第16話 全身が軋みますよ

 アルテミスSを無事に勝利したミナミベレディーは、美浦トレーニングセンターで診察及び治療を受けていた。その様子を馬見調教師本人は何でもない様子を装っているつもりみたいだが、周りの誰が見ても心配している事が丸判りである。


「う~ん、全治2週間ですかね? とりあえず注射でコズミの治療を行いますが、2週間は安静にして様子を見る事をお勧めします。幸い他に異常は見られませんが、あのレースで異常が無いなんて丈夫な子ですね」


 競馬場の獣医からも同様の診断を受けていたとはいえ、翌日に確認したミナミベレディーのあまりの様子に心配が再燃したのだった。その為、獣医師の診断に改めてホッとする関係者達である。


「馬主の大南辺さんとも話しまして、年内はもう出走させるのはやめようと」


「そうですね。私が口を出す事ではありませんが、その方が良いですね。まだまだ2歳ですから」


 先程から獣医師との会話の中で、なぜかベレディーは注射という言葉に反応している気がする。

 ベレディーはそういえば予防接種も嫌がってたな。暴れるわけでは無いのだが、なぜか注射を見ると目を瞑るのだ。


 さっきから頻りに訴えるように鳴いているが、まさか注射は嫌だと言っている訳ではあるまい。


「コズミが全身に出て辛いのでしょう。すぐに用意してきます」


 以前から何かとミナミベレディーを可愛がってくれている獣医師ならではの対応の速さで、コズミを和らげる筋肉注射をしてもらった。


「あと、消炎クリームはありますか? 右の脚が特にコズミが酷い様なので、しっかりと塗ってあげてください。少ないようであれば処方します」


 獣医師と今後の打ち合わせを行い、ミナミベレディーの治療計画を立てる。その中で、馬見調教師はもう少し状態が改善してから、ミナミベレディーを放牧させる事とした。


「しかし、1レース毎に放牧を繰り返してますね。ベレディーも全力で走りすぎる所がありますし、コズミは兎も角として、もっと大きな怪我をしてしまわないかが心配ですね」


 蠣崎調教助手の言葉に、馬見調教師も同意見だった。


「それはそうだが、全力でなければ勝てないレースばかりだからな。ただ、ベレディーは祖父と違って頑丈だな。そこは安心できる要素だが」


 余裕を持って勝てるほどに、才能がある馬ではない。


 それはミナミベレディーを管理している調教師の自分が一番理解していたし、この馬が勝てているのは本来馬が持っている限界を少しばかり超える事が出来る為なのだろう。


「引退時期を見誤らないようにしないとだな」


「そうですねぇ」


 蠣崎調教助手と顔を見合わせて、馬見調教師は大きくため息を吐くのだった。


◆◆◆


 私はレースが終わって、思いっきり筋肉痛に悩まされています。


 普段からあんなに走っているのに筋肉痛になるのは、普段以上に無理をするからだと調教師さん達が話をしていました。


「ブヒヒン」(痛いよ~)


 嫌いな注射まで打たれたので一気に楽になるのかと思ったら、残念ながらそんな甘くはありませんでした。もうレースが終わって3日は過ぎたのに、まだ体がギシギシ言っているような気がします。


「ベレディー、大丈夫か? 他に痛いところは無いか?」


 毎日、厩務員さんが様子を見に来てくれますが、まだまだ良くなる気配がないのです。痛みのせいで食事の量も減っちゃいました。


 体を解す事と、腸を動かす為とか、ずっとジッとしていると逆に体に良く無いそうなので、引き運動はされるんです。本当ならずっと寝ていたいんですけど、寝藁を汚せないので頑張ってお散歩はします。


「キュヒーン」(まだ痛いの~)


 厩務員さんに自分の状況を悲しそうに伝えます。すると、リンゴを持ってきてくれてたようです!


「ほら、これなら食べる気になるだろ?」


 そう言って差し出されるリンゴさん! 体をゆっくりと動かしながら、出されたリンゴに噛り付きます。


モグモグモグモグ


 リンゴはやっぱり別格の美味しさがありますね! ニンジンとかは飼葉と一緒に出されることがあるのですが、リンゴは滅多に食べれないのです。


 お口の中に広がるリンゴの甘みに、一瞬ですが体の痛みが消えちゃう気がします。


「北川牧場と大南辺さんから、ご褒美にそれぞれ段ボールいっぱいのリンゴが送られてきたんだぞ! ベレディー、よかったな」


モグモグモグ


 嬉しさを表現したいのですが、お口にリンゴが入っていて出来ません。


 でも桜花ちゃんのお母さんかな? ありがとうございます! 牧場のおじさんはあんまり気が利きそうにないので、たぶん間違いではないと思います。


 リンゴを食べていると、漸くですがお腹が動き始めた気がして食欲が出始めます。出されたリンゴを食べた後、設置されていた飼葉桶に顔を入れてモグモグとご飯を食べ始めました。


「食欲が出てきたかな? これで一安心だな」


 モグモグとご飯を食べている私の頭を撫でながら、厩務員さんは安心したような表情を浮かべました。


「ブヒヒ~ン?」(でもまだ痛いのよ?)


 ちゃんと主張しておかないといけないので、しっかり主張はしておきます。


「そういえば、タンポポチャ号も大きな怪我も無く休養に入るそうだ。ベレディーと仲良くなったみたいだから、もし休養先で一緒になったら一緒に遊べるかもな」


「ブフフフフン?」(桜花ちゃんの牧場に行くんじゃないの?)


 しばらく放牧になるって聞いていたので、また桜花ちゃんの所へ行くのかと思ってたのです。でも、今の感じでは違うみたいですね。ちょっと残念です。


 その後、更に数日が経過して、痛みが和らいできた所で馬運車に乗せられて、比較的近くの牧場へと連れてこられました。なんか北海道へ行かなくても休養馬の為の牧場が近くに用意されているそうです。


 北海道はたぶんもう寒いですから、そう考えるとこっちで冬を越す方がまだ体には良いのでしょうか? 精神面では桜花ちゃんには全然敵いませんけどね。


「おお、これはアルテミスS勝ち馬のミナミベレディーですか」


 牧場に着いたら、一緒について来た厩務員さんに此方の馬房へと案内されました。


 馬房へとやって切ると、二人のおじさんが待ち構えていて私の事をじ~~~っと観察してきます。思いっきりセクハラ視線ですね。見るのがお尻とか、お尻とか、ちょっとは遠慮しても良いと思います。


「あ、戸嶋さん。あとで事務所へと行こうと思ってたんですが」


「いえいえ、私が早くミナミベレディーを見たくてね。コズミが酷いと聞いていましたが、いかがですか? 見た感じだいぶん回復してきているようにも見えるんですが、大丈夫なんでしょうか?」


 ちょっと年配のおじさんが厩務員さんに尋ねますが、痛みはまだ残っているんですよね。でも、そろそろ自由に走り回りたい気もするんです。ずっと休んでいると動きとかが鈍りそうですよ?


「そうですね、体を解させるくらいは良いそうです。ただ、それも様子を見ながらになるので、特にベレディーは1頭で放牧させても勝手に運動しちゃうところが厄介なんです。それで、明日うちの馬見がお邪魔する予定になっています」


 放牧と聞いていたのですが、何かイメージが違いますね? 前回のように牧場で自由にさせてもらえないのでしょうか? それはともかく、おやつを下さい。お腹がすいてきましたよ!


◆◆◆


 11月の第3週土曜日、大南辺は東京競馬場へとやって来ていた。


 自身の出走馬が走るわけではないが、今日のメインレースGⅢ、東京スポーツ杯を見に来ていた。


「う~ん、牝馬で上位は4着に入ったネオカサブランカか、やはり牝馬では勝ちは厳しかったかな」


 1着、2着、3着を牡馬が占め、そこから1馬身差4着に牝馬のネオカサブランカが入着した。出走頭数もあるにはあるが、ここにベレディーが出走していたとして勝てるとは思えなかった。


「2歳牝馬だけで限定すれば、アルテミスステークスの様に掲示板までなら行けそうなんだけどなぁ。ただ、GⅠとなると、やっぱり阪神ジュベナイルフィリーズは無理かなぁ。先日休養牧場へ移動したみたいだが、コズミも順当に良くなってるんだよな」


 何と言っても結果だけ見るならばミナミベレディーは新馬戦から無傷の3連勝、新馬戦、コスモス賞、アルテミスSと順当と言って良いぐらいの結果を残している。


 馬主である大南辺に、夢を見るなと言う方が酷と言う物かもしれない。


 GⅠへ所有馬が出走した経験など、大南辺にあるはずがない。そもそも、重賞初制覇が先日のアルテミスステークスなのだ。今後の馬主生活において、GⅠ出走など2度と巡ってこないチャンスなのかもしれない。


「賞金額も実績だって問題無い。あとは馬自体の調子なんだが、それも回復傾向にある。レースは12月だし、此処から調子だって上がって行くよな?」


 本人は気が付いていないが、出走させるための後付けの言い訳でしかない。


「タンポポチャも、出走登録したみたいだしなあ」


 先日の、ある意味死闘ともいえるレースを競い合ったタンポポチャは、その後の回復も早く阪神ジュベナイルフィリーズへの出走登録を行っていた。もっとも、今の段階では実際に出走するかどうかは、今後の状態や追い切りなどを参考にして判断するそうだが。


「そうだよな。ベレディーだって条件は同じだ。登録だけでもしておこうかな」


 大南辺は馬見調教師を何とか説得する為に、美浦トレセンへと向かう事を決めるのだった。

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