第12話 次走はアルテミスS(GⅢ)だそうです
馬運車で、えっちらおっちらやって来ました美浦トレーニングセンター。
「ブルルルン」(長かったね~)
思いっきり寝てたので、それ程は影響は無いのですが、普通なら腰が痛くなっちゃいますよね。
美浦トレーニングセンターは、馬見調教師の厩舎がある本拠地と言えば良いのでしょうか? 助手のおじさんは、私と一緒に馬運車で移動してきました。新幹線とかならもっと早く着くのでしょうけど、お馬さんは乗れませんからね。
「よしよし、ゆっくりで良いぞ」
助手のおじさんの案内で、馬運車を降りながら周りの様子に興味津々な私です。
「ブルルルン」(色んな匂いがするね)
育成牧場もそうでしたが、それ以上に雑多な匂いが立ち込めていますね。キョロキョロと見渡せば、至る所にお馬さんや、大勢の人が行き来しています。忙しないですね。
「馬房に案内しておいてくれ、俺は事務所に行ってくる」
そう言って助手のおじさんは、迎えに来ていたお兄さんに私の引綱を渡し、そのまま何処かへと歩いて行っちゃいました。
私は素直に別の人に連れられて、新しい場所の中を移動していきます。
「お? 見かけない馬だね。馬見さんの所の波多野君だったかな? そうすると、この馬はミナミベレディーかな?」
トコトコ歩いていると、今度は知らないおじさんに声を掛けられます。
「プフン?」(誰?)
キョトンとした表情で知らないおじさんを見ていると、知らないおじさんはゆっくりとした動作で、私の横へとやってきて首を撫でてくれます。
「ほう、大人しいね。それに美人さんだ。やっぱりお母さんのサクラハキレイに何処となく似ているね」
ゆっくりと首を撫でてくれながら、私の事を褒めてくれます。うん、この人は良い人です! あと、お母さんの名前が出ましたね。
「あ、武藤調教師、お世話になっております」
調教師さんという事は、馬見調教師の同僚さんかな? それなら氷砂糖とか持ってないかな?
フンフンと調教師さんの匂いを嗅ぎますが、残念ながら何かをくれる気配はありません。
「おお、人懐っこいね。キレイは何方かと言うと人見知りだったから、そこは遺伝しなかったようだね」
「何かくれるんじゃないかって期待してるんですよ、ベレディーは食いしん坊ですから」
お兄さんが笑うのですが、むぅ、タダで触らせてあげるほど私は安くないのですよ!
「おや? ご機嫌を損ねちゃったみたいだね。当面はうちの馬とレースが被らないと思うけど、お手柔らかにお願いするよ? しかし、サクラハキレイの産駒なら、うちで預かりたかったなあ」
そう言って首をポンポンしていっちゃいましたが、何だったのでしょうか?
「さあベレディー行くよ。それにしても油断できない人だね、武藤さんは」
お兄さんは何かブツブツ言っていますが、そんな事よりお腹が空いてきましたよ? 馬運車の飼葉って少ないのです。
厩舎の馬房へと案内されて、漸く人心地つきました。出して貰った飼葉もモリモリと食べます。
車の移動は馬になる前にも当たり前にありましたから、それ程には疲れは無いです。ただ、暇なのが玉に瑕でしたね。早く走り回りたいのですが、これから診察があるそうです。
その後、お医者さんと調教師のおじさんが来て、更に鈴村さんもやって来て、満員御礼? 皆さんお久しぶりですね? でも、お土産持って来ても良いのですよ? リンゴとか、リンゴとか?
「移動の疲れは無さそうですね。次のレースまで少しありますから、ゆっくりと絞って行きましょう」
調教師のおじさんの言葉にみんなが頷きますが、私一人は憂鬱になります。絞るって言う事は調教が厳しくなって、ご飯も減るんだろうな。
「次走は10月末にあるGⅢアルテミスステークスで登録しました。悩みに悩んでの芝1600mですが、牝馬で1600はやはり一度は走らせておかないととの判断です。11月の牡馬と競わせるより牝馬限定で勝ちを狙います」
「やっぱりアルテミスSですか」
鈴村さんはちょっと黙り込んじゃいましたが、GⅢですか。これは判りますよ。お母さんやお姉さん達が勝ったレースですね。早くも挑戦ですか。とにかく頑張ろうと思います。
◆◆◆
美浦のトレセンへミナミベレディーがやって来て既に2週間が過ぎた。ミナミベレディーは新しい環境にすんなり馴染んで、最近では周りに愛嬌を振りまいているそうだ。
そんなミナミベレディーの調教をつけながら、香織はついつい次走に意識が向いてしまう。
アルテミスステークスかぁ、そうだよね。この時期で考えればそこしか無いと思う。
香織はミナミベレディーの調教をつけながら、次走に決まったレースで、勝ち負けまで行けるかを冷静に考えるが、当たり前に結論は出ない。
勝てないとは言わない。またもや牝馬限定だし、1600mは適正的にどうかと思うけど、2歳馬のレースは不確定要素が多い。その点で言えばベレディーはスタートも良いし、その点では不安の少ない馬だよね。ただ、問題は対抗馬となる馬達か。
「有力馬が3頭かぁ、タンポポチャとか早熟の血統だし、騎手も鷹さんとかだしなぁ」
流石は重賞という所で、一流騎手と呼ばれる人たちが揃い踏みだ。その中で自分が勝てるかと言えば、自信など欠片も無い。ライバル馬よりもその馬に騎乗する騎手に委縮している香織だった。
「ブルルン?」(どうしたの?)
坂路を一本終えたミナミベレディーは、私の様子が気になったのか耳をピクピクさせている。
「ごめんね、何でもないよ。ベレディーは今日もいい感じだね」
「プヒヒ~~ン」(わ~~い、褒められた)
ベレディーは褒められるのが好きな馬だ。人の感情を良く読むので、そこは気をつけないといけない。
この美浦にきての調教で、決して他のオープン馬に比べて劣るという感じも無い。調教も嫌がらないし、人の指示に従順で騎乗しやすい。
「これで負けたら私の腕なんだろうなあ」
思わずそんな言葉が零れてしまう。
やはり久しぶりの重賞、それも勝てるかもしれない馬での騎乗。香織はこれ程のプレッシャーを久しく感じた事が無かった。いつも負けて仕方がない馬でどうやって勝つか、それが当たり前になっていたから。
「うわぁ、すっごいプレッシャーだよ」
「ブフフン?」(どうしたの?)
「ごめんね、何でもないよ」
ミナミベレディーの首を撫でながら、次走の展開を考えるのだった。
◆◆◆
「やはり野路菊Sを勝ったタラントファインとクローバー賞勝馬のプロミネンスアローが要注意か。あとは新馬勝から上がって来たタンポポチャだな」
予定出走馬の登録票を見ながら、馬見調教師は顔を顰めている。
「普通、野路菊Sを使ってここに出すか?」
「まあ間隔が短いと言えば短いですね。クローバーからなら判りますが、それ以上にタンポポチャが怖いですけどね。栗東から態々こっちに来ますし、勝つ気満々ですよ」
出走メンバーを見て、ミナミベレディーが劣るとは言えない。ただ、血統を考えれば早熟や早めの血統が有利なのは間違いが無いし、前走の勝ち方を見るに有力馬達の末脚は間違いなくベレディーより上に見えた。
「枠順がすべてか。外枠引いたら、ちと厳しいな」
「外枠で勝っている馬はみんな追い込み馬ですからね。展開次第ではあるのでしょうが、先行馬が少ない事を祈りましょう」
「それにしても17頭は多すぎだろう。あ~~~、このままアルテミスで良いのか悩むぞ。昨年はもっと少なかっただろう」
2歳牝馬としては、出来れば次へのステップにしたいアルテミスSだ。それ故に今年は17頭もの出走登録がある。土壇場での出走回避も無くはないが、それでも良くて13,4頭の出走になるだろう。
ただ馬見調教師が信条とする、馬に負担を出来るだけ掛けないという点では、コスモス賞の次にアルテミスSは最適なレースである。
「ただ、コスモス賞を勝った馬がアルテミスを勝った記憶が無いんですが」
「お前が無知なだけだ! よし、今度もし負けたら減給な」
「え~~~、それは酷いですよ!」
「変な事を言うお前が悪い!」
ギャーギャー言う蠣崎を余所に、馬見は未だに出走レースで頭を悩ませていた。
◆◆◆
「次走はアルテミスSに決まったらしい。久しぶりの重賞挑戦だな」
「すごいね! 重賞をもし勝ったら、前は私が小学6年の時だよ! ねえお母さん、当日は私も連れてって!」
北川牧場では、トッコの次走がどのレースになるのか、ここ最近の話題はその一点だった。
ミナミベレディーが新馬戦から2連勝した事で、サクラハキレイの当歳もなんと3000万で購入して貰えた。
トッコの倍の金額である。血統からしても破格の値段であり、若しかすると最後の産駒という事でのご祝儀的な一面もあったかもしれない。ただ、それはそれとして、トッコが重賞挑戦、更に勝ち負けも期待できるという点は非常に大きい。
馬主とはロマンにお金をかけている者達だからだ。
「勝つにしろ負けるにしろ、怪我無く走って欲しいわね」
「お母さんはそう言うけど、やっぱり勝って欲しいな。GⅢでも生産者賞で100万くらい出るんだよね?」
競馬の場合、賞金の8割は馬主が持って行く。そして、残りは調教師10%、騎手5%、厩務員が5%となり、生産牧場は出走馬においては奨励金などが頼みとなっている。
「トッコに1600mは微妙よね。だからと言って牝馬限定でなく牡馬も一緒に走る1800mは、それはそれで厳しいわ。悩み処よ」
生産牧場の妻である恵美子は、当たり前に出走レースの事も把握している。峰尾と共に牧場を経営してきたが故に、過度な期待を持つことは無くなったと言っても良い。
生産者はロマンだけでは食べていけない、それ故にロマンは峰尾にまかせ、自分はこれまで冷静に状況を判断してきた。
「掲示板に載れば良い所じゃないかしら? キレイの子は遅咲きばかりだから、トッコも4歳以降に期待するわ」
そう言って笑う恵美子に桜花はぶーぶーと文句を言う。
「もしかしたらトッコは桜花賞に出られるかもしれないよ? 私の名前がついてるレースなのに、うちの馬は走った事ないんだもん」
桜花の言葉には、みんなが苦笑を浮かべる。
牧場の娘という事で安易につけたつもりは無いが、桜花にとっては何か思う所がずっとあったのかもしれない。
そう考えれば、この北川牧場で近年初の2歳でのオープン馬である。トッコは桜花にとっては、初めて夢に繋がる馬なのだろう。
「そうね、トッコも桜花が行けば頑張るだろうから、一緒に行きましょうか」
そう言いながらも恵美子は頭の中で往復の旅費を計算し始めているのだった。
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