第17話 次走迷走

 馬主となったからには、一度は勝ってみたいGⅠレース。未だGⅠを勝ったことの無い馬主であれば、誰もが思う事であろう。

 実際にレースへ出走出来たからと言って、勝てるとは限らない。

 それでも、出走しない事には勝つことは絶対にない。まさに宝くじと同じ原理である。


「それで、実際の所はどうなんだい? ミナミベレディーは出走できそうにないのかい?」


 大南辺の問いに、馬見調教師は顔を顰めざるを得なかった。


 11月頭には、まだベレディーは引綱での歩行すら難しい状態であった。しかし、あの馬特有の睡眠時間が多い事が功を奏したのか、それとも治療が上手くマッチしたのか。その両方かもしれないが、ベレディーは先日から美浦トレーニングセンターに戻されて、負担の少ないプールで調教を開始していた。


「予想以上の回復で、昨日から美浦トレセンへ戻って来て様子を見ています。今の時間でしたら、脚への負担を考えてプール運動をさせている頃だと思います」


 流石に馬主である大南辺に聞かれて嘘を言う訳にはいかない。


 それ故に真実を告げるのだが、ベレディーにとって阪神ジュベナイルフィリーズへの出走は、決して良い事では無いと馬見調教師は確信していた。

 馬見調教師が今一つ実績を残せない理由の一つが、馬の健康第一主義のせいかもしれない。それでも、馬見調教師は自分は馬達の御蔭で生活できている。


 未だかつて、その気持ちを忘れた事は無い。


「それなら、ダメもとで登録だけでもしておいちゃ駄目かい? ほら、土壇場で登録しておけばって後悔したくないし」


 大南辺は馬見調教師の報告に、目をキラキラさせて頼み込んできた。


「しかし、まだまともな調教すら出来ない状態です。この後、軽めの調教で様子を見る予定ですし、問題無ければ本格的な放牧へと送り出す予定です」


「でもさ、勝てる可能性があるのに走らせないのも。ほら、GⅠ馬になればベレディーの将来だって安泰だよ?」


 ベレディーは確かに血統的に弱い、血統で特に馬主達の購入意欲を煽る何かがあるかと言えば、実際の所は無いと言わざる得ない。

 ベレディーが引退後に成功するかどうかは、やはり現役時代の成績に頼らざる得ないだろう。


「しかし、ここで無理をさせても、故障でもしてしまえば終わりです。

 サクラハキレイの産駒は、皆が4歳から5歳にかけてがピークです。ここで無理をさせなくても、故障さえしなければGⅢクラスならあと一つや二つは勝ってくれるかと」


 馬見調教師の言葉に、今度は大南辺が顔を顰めて黙り込む。


 万が一、本当に万が一ではあるが、勝てるかもしれない。そんな思いが大南辺の心の中を占めている。


 3戦3勝、デビュー後無傷の3連勝なんだ。勝てると思っていなかったアルテミスSだって勝てたんだ。馬主が、所有馬に夢を見て何が悪い!


「馬見調教師、言いたいことは判る。だが、故障で出られないというのなら仕方がない。だが、出られるのに出ないのは嫌なんだ。頼む、この通りだ」


 大南辺は、深々と頭を下げた。


 この行動に馬見調教師は慌てた。自分のような実績も少ない、弱小調教師が馬主に頭を下げさせたなどと言った噂が流れようものなら、今後の調教師生活に支障をきたすかもしれない。


「お、大南辺さん、頭を上げてください! 判りました。出来る限りの事はします! ですから、頭を、頭を上げてください!」


「ありがとう! ありがとう! 勝手を言って申し訳ない!」


 そう言って頭を何度も下げる大南辺を、落ち着かせるのに馬見調教師は大変な労力を払う事となった。


 そして、ミナミベレディーの阪神ジュベナイルフィリーズ(GⅠ)への出走が・・・・・・登録される事になる。


◆◆◆


「ブヒヒン! ブヒヒン!」(泳げないです! 溺れちゃいます!)


 自分の次走がそんな風に流転しているとは欠片も思っていないミナミベレディーは、美浦トレーニングセンターのプールで調教を行っていた。


 当初は初めてのプールに本人? 本馬? のテンションはダダ上がりで、プールで泳ぐ気満々であったのだが、実際にプールへと入ると様相が変わった。


「ブヒヒ~~~ン」(久しぶりのプールだ)


 初めて連れてこられた建物に、当初はおっかなびっくりな私でしたが、中を見るとなんとプールがありました!


 最初は、空いている短めのプールへと案内されたのですが、歩くときに水の抵抗があり、その感覚が楽しくご機嫌でプールを渡り切ります。


「ブルルルン」(何か楽しいね~)


 脚への負担は良く判りませんけど、普段と違う感覚が思いの外楽しいかな。


「水への忌避感は無いみたいだな。水が顔に掛かると嫌がるかと思ったが、そんな様子もなさそうだ」


 調教助手の蠣崎さんは、もう1回プールの入口へと回ってプールを渡らせてくれてます。何となくお遊び感覚で、私はご機嫌ですよ。


「プヒン?」(あれ?)


 次に別の所のプールへと案内されます。


 先程と違い、今度は進むほどに水深は深くなり、次第に足が届かなくなる? 蠣崎さんは、さらに先へと綱を引いていきます。


「キュヒヒン!」(引っ張っちゃ駄目!)


 私の鳴き声にも頓着せずに進みます。私は溺れないように、必死に犬掻きならぬ馬掻きで泳ぎました。


 あわわわわ、足が付かない! 溺れますよ! 溺れちゃいますよ!


 嘶く余裕すら無く必死に脚を動かします。動かさないと沈んでしまいますから必死で脚を動かします。


「よしよし、上手だな。頑張れよ、プールは脚への負担を少なく鍛えられるからな。今のベレディーには最適なんだぞ」


 蠣崎さんが、そう声を掛けてくれます。理由は判りましたよ、でもね、余裕はないよ! 必死だからね!


 綱を引かれながら、馬ってこんなに泳ぎにくいの? 平泳ぎは無理だものね! 馬掻きしか出来ないよね!


「ブフフ、ブフフン」(溺れる、溺れるよ)


 溺れたくない一心で、必死に前に進みます。脚が付かないのがすっごく怖いです。


 そんなプールでの調教を何度かさせられて、思いっきりヘトヘトになっちゃいました。


「ブヒヒ~~ン」(疲れたよ~~)


 牧場を走る爽快感もないので、ただ疲れたという印象しかありません。


 最初のプールを見た時の感動を返して欲しいです! プールでの自由時間を切に願います。


 でも、プールの後には氷砂糖は必須ですね! 蠣崎さんから氷砂糖が貰えたので、ちょっと気持ちは持ち直しました。あくまでも気持ちはで、疲労はそのままですけどね。


 馬房へと戻って飼葉をモソモソと食べていると、調教師のおじさんと、ご主人様、調教助手の蠣崎さん、更には鈴村さん、更に更にいつもの獣医さんと皆さん揃い踏みでやって来たので吃驚です。


「ブフフフフフン」(あのね、プールは疲れるの!)


 今日のプールでの事を報告します。でも、みんなは私の報告ではなく何やら相談中です。


「コズミは殆ど無くなっています。歩行時などで気になる所もありませんし、今日のプールでも問題を感じる事無く調教が出来ました」


 蠣崎さんが、みんなに今日の私の様子を伝えてくれます。


 そうですよ! もう放牧してくれて構いませんよ? プールじゃ無く、思いっきり牧場を走りたいですよ!


 そんな事を思いながら、キラキラした眼差しで私は皆さんを見ます。


 その間にも、私を触診していたお医者さんが、漸く立ち上がります。


「特にどこかに異常を感じる事は無いですね。どこかが腫れたりといった様子もありませんし、私から何か言う事はありません。強いて言えば、この子はまだ2歳で、まだまだ成長途中で馬体が定まっていないという事くらいですね」


 お医者さんの言葉に、みなさん頷きます。ただ、今回も私は皆さんが何を話しているのか良く判りません。雰囲気的に、ただ体調確認しているだけでは無さそうかな。


「どうだね、調教には入れそうかね」


 ご主人様が調教師のおじさんへと尋ねているのが聞こえますが、あれ? 放牧じゃなくって調教ですか?


 てっきり治療が終われば、桜花ちゃんの牧場へ行くのだと思っていました。


 それが調教という事は、もしかしてまたレースを走るのかな? あの強烈な筋肉痛が治った直後ですから、ちょっと気分ではないですよ?


「ブヒン?」(走るの?)


 首を傾げて調教師のおじさんへと尋ねます。その調教師のおじさんは、厳しい表情で私の状態を確認しています。


「馬体がガレ気味でしたが、漸く飼葉を食べる量も増えて来ています。体重も、回復してきたところです。ただ今この状態で、強い調教は厳禁ですが。軽めの調教で馬体を回復させて、それからの問題ですね」


「う~む、それで、出走できそうなのかね?」


 どうやらご主人様が私を出走させたいみたいです。ただ、調教師のおじさんは反対っぽい?


「回復次第としかお答えできません。状態を見ながら調教を強めていくしかありません」


「むぅ、まあ仕方が無いか。色々と思う事はあるだろうが、よろしく頼む」


 ご主人様は調教師のおじさんへ深々と頭を下げました。


 そして、調教師のおじさんは、慌てて頭を上げて貰う様にとお願いしています。ただ、この遣り取りの間ずっと黙り込んでいた鈴村さんが、私へと近づいて来ました。


「ベレディー、なんかとんでもない事になったけど、出走する事になったら無理せずに頑張ろうね。無理して怪我しちゃったら、元も子も無いからね」


「プヒン」(わかった~)


 鈴村さんに鼻先を撫でながら、どうやら私はまた放牧ではなくレースを走る事になったようです。


「それにしても、阪神ジュベナイルフィリーズかあ、まさか私がGⅠで騎乗する事になるなんて、はぁ、胃が痛い」


 鈴村騎手は、ミナミベレディーの次走は来年の3歳対象のGⅢくらいだろうと思っていた。それが、突然呼ばれて駆けつけてみれば、まさかの阪神ジュベナイルフィリーズ出走の話だった。


 ただ、内々にではあるが、馬見調教師から走らせることがあっても、決して無理をさせないよう言明されたのだった。


 前走で無理させちゃったからね。でも、ベレディーも頑張り屋だから、私がしっかりしないと。


 鈴村騎手は、GⅠへの緊張と、ミナミベレディーをどう走らせればよいか、次走に向け早くも緊張で胃が痛くなってくる。


「さて、明日からしばらくはプールだね」


「ブヒヒヒヒ~ン」(え~~~嫌! プール嫌い!)


 今日一日で一気にプール嫌いになった私でした。

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