第19話 阪神ジュベナイルフィリーズ 前編
『阪神ジュベナイルフィリーズ、生憎の小雨が降る中、馬場状態は稍重。この馬場状態が、うら若き乙女達の熱戦にとう影響を及ぼすのか! 2歳牝馬の頂点を目指し、間もなく18頭のプライドを賭けたレースが今始まろうとしています。1番人気はデイリー杯を勝ちました・・・・・・』
ターフビジョンに流れる実況を聞きながら、大南辺は食い入る様にしてターフビジョンに映し出される、パドックを回る馬達の様子を窺う。普段であれば自身でパドックへと向かい、馬の状態を見る大南辺だが、前日から続く緊張にパドックで直接見る事無く、馬主席へとやってきていた。
「ベレディーの様子は悪くなさそうだな」
映し出される映像を見る大南辺の口からは、それしか言葉に出てこなかった。
憧れのGⅠに自分の持ち馬が出走している。ただそれだけで込み上げてくるものがある。ベレディーの新馬戦は、牝馬限定とはいえ芝1200mと適正距離より短いレースだった。別のレースにするべきだったのか、様々な思いが交錯する中でのベレディーは勝ち切ってくれた。
「あれは感動したな。嬉しかったな」
近年、自身が所有する馬達が勝利から遠のく中で、勝てるかどうか、周囲からの低評価の中での勝利。それ故に、大南辺は通常以上にこの勝利に喜んだのだ。
その後の2戦目コスモス賞。
ここでも、牝馬である事、血統的な評価も相まっての人気薄でありながら、先行からの粘り勝ち。手に汗握るあのレースからまだ半年も過ぎていない。
そして迎えた重賞戦、GⅢアルテミスS。芝1600mとベレディーからすれば短い距離を逃げ切り、最後まで有力馬タンポポチャと争いながら、息を吐くことなく1600mを粘り切った。デビューから重賞を含めての3連勝、3戦無敗、大南辺の頭の中に、その時当たり前にこの阪神ジュベナイルフィリーズがあった。
それ故に、当初ミナミベレディーがこのGⅠへ出走が出来ないと聞いた時、非常に大きなショックを受けた。
ミナミベレディーがデビューする時には、オープン馬でしっかり賞金を稼いでくれたら。ある意味売れ残っていた馬であり、もしかしたらGⅢを1個は勝ってくれるかもしれない。
そんな期待しかなかった。その思いが、大南辺からすると僅か3戦で容易く達成できてしまったように感じた。それ故に、その先に広がる世界へ欲が沸き上がって来た。
「勝てなくても良い。ただ、自分の馬がGⅠを走った。その思い出だけでいいんだ」
GⅠレース、それは馬主達にとってまさに憧れのレース。
大南辺はそう自分に言い聞かせながら、じっとターフビジョンを見つめるのだった。
◆◆◆
その頃、鈴村騎手は騎手控室で思いっきり震えていた。
今日の第3Rで1勝馬に一鞍騎乗し、5番人気5着という可もなく不可もない結果で終わっている。ただ、それで緊張が弱まる訳では無い。
「それでも練習出来たと思えば、GⅠだって、いつも通りでいいんだよ。いつも通りで、ベレディーに無理させずにだから、勝てなくても良いんだから」
そう言って、必死に自分に言い聞かせる。
それでも、レースが近づいて来るにつれて自然と体に、手足に震えが走る。
「た、立てるかなこれ」
がくがくと震える足を手で押さえながら、思わずそんな言葉が零れる。
すると、目の前に誰かが立ち止まった。
「思いっきり震えてるやないか。初GⅠ騎乗でビビっとるな」
視線を上げると、ベテラン騎手の鷹騎手と、立川騎手が立っていた。
「あ、えっと」
何と返して良いのか判らずただ黙り込む香織に、両騎手は笑いながら香織の両肩をそれぞれ叩く。
「力が入っとるぞ」
「リラックスしないとレースにもならないですよ。初騎乗なんです、駄目で元々って気持ちで」
恐らく私の様子を気にして、二人は声を掛けてくれたのだろう。けれど、緊張はぜんぜん緩和される様子の無い私を見て、二人は笑いを苦笑に変える。
「GⅠ初騎乗なんです。緊張するのは仕方ないですが、とはいえレースそのものは別に変りませんよ? 走り出せば、あっという間に終わります」
「ああ、走っちまえばあっという間だ。そもそも、俺達に勝てると思ってるのか?」
「は、走ってみないと判らないです!」
香織は条件反射的に反論をするが、口の中はカラカラだった。
「その意気だ、ほれ、気合入れていけよ」
「馬を信じて、馬が走らなければ何をやっても駄目だからね。アルテミスの時を思い出せば、まあ形にはなると思いますよ」
そう言って離れて行く二人を見ながら、香織は改めてベレディーへと思いを馳せた。
「そ、そうだよね、私がこんなんだったらベレディーに負担がかかっちゃうよ」
パンパン
両頬を叩き、自分に気合を入れて立ち上がる。ただ、自分の脚は今もガクガクと震えているのが判る。
「水が飲みたいなぁ」
ただ、今この状況で水を飲む事なんて出来ない。
レースが終わったら、コップ一杯の水を味わって飲もう。そう思いながら香織は帽子を手に取って立ち上がったのだった。
◆◆◆
パドックではいつもの様に特に緊張することなく、私はグルグルと引綱に引かれながら回っています。今日のゼッケンは6番なので、割と前の方かな? 偶数番号だから、ゲートの中であまり待たされないのは嬉しいです。やっぱりあの狭い所は圧迫感がありますよね。
ただ、さっきから小雨が降って来て、なんかすっごく嫌です。
何時もの様に覆面を付けられて、目の所に網目状の物を付けられています。ただ、網目なので目の所に水滴がつくんですよね。顔をブルブル振って水滴を払うんですけど、何かすっごく目障りです。ただ、まだ小雨なので良いのですが、本降りになってきたらどうするんでしょうか?
ただ、前を見辛いのは見辛いんですよね。あと、濡れた芝で脚が滑りそうで嫌ですね。
「トッコ、がんばれ~~~!」
声の聞こえた方向を見ると、なんと桜花ちゃんが応援の垂れ幕まで作って応援してくれています! うんうん、やっぱり応援の垂れ幕があるのと無いのでは嬉しさが違いますね。何となく華やかな気持ちになりますよ。
「キュイーーン」(わ~~い、ありがとう~)
桜花ちゃんに向かって嘶くと、桜花ちゃんも大きく手を振ってくれます。
ただ、いつもとは違うのは、パドックを隙間なく取り囲むように集まる人、人、人。桜花ちゃんは最前列で牧場のおじさん達といるから良いけど、そうで無ければ群衆に飲み込まれちゃいそうです。
そして、今日はトラックを廻る中には見た事のある馬も数頭居る事がわかりました。前に一緒に走ったお馬さんかな? お名前までは憶えて無いけど、アルテミスSで最後まで走ったタンポポチャさんは覚えてます。
「ブフフフン」(こんにちわ~)
「ヒヒヒ~ン」
うん、何を言っているのか判らないですけど、お友達みたいな感じになっていますよね? あのアルテミスSのレース後に、お互いに判りあった仲ですからね。
視線が合っても前みたいに敵対心は・・・・・・あれ? 思いっきり睨まれてますよ? 前のような感じではないですが、何でしょうライバル的な? そう思う事にします。私のメンタル的に。
すると、止まれの号令で一斉に騎手の人達が出てきました。勿論その中には鈴村さんもいます。
ただ鈴村さんの動き方が、なんかカクカクしているような気がします?
「ううう、ベレディーは落ち着いているなあ、私は思いっきり緊張してるんだけど」
鈴村さんが私の横に来て、私の首をトントンとしてくれます。でも、やっぱり鈴村さんの方は思いっきりガチガチに緊張していますね。
「ブフフン?」(大丈夫?)
逆に私が心配になって、ベロンと鈴村さんのお顔を舐めました。
「うわ、ベレディー、もう! はぁ、でもありがとう。やっぱり緊張しているのが丸判りなんだね」
鈴村さんは、ここで漸く顔を綻ばせて、私の首に一度しっかりと抱き着きます。その後、厩務員さんに手伝って貰って私に騎乗しました。
「うんうん、今日も頑張ろうね。でも、無理しちゃ駄目だからね」
騎乗した鈴村さんに促されながら、私はトンネルをくぐり本馬場へと向かいます。
チラリとみると、桜花ちゃんが慌てて応援幕を畳むのが見えます。あれってレース毎に出すのでしょうか? たぶん許可制なのかな? 良く判りませんね。
本馬場に入って、走ってみんなが集まるゲート前に移動します。その際に芝の感じが判るのですが、何か湿ってて脚がちょっと滑りそうで嫌な感じです。
「芝が滑るから飛ぶような走りは危険かな。ピッチ走法が有利となるのは厄介だよね。追い込み馬は、う~ん」
何か一人で唸っている鈴村さんだけど、なるほど、大きく駆けて芝で滑ったら転んじゃうよね。どれくらい滑るのかは判らないけど、注意するに越したことは無いよね。
馬だまりでは相変わらずグルグルと回るのですが、前までのレースと違って今日のメンバーは比較的落ち着いている感じかな? こうやってみんな慣れていくんだね。
でも、そうなると私の利点がだんだん減っていくって事? それは拙いですね。
「ブフフフン」(勝てる時に勝たないと?)
でも、お母さんが勝ったGⅢを既に勝っているから、そこまでピリピリしなくて良いのかな?
何か色々と思考の沼に入りそうになった時、フンフンって息遣いが間近で聞こえました。
「フヒ?」(ん?)
視線を上げると、何時の間にかすぐ傍まで来ていたタンポポチャさんが私に視線を向けていました。
何か目の中に、炎でも燃えていそうな視線です。
あの、一応ですが私達牝馬同士ですからね? 馬に百合世界はありませんよ?
思わずそんな事を言いそうになった時、遠くでラッパの音と、手拍子が聞こえて来ました。
「は、始まるね」
何かこのラッパの音が、またもや鈴村さんを緊張の坩堝に叩き込んじゃいました?
ちょっと落ち着いてきたかなって思ったんですが、これは心配ですね。
「ブフフン」(大丈夫だよ~)
騎手を見上げる様に頭を上にします。
そうすると、まだ降っている雨が水滴になって目の前に流れていきます。
「ベレディー、ごめんね。やっぱり緊張が移っちゃうよね。大丈夫だよ、うん、レース、今はこのレースに集中する!」
「ブルルルン」(頑張ろうね~)
鈴村さんに声を掛けてあげるんです。本当だったら、さっきの様にお顔を舐めてあげるのが良いのかも? ただ、鞍上にいるので出来ませんね。
その後、奇数番号からお馬さんが順番にゲートへと入っていきます。
今日は順調にゲート入りが進んでいて、私達もすんなりとゲートへと入りました。
「いよいよだからね。最後の馬が入ったら出るからね」
うん、でも手綱を握る手に力が入ってますよ? 鈴村さん大丈夫でしょうか?
そんな状態でも、最後の馬がゲートに収まって係員の人が出ていくのが見えました。
私はいつもの様に、スタートに備えてグッと馬体を沈めます。
ガシャン!
いつもの様に、ゲートが開くと同時に私は飛び出します。でも、この時、いつもと違って手綱が引っかかって首が上手く動かせなかったんです。
「きゃあ!」
あれ?
そう思った瞬間、出足が思いっきり遅れました。
鞍上で鈴村さんが何かバタつく様な挙動をします。この感覚は前に調教助手さんを乗っけて走った時に一度経験していたので、何が起こったのかが判りました。
「ブヒン!」(危ない!)
速度を緩め、頭を上げて落馬しそうになった鈴村さんが体勢を回復する為の補助をします。
すぐに鈴村さんは体勢を整えたのですが、気が付けば思いっきり出遅れていました。
おおお、お馬さんがだいぶ前にしかいない。
鈴村さんが大丈夫そうなので、慌てて速度を上げて追いかけます。ただ最後方という位置になっちゃいましたね。う~ん、ちょっとこれは拙いかもしれません。
「ベレディー、ごめんなさい!」
うみゅ、思いっきり涙声の鈴村さんの声が聞こえて来ました。
緊張で手綱を短く持った状況のまま、スタートしちゃったんだろうなと今なら判ります。それが判っても、何の解決にもならないんですけどね。
フンフンフン!
このまま最下位で終わっちゃったら、ちょっと鈴村さんのメンタルがヤバそうですね。
鈴村さんの為にも、ちょっと無理をしてみましょう。
女は度胸、男は財布、トッコさん逝きま~す!
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