第25話 ハナ差ですって
『春の日差しに照らされて、中山競馬場で行われます花咲き乱れるGⅢフラワーカップ、3歳牝馬限定、芝1800mを駆け抜ける16頭の・・・・・・』
競馬場に流れる解説と、場内に響き渡るファンファーレ。観客たちはある者は目の前で、ある者は正面の大画面でゲートへと収まっていく馬達の様子を今か今かといった眼差しで注視していた。
正面観客席の前にあるゲート前では、ファンファーレによる観客達の大歓声によって、一部の馬達はその歓声に引き摺られるように気性を高ぶらせている。それでも、奇数番号から順番に馬達はゲートへと収まっていった。
「手綱はゆったり、余裕をもって。手綱はゆったり、余裕をもって」
何か鈴村さんがブツブツと呟いています。でも、先程まで伝わって来ていた手の震えが、今は無くなっているから落ち着いて来たのかな?
「ベレディー、最後の馬が入るよ」
いつもの様に鈴村さんは私へと声を掛けてくる。声は何時もの様に落ち着いているし、前に走った時のような感じは無いから大丈夫かな。
一瞬そんな事を思いながら、私もいつもの様に係員の動きを横目で見てスタートの態勢をとります。
ガシャン!
係員の人がゲートを潜り外へ出て、その一瞬後にゲートは音を立てて開きました。
毎度毎度思うのですが、もっと静かにならないのでしょうか? 気の弱い私は、ちょっとドキッとしちゃいます。ただ、そのドキッとした驚きをスタート力に変えるのはもう慣れた物です。そのお陰もあって、いつもの様に綺麗なスタートを切れたかな?
「ナイスだよ!」
鈴村さんの誉め言葉に、思わずニッコリしちゃいます。そのまま手綱の指示に従って内側へと寄ると、無事に前寄りに着けることが出来ましたよ。
私より内側の1頭も綺麗なスタートを切った為、結局は半馬身差の2番手につける形になったけど。
そっか、1800mってすぐにカーブにはいかないんだった。
そう思うのは、外側から1頭飛び出していた馬が、この直線で私達を抜いてスルスルと前に出てそのまま先頭に立ちました。そして、それを追うように内側にいたお馬さんも前に進んで行って、2頭で先頭争いを始めちゃったんです。
でも、地味にここ坂になってますよ? 坂路ばっかりさせられてた私にはそれ程影響は無いと思いますけど、最初からここを勢いよく上るってすごいですね。
「ベレディーはこの位置で良いからね。あと、ぐるっと回ってもう1回この坂を登った先がゴールだからね」
なぜか鈴村さんがコース説明してくれます。ここで、私は漸く右側にあるでっかい飾りに気が付きました。
もしかして、これがゴールなのかな? 今まででっかい看板だと思ってた。
横目でゴールを見ます。でもですね、前2頭の後ろについているので前から土やら芝やらが飛んでくるのです。すっごく気になるんですけど、今は前走と同様に覆面と目の所に網が付いているので、目に何か入るといった恐怖はありません。
ただ、やっぱり目に向かって何かが飛んでくると条件反射で目を瞑っちゃいますけどね。
そうこうしている内に最初のカーブがやってきたのですが、まだまだ坂が続くのに、私の外側にも更に一頭お馬さんがスススと進んできました。
ハッキリ言って邪魔ですよ! 外を塞がれちゃうと思い切っての加速が出来ないんです。それでも、いつもの様に小回りを意識しながらカーブを廻っていると、そのお馬さんも前に行っちゃいました。
そしてようやく坂も終わって直線になります。
「前の2頭飛ばすなぁ」
鈴村さんは先頭を競り合っている2頭の様子を、思わずといった感じで口にします。
カーブを廻り切って直線になった段階で、前の2頭とは6馬身くらい差がついていますね。私は今先頭から4頭目です。
私は鈴村さんの様子は気にせずに、前からも後方からも響いて来るドドドドというお馬さん達の足音に、段々とワクワクする物を感じました。
だって、みんなで一定のリズムを刻んでいるのですよ? それって楽しくないですか?
私がワクワクしながら走っていると、直線も終わってまたカーブに入ります。
でも、その段階で後方のリズムが崩れてきます。
あれ? どうしたのかな?
そんな事を思っていると、コーナーの終わり付近で後ろにいたお馬さんが私に並びかけて来ました。
「ベレディー、直線に入ったら一気にスパートするよ! さっきの坂があるから、あそこで前の馬は抜くからね!」
鈴村さんが言い終わるのとほぼ同時に、私は直線へと向き合います。
それに合わせて一気にスピードを上げました。私としては、前のお馬さんよりお隣の馬の方が何か嫌な感じです。
貴方、鼻息が荒いですよ!
そんな事を言っていても仕方が無いのですが、前の馬が邪魔にならない位置取りを心がけます。
だってね、前を走る2頭に勢いは既に無くて、何となくもう疲れちゃった感じです。距離はちょっと開いているんですけど、それでも勢いはあるから外に膨らみますよね? そうすると、最内が良いのかな? 私が通れそうな隙間が~~~と思っていたら、前の馬が若干内側によれました。
「そこ! 突っ込むからね!」
鈴村さんが、懸命に私の首の上げ下げをしてくれています。
そのリズムに合わせるように私も首の上げ下げをします。直線に入って前の馬に伸びが無い中で、私はリズムを意識しながらどんどんと加速します。
何かすっごく楽しい! さっきまでの音楽のようなものが今も体の中で鳴り響いているみたい。
そして坂に差し掛かった所で、私は先頭を争っていた2頭のお馬さんを躱しました。あとは、前を走るのはあと1頭です。
「よし! 抜けた! あと少しだよ! 差すよ! 頑張って! 頑張って!」
坂を抜けた瞬間に、何か負担が一気に減った気がします。
それでも既に重くなってきた脚を、必死に動かしてリズムを刻みます。
前を走るお馬さんは、私よりも外側を走っています。先程の2頭をかわす為に外へと馬体を振ったのかな? ただ、ここで私との差は半馬身くらいになっていました。
ドドドドド
後方からの蹄の音もだんだんと近づいてきて、私よりも内側から1頭馬が駆け上がって来るのが視界の隅で見えました。
大外の状況何か全然判りません。ただ、さっき教えて貰ったゴールへ向かって必死に走ります。あそこを越えちゃえばレースは終わるのです。
「ふ、ふ、ふ、ふ、ふ」
鈴村さんの息遣いが聞こえて来ます。私の頭を押す時に力を入れる為に零れているみたいです。
内側から来るお馬さんは、大外のお馬さんも、私も一緒に今にも抜きそうな勢いです。というか、ちょっと抜かれてる?
そう思った瞬間、最後の晩餐の光景が私の頭に浮かび上がりました。
あの、ニンジンも、氷砂糖も、リンゴまで入った豪華なご飯。そのご飯を前にして、思わず叫び声を上げたあの時の思い。
死にたくないよ~~~!!!
疲れ果てた脚に一瞬だけ力が一気に戻った気がしました。そして、辿り着いた派手なゴール板。
やっとゴールだよ! そう思った瞬間、すっと力が抜けて並足になっちゃいました。
「ベレディー、お疲れ様! 勝ったかな? ゴール前の最後の一伸びで勝てたと思うんだけど。どうかな」
鞍上でそう言ってくれる鈴村さん。
勝ってると良いなぁ、でも、それ以上に何か疲れましたよ? ゴールが判らない方が何か気が張ったままで良かった気がする。ゴールを抜けた! って思ったら力も抜けちゃった。
「ブルルン」(疲れたよ~)
レースは楽しいけど疲れるね。今日は横になってぐっすり眠りたいです。でも、勝ってないとお肉街道まっしぐらですから。
そんな私と鈴村さんは、じっと掲示板を眺めています。あそこに1着からの番号が出るんですね。
ただ、写と審の文字もありますけど、何でしょうか?
「時間が掛かりそうだから戻ろうか」
私は鈴村さんに促されて検量室へと向かいます。
そして、検量されている間にどうやら順位が出たみたい? 遠くから歓声が聞こえて来て、鈴村さんがしょぼんとした様子でとぼとぼと此方へと歩いてきました。
その様子で何となく結果が判っちゃった私も、同様にしょぼんとします。
「ごめんねベレディー、鼻差だって、鼻差で負けちゃった」
「キュフン」(ごめんなさい)
最後頑張ったと思ったんだけど、鼻差って事は鼻の大きさで負けちゃったのかな? 私はそんなにお鼻は大きくないもんね。美馬だから、そこが駄目だったのかな?
「頭の上げ下げのタイミングもあるし、運が無かったのかなぁ」
「ブフン?」(あら?)
そっか、頭が前に出てれば勝てたかもしれないんだ。
もっとレースの事をしっかりと覚えないと、でも、あの張りぼての何処がゴールなの? 越えた所? それとも、入ったところ?
◆◆◆
馬主席からレースを見ていた大南辺は、息を止め、両手を握りしめてゴールの瞬間を見つめていた。
しかし、大外の馬に並びかけた瞬間、最内から追い込み馬がベレディーを飲み込むように突き進んできた。その時、咄嗟に周りを憚る事無く叫び声が口から洩れていた。
「あああああ~~~」
そんな夫の腕を思わず道子は引っ張りながら、レースよりも周りの視線を気にして思わずキョロキョロしてしまった。
「ちょっと、叫ばないでよ、恥ずかしいじゃない」
そんな妻の声も聞こえていないのか、大南辺はゴールした瞬間のリプレー映像をモニターで確認する。
ただ、そのリプレー映像を見ても、勝ったのか負けたのかの判断が出来ない。ドスンと椅子に腰を落とすと、電光掲示板へと視線を向けた。
「最後に一伸びしてくれたが・・・・・・」
自分の事をまったく無視して電光掲示板を睨んでいる夫に腹を立てながら、先程の叫び声を気にして周りの人達へと視線を彷徨わせる。しかし、誰も気にした様子など無く電光掲示板を睨みつけているのに気が付いた。
「はぁ、私には馴染めない世界だわ」
持ち馬が勝てば数千万の賞金が入る事は知っている。ただ、夫を見ている限りにおいて賞金が入る入らない以上の熱意があり、道子にはそこが今一つ理解できない。
そんな道子に、後ろの席から女性の声が掛けられる。
「ふふふ、勝ってると良いですね」
その声に振り返ると、品の良い同年代の女性が自分の事を見つめていて道子はドギマギする。
明らかに自分とは格の違う雰囲気を漂わせている。その為、誰だか判らないながらも道子は慌てて声を掛けて来た女性に自己紹介をした。
「あ、大南辺の妻の大南辺道子と申します」
「あら、ごめんなさい。十勝川勝子と申します。十勝川ファームという牧場を経営しています。私の馬もさっきのレースに出ていたのですけど、掲示板に載るかどうかという所ですわ」
「は、はあ」
競馬の知識がない道子は、掲示板が何かも判っていない。その為、となりで呆けてる夫に助けを求めようとした時、またもや夫が声を上げる。
「うあああ、2着かあ」
「ちょっと、あなた!」
思わず夫の腕を叩いてしまう。ただ、そのお陰で漸く夫は道子へと視線を向けてくれた。
「大南辺さん、残念でしたね。あと少しだったわね」
「え? あ、十勝川さん! すみません、気が付きませんで」
慌てて立ち上がる夫は、深々と十勝川に頭を下げる。
どうやら夫とは面識があるようで、その夫の態度からも自分達よりも一階級以上は上の人である事は間違いないようだ。
「まあ、気になさらないでください。私だって自分の持ち馬が勝ったかどうか際どければそっちに集中しちゃいますから」
そういってコロコロと笑う十勝川を、大南辺は慌てて妻に紹介するのだった。
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