第21話 阪神ジュベナイルフィリーズ レース後

 レースを終えた香織は、ベレディーに騎乗しながら検量室で鞍を降りる。


 ゴーグルを外した顔は、目の周り以外は泥にまみれて真っ黒になっていた。そして、表情は自身の失敗を振り返り悲痛な表情を浮かべている。


「よう、お疲れさん。派手に失敗したな」


 立川騎手が香織の所へ来て、頭をポンと叩いた。


 香織は何も言い返す事が出来ない中で、今にも泣きそうな表情で立川騎手を見上げる。


「おいおい、死にそうな表情してるじゃねぇか、まあなんだ、失敗しちまったもんはもう仕方がねぇ、次だ、次に繋げろ」


 立川騎手にそう言われるが、今はその言葉すら香織の心には届かなかった。ただ、ぺこりと頭を下げ、雨でビショビショになった服をそのままに、外に居るであろう馬見調教師達の下へと向かう。雨に濡れた服など気にならないぐらいに、体も、足取りも重かった。


「不甲斐ない騎乗をして申し訳ありません」


 馬見調教師、蠣崎調教助手、馬主の大南辺、生産牧場の北川峰尾、それに桜花、みんなが揃っていた。香織はみんなを見つけ近づいて、挨拶前に深々と頭を下げる。


「鈴村騎手、まずはお疲れ様。無事にレースも終わり、ベレディーにも鈴村騎手にも特に怪我など無く終われたのだ、それで良しとしよう」


 馬主である大南辺さんは何処か吹っ切れた表情をしていた。


「レースは運不運もある、ましてや今日は生憎の天気で鈴村騎手に与えたプレッシャーは凄い物があったんだろう。まあ、次のレースへ意識を切り替えるぞ」


 馬見調教師も同様に、香織に厳しい言葉を言う事は無かった。


 香織は、最悪はこの場で次走の乗り替わりを告げられる事すら覚悟していた。しかし、それ以上にベレディー最大の武器であるスタートを台無しにしたあの瞬間、その感触は今でも手にしっかりと残っていた。


「スタートで、スタートで私が手綱を・・・・・・」


 話しながらも、ボロボロと涙が流れ出す。その為、あとに続く言葉が出てこない。


 それでも、なんとか話を続けようとする鈴村騎手に、そっと手が添えられた。


「お姉ちゃん、大丈夫だよ。誰もトッコがGⅠを勝つなんて思ってなかったよ!」


 普段着とはとても思えないおしゃれなワンピースを着た桜花は、そう言って香織の手を取る。


 しかし、そのあまりの言い様に、他の面々は思わず苦笑いを浮かべる。


「だからね、大丈夫なの。トッコもそう思ってるよ? あの子が雨の中をちゃんと走るなんて私吃驚したもん」


「そうだなぁ、雨の日は馬房から出る事すら嫌がる馬だったからな」


 桜花の言葉に、峰尾も同様の感想を述べる。その峰尾の言葉に合わせるように、蠣崎調教助手も言葉を続けた。


「ある意味、レースになっていただけ凄いですね。最後の追い込みはまあ頑張った方です、元々追い込み馬ではありませんから」


 皆の言葉に、香織はただただ不甲斐ない自分に涙を流すだけであった。


◆◆◆


 レース後、立川騎手と鷹騎手他数名のベテラン騎手は、久々に一同で会食をしていた。


 鷹騎手においては、持ち馬のタンポポチャがGⅠ勝利した故にその勝利を祝う会が開催されていたのだが、その会を中座しての参加であった。


 元々、飲酒をしない為に中座はいつもの事であり、誰からも何かを言われる事も無かったのだが。


「さてさて、まずはタンポポチャのGⅠ勝利おめでとうという所かな」


「ありがとうございます、でいいですか?」


「出来ればコンチクショウと言いたいところだがな」


「ですねぇ、GⅠ取りすぎですよ、そろそろ私達にも回してくださいよ」


 若手とは言えなくなってきた騎手達から、一斉にそんな声も上がる。レースが終われば一応は水に流す。これが騎手達のルールであり、本格的に何かを言うような騎手はそもそも呼ばれてはいない。


 そんな気心が知れたメンバーであれば、自然と今日の阪神ジュベナイルフィリーズの話へと移っていく。レース当日であればその流れは自然の事であり、その中で誰ともなくミナミベレディーと鈴村騎手の話になった。


「初のGⅠ挑戦ならあるあるな事ですが、レース前からガチガチでしたしね。重賞経験すら乏しい騎手に騎乗させる方が問題と言えば問題ですね」


「そうだな、勝ちたいならこっちに寄越せと言いたい」


 40歳、通算の重賞勝利数は25、内GⅠ勝利は6勝と、中堅中の中堅と言うべき騎手がそんな事を言う。


 その言葉に、場は一斉に爆笑に包まれる。


「確かに、まあ新馬戦から3連勝してるから。乗り替わりさせる理由はないからね」


「だな、人気薄で3連勝だ、ましてや主戦騎手を餌に騎乗依頼したともとれる。それでGⅠは乗り替わりと言われてみろよ、俺なら切れるね!」


 立川騎手の言葉に皆も同意する。自分達の立場でそれをやられれば堪ったものではない。


「そもそも、馬体は悪くないけど、そもそもステイヤーだよね。ましてや、GⅠを取れる馬かと言うと微妙だね。血統的にもね」


「血統主義者が此処にも居たか!」


「目安は必要だよ。走ると思ったけど走らなかった馬なんて、それこそザラにいるからさ」


「お前達は贅沢なんだよ。俺は鈴村が羨ましくて仕方が無いぞ。何でおれに話が来なかったんだってな」


 騎手達は常に良い馬、勝てる馬を熱望している。それは何もGⅠだけに限った事ではない。


「まあなんだ、立ち直りにはちっと時間が掛かるかもしれんな。今日の6着は馬に助けられての事だからな。惨敗してても可笑しくはない」


「まあ、それも経験さ」


 ある意味、誰もが通って来た道と言っても良い。そんな会話の中、一人の騎手が思った事を素直に口にする。


「なあ、乗り替わりはあるかな?」


「さて?」


「まあ、こんな負け方をしちゃあな」


 中堅騎手達は、互いに顔を見合わせるのだった。


◆◆◆


 北川牧場では、トッコ残念だったね会が開かれていた。


 ただ、どちらかと言えばその会は悲壮感など欠片も無く、自家生産馬が初めてGⅠを走り、その中で6着になったお祝い会みたいな雰囲気であった。


「いやぁ、GⅠ出走での緊張感はすごかったよ。覚悟してはいたけど、今思えば楽しかったが、レースが始まる前から終わるまでずっと緊張で凄かったね」


「お母さんも来ればよかったのに、みんなすっごくおめかししてて、見てるだけで楽しかった」


 桜花も、態々新しいワンピースを買って貰っていた。流石はGⅠというべきか、主力馬の馬主達はそれはもうお金持ちが多く、誰もが桜花からすれば物語に出て来る貴族のようにも思えた。


「馬鹿ねぇ、私まで行ったら誰が馬の面倒を見るのよ。私とさっちゃん、トモ君3人でも大変だったんだから」


 北川牧場は従業員は2名しかいない。ほぼ家族経営と言って良い。通常はアルバイトを頼むのだが、恵美子はアルテミスSの時に行ったばかりであり、無駄な散財は控えたいのが財務担当の本音だった。


 もっとも、口には出さない恵美子の本音としては、流石にミナミベレディーがGⅠを勝てるとは思っていなかったというのも大きい。勿論、自家製産馬であるミナミベレディーに勝って欲しいという思いは強かった。それでも、長く牧場の財布を握っている立場としては現実を見ないとならない。


「勝てなくても6着は凄い事よ。来年はまたGⅢくらいなら勝ってくれるかもしれないわね」


 恵美子としても、まだ2歳の段階で此処までの実績を出してくれるとは思ってもみなかった。嬉しい誤算であり、キレイ産駒としては3歳から5歳くらいまでは十分に期待できるのだから、それ以上を望むのはと思う。


 それでも今回のレースは、もしかしたらGⅡなら勝ってくれるかも? そんな夢を抱かせてくれる走りでもあった。


「明日はキレイをそれこそ綺麗にしてあげましょう。ほんとにあの子はうちの牧場の功労馬だわ」


 恵美子としては、ミナミベレディーよりも、長い付き合いであるサクラハキレイへの思いの方が遥かに強いのであった。


◆◆◆


「あああああああ~~~~!!!」


 香織は自室のベットの上で、唸り声を上げながらのたうっていた。


 いつもの様に帰宅して、録画を見る。


 見たくは無い、見なくても、今もその時の記憶は鮮明にある。手には感触がしっかりと残っている。それでも、香織は敢えて今日のレースを見た。その結果が今の状況に繋がる。


 ゲートの中に入り、いつものローテーションで香織はミナミベレディーへと話しかけた。そして、ゲートが開くタイミングでミナミベレディーがグッと体を沈めたのが判った。


「判ったのに! あの時、確かにベレディーがスタートする準備をしたのが判ったのに!」


 あの時、頭と体が全く別々の動きをしていたようだった。


 いつもの様に頭では段取りが出来ていて、それでいながら体は硬直して思う様に動かなかった。それこそスタートした時、香織はベレディーから落馬する寸前だったのだ。


「あの時、ベレディーが私を揺り上げてくれなかったら絶対に落馬していた」


 スタートの時、私が硬く短く握りしめてしまっていた手綱。その為にベレディーは轡を引かれた状態になり、私はその反動で前に放り出されかけた。もし落馬していたら大怪我を負っていたかもしれない、騎手を辞める事になったかもしれない、最悪死んでいたかもしれないのだ。


「ベレディーが頑張って前に前にと走ってくれて・・・・・・」


 ボロボロと涙が零れて来る。


「明日、ベレディーに会いに行こう。そして謝ろう」


 相手は馬だから判る訳が無い。そんな考えは欠片も浮かんでこなかった。


 香織の中に占めるのは、ただただベレディーへの申し訳ない気持ちと、あの時の感謝の気持ちしか無かった。


◆◆◆


「ブフフン」(今日は楽しかったな)


 レースには勝てなかったけど、雨で泥だらけになったけど、そんな事が気にならないくらいに自由に走れて私はご機嫌だった。


 レースの後にはしっかりと綺麗になるように手入れもして貰えたし、いつも以上に念入りにブラシもかけて貰えた。


「キュイイーン」(ご飯も豪華だったし!)


 レースには勝てなかったけれど、なぜかみんなが優しくしてくれたなあ。


 疲れはしたけど前回ほどは疲れなかったし、でも雨でやっぱり走りにくかったよね。雨で滑るのはやっぱり怖いな。


 そんな事を思いながらも今日のご飯に意識は戻る、ニンジンも氷砂糖も、リンゴすら入った豪華なご飯を思い出してついつい涎が零れそうになった。


「ブフフフン」(美味しかったなぁ)


 いつもあんなご飯だと嬉しいのに、今日レースだったからご褒美かな? 負けちゃったけど、頑張ったもんね。


 そんな事を思いながら、ふと、そういえば今日は負けちゃったのに何でご飯があんなに豪華だったの?


 私は、そんな疑問に辿り着いてしまった。


 まさか、負けちゃったから? 若しかすると、さ、最後の晩餐とか?


 死刑囚の死刑執行前には食事が豪華になるって聞いた事がある。という事は、もしや今日のご飯は最後の晩餐?


「キャヒーン!」(うわ~~~ん、死にたくないよ~)


 突然ミナミベレディーが何かに怯えだす。原因の判らない厩務員たちは、突然の事に右往左往し、獣医も馬見調教師も呼ばれるが、様子を見ても何処にも異常は見られない。


 ただ、その過程で交わされるみんなの会話で、どうやら馬肉は無さそうだとようやく理解したミナミベレディーが、レース後の肉体的疲労と、精神的な疲労で爆睡するまで騒動は続いた。


「ブフフン」(馬肉は嫌ぁ)


 ミナミベレディーは爆睡しながらも、馬肉になる夢を見ているのか、寝言で迄つぶやいていたのだったが。

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