じられなかった。


「磯貝調教師から聞いたんだけどさ、何でもミナミベレディーの所有者の大南辺さんって、勝ち負けよりもロマンを求めるタイプらしいよ? 磯貝調教師も美浦の武藤調教師から聞いた話らしいけど、面白いってが爆笑してたね」


 そう言って笑う鷹騎手だが、そういう馬主は決して少なくはない。もっとも、近年の馬主達はだんだんと勝ちに拘る、採算重視の馬主も増えてきている為、何方かと言うと古いタイプと言えるのかもしれない。


「まあプロミネンスアローや、ヤマギシンフォニーも強くなってきているし。特に注意するのはプロミネンスアローかな? 前走では差しに転じての2着だったけど、あれは追い出しが遅かったね」


 前走でタンポポチャの2着に甘んじたプロミネンスアローだが、先行策ではなく中段からの差しを試したのだろう。一見タンポポチャに対し1馬身差の2着と差が付いたように見えなくはないが、恐らくプロミネンスアローサイドは、そこそこの手応えを感じていると思われる。


「ファニーファニーとミナミベレディーで頭争い。後方からプロミネンスアローとタンポポチャ、その前にヤマギシンフォニーですか、厳しいなぁ」


「意外とミナミベレディーをかってるんだね」


 鷹騎手は面白そうに木内騎手を見る。


「前回、ミナミベレディーと争った時に、最後の最後で粘り負けしてますから。見た感じあれから馬体も良くなってますよ。本音を言えばミナミベレディーを狙ってたんです」


 そう告げると、木内騎手はバツが悪そうな表情を見せたのだった。


◆◆◆


 桜花賞への出走決定。フラワーCで勝てないまでもハナ差の2着に入った事で、馬見調教師を含む陣営は大南辺が桜花賞へと出走を決定する事を確信していた。


 そして、その為の準備を始めている。


「鈴村騎手、プレッシャーをかけて申し訳ないが、次の桜花賞で明らかな騎乗ミスがあれば乗り替わりを決定せざるを得ない。その事は事前に通知させて貰う。ただ、明らかに騎手の問題では無い場合においては、掲示板に載れなくとも問題とする事は無い。流石に、惨敗した場合は判らんがね」


「前走のような事は二度と無いように努力します。今回、またチャンスを頂けた幸運を決して無駄にはしません」


 苦笑交じりに告げる馬見調教師に対し、鈴村騎手も目を逸らすことなく覚悟を告げる。


 鈴村騎手は、フラワーCですら実は緊張していた。同じ過ちを繰り返すのではないか、また騎乗ミスをするのではないかと。幸いにしてフラワーCでは、勝てないまでも騎乗ミスと言えるほどのミスは起こしていない。

 しかし、次はまさにGⅠ桜花賞。牝馬にとって最重要の一戦で緊張しないはずがない。


 それでも、前回のあのレースが終わった後、夜中に飛び起きるほどの後悔、苦しみ、それ以外にも他の騎手からの嫌味など、精神的に厳しい状況が続いていた。そういったものに向き合いながら、鈴村騎手はここ数か月を過ごしてきた。


「結果で見返すしかない世界です。頑張りましょう」


 それは何も鈴村騎手だけの話ではない。馬見調教師もまた、調教師として試されている。明らかにGⅠを獲得するには劣ると思われている馬。その馬でどうやって戦うのか。それを馬主達は見ているし、その結果次第で預託馬は増減する。自分の調教師としての寿命も日々変化しているのだ。


 鈴村騎手の表情を見た馬見調教師は、それでも上手く騎乗できるかは五分五分かと思いながらも前回ほどに酷い事にはならない事を祈る。


 ミナミベレディーに調教をつける為に部屋を出た鈴村騎手もまた、桜花賞への思いを胸に出来る限りの事をしようと思う。ただ、その思いの一部が若干おかしい事は本人も気が付いてはいる。


「過去の桜花賞のレースを見せたからって、勝てる訳じゃ無いんだけどね」


 そもそも馬が違えば能力も違う。出走するメンバーだって違う。それでも、少しでも参考になればと思うし、自分が見るだけでなくミナミベレディーと共に見る事で何かが変わるかもしれない。


 そんな非科学的な事でも試してみようと思う。今の自分にはそんな少しの事でも自信につながる。運を手繰り寄せる為に出来る事をする。そんな思いで鈴村騎手はノートパソコンを手に、ミナミベレディーの馬房へと向かうのだった。


◆◆◆


 北川牧場では、一人娘の桜花が今まさに大騒ぎであった。


 北川牧場初の桜花賞出走、自分が生まれてこの方、冗談でも話に出た記憶はない。


 自分の名前を冠する桜花賞、桜花としても勿論勝てるなど思ってもいない。それでも、自分の名前が付いているレースであるからこそ、桜花賞への思いや憧れは人一倍強かった。


「すごいよ! トッコが桜花賞に出走するなんて。若しかするとって期待してたけど、凄いよね! 桜花賞だよ! 新聞の切り抜きとか、応援馬券とか、色々と記念に取っておかないと!」


 既に桜花の頭の中では、堂々と桜花賞と印刷された馬券に、ミナミベレディーという名前が刻まれている。ただ、それを想像するだけでも堪らなく嬉しい。勿論、ミナミベレディーが勝ってくれるに越したことは無いけれど、トッコの適性などは嫌という程に聞かされている。


「騎手、鈴村さんじゃなくて鷹騎手とか、ロンメル騎手とかだったらワンチャンないかなぁ」


 ある意味もっともドライで現実的なのは、桜花なのかもしれない。


 競馬雑誌で予定されている出走馬を見ながら、ついつい一流騎手で空いている人が居ないかを確認してしまう。


「蟹江騎手とか空いてるっぽいけど、トッコには合わなさそうだなぁ。トッコは、そもそも鞭を使われると逆に失速するって言ってたし。馬に合わせた騎乗が出来る人って考えると残りの日数だと厳しそう」


 馬主や、調教師でもないのに真剣に競馬雑誌と睨めっこする女子高生。


 非常にレアな存在であるのは間違いないと思われる。


「桜花、何時まで馬鹿な妄想を言ってるの。それより、当日行きたいのでしょ?」


 恵美子の言葉に、ブンブンと首を縦に振る桜花。


 勝てないのだから態々行かなくてもと思わないでもない恵美子ではあるが、そこはやはり娘の名前を桜花にしてしまった責任のような物を感じなくはない。


「お父さんと行ってらっしゃい。流石にお母さんは厳しいけど、当日朝の飛行機の空きを調べておいてあげるわ。まあ普通と逆の流れだから空席はあるでしょ」


「ほんと! お母さんありがとう!」


 喜ぶ娘を見ながら、恵美子は小旅行のスケジュールを考える。


 土曜日に北海道へ来て、日曜日に大阪へ帰っていく。本州からそんな弾丸旅行を計画する人は少なくない。

 それに対して、土曜日に千歳空港から大阪へ行き、日曜日に帰って来る北海道人はそれ程多くは無かった。もっとも、まずは札幌へ出て、千歳空港から関空へ行って、そこから更に阪神競馬場へ行くとなると、それはそれで一大旅行になるのだが。


「阪神競馬場への行き方は覚えてる? 一緒に行けないから、金曜日の夜に出発にした方が良いのかしら?」


「お父さんに付いて行くから平気じゃない?」


「そうなんだけど、何か心配なのよねぇ」


 娘はそう言うが、夫である峰尾も阪神競馬場へは数回しか行った事が無い。その為、当日に向かおうとして、迷子になってレースに間に合わなかったなどとなると目も当てられない。


「はぁ、何か心配になってきたわ。私も一緒に行こうかしら」


 又もや競馬雑誌で桜花賞特集記事を眺めている娘を見て、恵美子は思わずそう呟くのだった。

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