第23話 次走が決まりましたよ
大南辺達の方針が決まらなくても、時間は止まる事無く進んで行く。
放牧に出されていたミナミベレディーの疲労も調教に問題無いくらいまで回復し、美浦トレーニングセンターへと戻されていた。
「疲れるのも早いけど、回復するのも早い馬だね」
栗東トレーニングセンターで磯貝厩舎を経営する磯貝調教師は、東京競馬場で開催されるレースに自身が調教する馬が出走する為に美浦トレーニングセンターへとやって来ていた。
そこで、ウッドチップコースを走るミナミベレディーを見て思わず声を漏らす。並んで歩いていた鷹騎手が、その声に思わず笑いながら尋ねる。
「気になりますか?」
「アルテミスでタンポポに勝った馬だからな。気にならないかと言えば、勿論気になるさ。ただまあ、悪い馬ではないが良くてGⅡという所だろう。アルテミスSは鷹騎手、君の騎乗ミスだよ?」
半分冗談、半分本気で鷹騎手にそう告げる磯貝であったが、それでも自厩舎のタンポポチャが無事にGⅠ勝利馬となった事で、その表情には余裕がある。
「あそこまで入れ込んでしまったら何も出来ませんよ。ただ、あのレースでタンポポも色々と学んでくれたみたいで、同じ馬と思えないくらいにレース前は落ち着くようになりました。あのレースは、タンポポも色々と勉強になったんだと思いますよ。若しかすると、ミナミベレディーの御蔭かもしれませんね。今の状態が続くなら牝馬クラシックも期待できますよ」
そう言って笑う鷹騎手を、呆れた様な表情で見る磯貝調教師ではあった。実際の所、目標である阪神ジュベナイルフィリーズを無事に勝利出来た事を鷹騎手に感謝している。
だからといって、あのアルテミスSの3着を納得できるかと言えば微妙であるのだが。
「鷹騎手から見てあの馬はどうなんだい?」
「そうですね、評価自体は先生と同じですね。ただ、どこか得体が知れないというか、そもそもあのアルテミスSも僕はあの馬が勝てるとは思ってなかったんですよね。あの馬の血統的に言ってもピークは4歳以降でしょう。それなのに勝っちゃいましたから、4歳以降化ける可能性が0では無いですね」
「ほう、鷹騎手にしては珍しく饒舌だね。ふむ、4歳以降か、注意しておこう」
「ええ、あの最後の粘りは凄かったですね。普通だったら絶対に頭が上がって脚は止まるはずなんですが」
「まあ、それでもタンポポなら勝てる」
「落ち着いていればですがね」
まだ軽い調整なのか、明らかに気分よくウッドチップコースを走っているベレディーを見ながら、今週末のレースの打ち合わせをする為に二人は厩舎へと戻って行った。
◆◆◆
そんな話がされているとは露知らず、ミナミベレディーは気分よくウッドチップのコースをタッタカと走っている。そもそも、ミナミベレディーは走る事を嫌がらない馬であるのだが、今は少々別の事情もあった。
ここ最近はちょっとお腹周りがですね、麗しのレディーとしてどうなのかと思えて来たのです。ちょっと、気持ち的になんですけど、お腹の所がポッコリしてきた? そんな気がしなくも無いので引っ込める為にも真面目に走っています。
ご飯は私にとって唯一の楽しみなので、ご飯を減らす事なんかできませんからね。
「ベレディーは真面目に走ってくれるから助かるわ」
いつもの様に鞍上にいる鈴村さんが、午前中の訓練を終えて馬房へと戻る時にそんな事を言い出しました。
「ブルルン?」(みんな走るの好きだよ?)
そもそも、馬は走る生き物です。牧場でも、食事をしているか、走っているか、ほんとに時々寝ているか、この3つしかありません。だから、私同様お散歩はみんな好きだし、思いっきり走る事も嫌いな馬は居ないと思いますよ。
「ん? ベレディー、調教を嫌う馬って結構いるんだよ。特に騎手を乗せるのが嫌いって暴れる馬もいるし。その点、ベレディーは素直で助かる!」
「キュヒーン」(わ~い、褒められた)
「こっちの言葉が理解できているとは思わないけど、ベレディーは理解しているみたいに思えるね」
褒められるのは好きなので、私は素直に喜びます。そんな私に鈴村さんはそんな事を言いますが、実際に理解出来ているんですけどね。勿論、言葉は話せないですけど。
そんな私は、鈴村さんに誘導されて洗い場へと連れて来られました。
ホースでお水をかけられるホース・・・・・・うん、寒いですね。水が冷たいのもあるんですけどね。その後、綺麗にタオルで拭いて貰って、ブラッシングタイムです。
ブラッシングは凄く好きなのです。
艶が出るほどに綺麗にブラシをかけて貰って、周りの人に綺麗な姿をお披露目したくて馬房までの帰り道は、いつも以上に愛想を振りまいて戻ります。
「ベレディーは綺麗好きだし、人懐っこいからいいよな」
「鞍乗せやハミも、騎乗自体も嫌がらないので良い子ですよ」
知らない厩務員さんからそんな声が掛けられて、鈴村さんがそれに返事をしています。
「ブルルルン」(褒められた~)
鈴村さんに引綱を引かれながらご機嫌で馬房まで戻ったら、そこに調教師のおじさん達がいました。
「鈴村騎手、ベレディーはどんな調子ですか?」
「良い感じです。放牧で十分リフレッシュしたみたいですし、反応も悪くないです。まあ休養明けですから、此処からの調教次第ですね」
鈴村さんの前走の落ち込みを忘れたかのような様子に、調教師のおじさんはホッとした感じ? どちらかと言うと私より鈴村さんの様子が気になっているみたいですね。
「ベレディーの次走が確定しました。3月の芝1800m、フラワーCです。ここは勝ちに行きますよ。そのレースの結果や、その後の状態を見て場合によっては4月の桜花賞へと進む覚悟をしておいてください」
「フラワーCの後に桜花賞は、ベレディーには厳しい気がしますが」
「その時の状態を見ながらです。勝てる可能性が少しでもあるなら、出走させたいと大南辺さんの意向です」
調教師のおじさんは、厳しい表情です。ただ、今もしかして桜花ちゃんの名前が出ました?
「ブフフン」(桜花ちゃん?)
一瞬桜花ちゃんがいるのかとキョロキョロしちゃいます。
「ん? ベレディー、どうした?」
調教師のおじさんが、私の様子に気が付いて落ち着かせるように鼻先を撫でてくれます。でもですね、桜花ちゃんはいませんよ?
「ああ、ベレディー、桜花ちゃんは居ないわよ。ごめんね、レースの名前なの」
鈴村さんは何か笑いながら私にそう教えてくれました。
「ああ、成程。桜花賞の名前に反応したのか」
「多分ですが、ベレディーは北川牧場の御嬢さんが大好きですから」
「ブヒヒヒヒン」(桜花ちゃん大好きだよ!)
其れは兎も角、何とレースの名前が桜花ちゃんと同じみたいです。
そういえば、昔に桜花ちゃんが何か言っていたような記憶がありますね。でも、もし出走するんだったら、ぜひ勝って桜花ちゃんに捧げてあげたいですね。
その為にも、まずは3月のレースを勝たないとでしょうか?
「ブヒヒヒ~~ン!」(がんばるよ~~~~)
目指せ桜花賞勝利なのです。
◆◆◆
ミナミベレディーの次走が決まる日の前日、大南辺は自宅でレース表を片手に云々と唸りながら、リビングを行ったり来たりしていた。その姿は妻にとってハッキリ言って邪魔以外の何物でもなかった。
「貴方、まだ悩んでいるのですか?」
大南辺は馬見厩舎での打ち合わせから自宅へと帰った後も、ミナミベレディーの次走をフラワーCにした事が良かったのか悪かったのか、悩み続けていた。
「せめてオープン馬、出来ればGⅢは勝てる馬が欲しいと言っていたのに、勝てる馬を持てたら持てたで欲が出るのですね」
そう言って笑う妻を見ながら、大南辺は確かにそれもそうかと苦笑を浮かべる。
「そういうお前は競馬場にすら来ないじゃないか。アルテミスSは勝ったのに」
妻は競馬には一切興味を示さない為、今までにも幾度か誘ったのだが一度として一緒に競馬場へと行った事は無い。そもそも、競馬場は馬主達の社交の場でもあり、特に重賞ともなると名だたる馬主が伴侶同伴で来るのが普通になっている。
「嫌ですよ。私は馬の事なんて全然判りませんし、会話にもならないわ」
毎度の遣り取りであるが、大南辺も今更嫌がる妻を無理に競馬場へ連れて行こうとも思った事は無い。
子供がいない二人であるから、お互いの趣味を尊重している。それが夫婦円満の秘訣だとも思っている。この生活に大きな不満を抱いた事などないし、それで良いと思っている大南辺だった。
また、妻である道子も同様である。変な所で女に引っかかるよりは、馬に熱中していてくれる方が安心できるとさえ思っていた。
馬主としての高額な経費に、当初は驚き内心では不満を持ってはいた。それでも、所有馬のレースがあると、いそいそと競馬場へ馬を見に行っている。そこに女の影は欠片も無い。
今回もわざわざ騎手を女性にした事でちょっと心配したが、そんな心配も幸い杞憂であった。
「まあ、強いて言えばミナミベレディーという女に入れ込んでいるとも言えなくは無いわね」
今や昼も夜もベレディー、ベレディーである。多少嫉妬しないでもないが、まあ馬なら仕方が無いかと思わなくもない。
「桜花賞出したいなぁ」
「出せば良いじゃ無いですか」
夫がここ最近、幾度も口にする言葉。珍しく道子はつい口に出してしまった。
もっとも、道子は桜花賞がどういう物かすら知らないが、そこまで悩むなら出せばよいと思う。
「そうなんだけど、勝てるとは思えないし、それなら勝てるレースに出す方が良いんじゃないかなと」
「別に勝てなくても良いじゃ無いですか、貴方の持ってる他の2頭は全然勝ててないじゃない。貴方の口から、最近は名前すら聞かなくなったわ」
「う、そうなんだが」
賞金が入ればそれに越したことは無いとは思う。それでも、そのミナミベレディーという馬は、購入費分くらいは既に稼いでくれたそうだ。これ以降はまったく稼げないという事も無いのだろうし、出したいなら出せばよいと思う。
「そうだなぁ、馬見調教師とまた相談してみるよ」
そう言って自分の部屋へと戻って行く大南辺の後ろ姿は、まるでクリスマスを待つ子供の様だった。
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