第10話 トッコさんはお疲れです

 無事にレースも終わって厩舎に戻ってきたら、前以上にドッと疲れが襲い掛かって来ます。


 今日のレースを思い出すと、何と言ってもあの視界に迫って来るお馬さん。このままでは追い抜かれそうな恐怖感。うん、ブルブルと震えが来ます。良く勝てたなあ、そんな思いが頭を過ります。


「ベレディー、お疲れ様。ほら、飼葉と水を新しくしてあるぞ、あと寝藁も綺麗にしておいたからな」


 厩舎に戻ると、目の前で厩務員さんがそう声を掛けてくれます。そして、厩務員さんに案内されながら自分の馬房に入ると、食事よりまずは寝たいです。普段は食いしん坊な私ですが、今日はご飯より睡眠です。


 そう思って寝そべりたいのですが、そこへお医者さんがやってきました。


「おやおや、お転婆娘がすっかり大人しくなっているね。余程疲れたようだな。ちょっと診るからもう少し我慢してくれよ」


 脚を順番に触って、お口の中なんかも見られますが、診察なので仕方が無いですね。


 診てくれるお医者さんの表情を見ながら、診察が終わるのまだかな~と待ちます。疲れているから早く寝たいのです。


「よしよし、終わったぞ。ベレディーは水は飲んだか?」


 私の首をトントンしてくれたので、お医者さんにお礼代わりに鼻先でツンツンすると、お医者さんは鼻先を撫でてくれながら厩務員さんに尋ねています。


「いえ、疲れているからか飲まずに寝ようとしてたと思います」


 流石は担当さんです。私が寝ようとしていたのは丸判りみたいです。


 お医者さんは、水の入った桶をトントンとして今度は私に声を掛けます。


「ベレディー、頑張ってお水は飲んでくれ。それで少しは疲れが楽になるからな」


「ブルルン」(う~がんばる)


 そう言われると飲まないと駄目ですよね。


 お水を飲んでいると、お医者さんが厩務員さんにご飯の内容を指示していました。


 その中に、ニンジンと氷砂糖も含まれているのを聞いて、思わず大喜びしちゃいます。尻尾はブンブンしますよ。


「この子は、どうやら氷砂糖やニンジンと言う単語を覚えてしまっているみたいだね。賢い子だなあ」


 そう言ってお医者さんはポケットから角砂糖を取り出します。


「キュイーン」(わ~い、角砂糖だ)


 今もらった角砂糖をモキュモキュしながら、ご飯が楽しみになります。それでも、今は眠気が強いので寝ますよ。


 お医者さんにご挨拶をして、寝藁にごろんと横になりました。


「ブフフン」(おやすみなさい)


 そのまま目を閉じて、お眠りタイム突入です。


◆◆◆


 馬見調教師は厩舎に戻り、大南辺さん、鈴村騎手と3人で今後の打ち合わせに入っていた。


「鈴村騎手、最高の騎乗だった。良く勝ってくれた」


「いえ、ベレディーの粘りに助けられました。前走もそうでしたが、あの最後のしぶとさは中々のものです」


 鈴村騎手も昨日のレースを振り返って思わず笑みが零れる。


 そんな鈴村騎手と同様に、向かい側に座る大南辺も満面の笑顔だった。


「8番人気だったからね。実際のところ掲示板に載りさえすれば上出来だと思ってたんだけど、いやぁ、これでベレディーの購入金額はほぼクリアしちゃったよ」


 大南辺の発言が本心かはともかく、無事に一着を取り満面の笑みを浮かべている。そんな大南辺を苦笑を浮かべながら見ていた馬見調教師は、次走への出走がしばらく後になる事を告げた。


「当初はあわよくば札幌2歳ステークスを考えていたのですが、レース後の様子を見て短期放牧に出そうかと思っています」


 馬見調教師の発言に大南辺は驚きの表情を浮かべるが、鈴村騎手は納得した表情で頷いた。


「あの子はちょっと無理をするみたいですから、レース直後はともかく、先程馬房に様子を見に行っていた感じではぐったりした様子でした。少し間隔を空けた方が良いと、私も思います」


 鈴村にとって、今日ミナミベレディーがオープン馬になれた事はそれこそ飛び上がるほどに嬉しい。それに、今日のレースの手応えでは、GⅢであればもしかすると、といった夢すら抱かせてくれる。それ故に慎重に、慎重にと育てていかなければ、何せまだ馬自体が2歳馬なのだから。


「そうかぁ、残念だけど本職が二人も言うのだから仕方がないね。無理をさせて怪我でもしたら大損だ」


 馬主らしい物言いに苦笑を浮かべる二人ではあったが、厩舎に戻ってからのベレディーの様子には非常に神経を尖らせていた。


「脚が熱を持っているのは仕方がない。コズミの症状が出ているようですから、しばらくはゆっくりさせたいですね」


「大事になりそうですか?」


「腫れなどは確認できていませんから大丈夫だとは思うのですが、まだ2歳ですから慎重に行きましょう」


 馬見調教師の言葉に二人も頷く。


「そうすると治療センターに送るのですか?」


 大南辺の質問に、馬見調教師は生産牧場である北川牧場で2週間ほどのリフレッシュを考えている事を説明した。


「それで大丈夫なのですか?」


「ええ、久しぶりの里帰りですし、あの桜花ちゃんへの懐き具合からしてもリフレッシュ出来ると思いますよ」


「次走が決まりましたらご連絡ください。間違ってもブッキングできませんから」


 鈴村は、6月以降に勝ち鞍を3つ伸ばしていた。そして、昨日はオープン戦で下位人気の馬で勝ち星を挙げた。そのお陰で少しずつではあるが、乗鞍の数が増えて来ている。そして、その中にはもちろん2歳馬の騎乗もあった。


「まあ主戦として鈴村騎手を起用しているから無茶な横槍はないと思うが、注意しておくに越したことはないな」


 そう言って笑う馬見調教師ではあるが、実際にはそうそう笑える話でも無い。特に一流ジョッキーともなれば引く手数多、あの手この手で騎乗して貰おうとする事は普通にある。ましてや所有馬の多い馬主の意向は非常に強く、騎手どころか調教師もその意向を無視することは出来ない。


「まあ鈴村騎手でなければと判断して、邪魔してくる者は少ないだろう」


「そうですね、私ではない方が勝てると思われる人の方が多いんじゃないでしょうか?」


 大南辺の言葉に鈴村騎手も苦笑を浮かべながらも同意する。逆に鈴村騎手が下手な騎乗をしようものなら、大南辺に猛烈にPRしようと思っている騎手は多いだろう。


「さて、次走はともかくとして、これでベレディーも無事オープン馬になれました。まだ2走しかしていないが、ベレディーをどう見ますか?」


 大南辺の問いに、馬見調教師も鈴村騎手も少し考える素振りをする。


「適性はやはり芝の中距離ですね。1600も行けなくはないと思いますが、勝ち負けは厳しいと思います。あと長距離も2400くらいまでですかね、3000以上となると厳しいと思います」


 馬見調教師の意見に頷いた大南辺は、次に鈴村へと視線を向ける。


「馬としてはこう言っては何ですが、現状は中の上でしょうか? 飛びぬけて足が速い訳でも無いですし、持久力がある訳でも無いと思います。ただ、驚いた事に最後の粘りは凄く高評価です。普通なら垂れる所を、しっかりと残してきました。それに、あの子は非常に賢いです。ゲートのスタートなどもしっかり覚えていますから、あれは今後を戦う上で凄い武器になると思います。まだ2歳ですし、早熟の血統じゃないですから、これからの成長にも期待できると思っています」


 鈴村騎手の意見に、馬見調教師はちょっと首を傾げた。


「具体的には何かあるか?」


「やはり一番の武器はスタートです。私はスタートの時にもうじきスタートだよって声を掛けるんですが、そうするとあの子はグッと身構えるんですよ。御蔭様で2回ともベストのスタートが出来ています。先行馬のベレディーにとってこのスタートは武器です」


 鈴村の説明に、馬見調教師は驚愕の表情を浮かべ、大南辺はうんうんと頷いていた。


「他にはあるかい?」


「此方の指示を的確に理解してくれて、スパートの指示には直ぐに応えてくれます。反応が早いですよね。加速力はそれなりに? だいたいそれくらいでしょうか?」


 馬見調教師は頷きながら、次は今判っているだけの欠点を話す事になる。


「まずは泥や砂などが顔に当たる事を嫌がるかな。これはメンコなどで今の所は対応できているが重馬場や雨の日などは多分駄目だろう」


「そうですね、特に目に砂とかが入るのを嫌がりますから、雨は駄目だと思います。北川さんにも聞きましたが、雨の日は外に出たがらなかったそうです」


 少ないとはいえ難儀な問題ではある。天気は選ぶことが難しい。月間予報なども平気でズレるから参考にしかならない。ただ、昔からこういう馬は多かれ少なかれ存在する。


「次走については、2週間後にまた打ち合わせをしましょうか。10月か、11月か、それくらいで走る事になります。大南辺さんも宜しいでしょうか?」


「そうですね、判りました。私も次走をどうするか考えておきます。さて、予約した焼き肉屋の時間もありますし、そろそろ移動しましょか。今日は私の奢りですので鈴村さんも気兼ねなく食べてください」


 その言葉に、鈴村は苦笑を浮かべてお辞儀をする。


 ここ最近は減量も大変なのよね。程々、程々が一番よ。


 そんな思いを抱きながらも、女性としての矜持も有り中々言い出せない物であった。


◆◆◆


 さらに翌日、いつもより遅い時間に自宅に帰宅した香織ではあったが、いつもの習慣で本日のレースの録画を再生する。


『札幌第10R 2歳馬芝1800m良馬場で行われ・・・


 ゲートが開き各馬一斉にスタート、ややバラけたスタート。先頭に立つのは3番ファニーファニー 2番手にはミナミベレディー、3番手キタノシンセイがその後ろ・・・・・・』


『最終コーナーを回りまして、先頭はトッポリライダー、ファニーファニーは2番手、その内側から突き抜けて来たのはミナミベレディー! 鞍上の鈴村騎手! 必死に手綱を扱いて先頭を追い抜かん勢いだ! 更に大外から1番人気インスタグラマーが上がってきた! ここで先頭は替わりましてミナミベレディー、前走に続き勝利を狙えるか鈴村騎手! 大外からインスタグラマー並びかけていきます。最内からクルヨが追い込んで来た!


 ミナミベレディー、粘る! 粘る! 鈴村騎手必死に馬の頭を押します! 粘って粘ってミナミベレディー今一着でゴール! なんとなんと勝ったのはミナミベレディーだ!』


 実況を聞きながらレースを振り返っていた香織は、知らず知らずに握りしめていた拳を緩めた。


 改めてレース全体を見ると、トッポリライダー、ファニーファニーが壁になってインスタグラマーの伸びが遅れたように見える。


「今日も運に助けられたのかも、でも運も実力の内だよ!」


 ミナミベレディーがオープン馬になった。GⅢ勝利だって夢じゃなくなった。


 そして映像を見て改めてミナミベレディーのスタート力が際立っている事を実感する。


「ふへへへへ」


 今日も不気味な笑い声を漏らしながら、香織はベットへと疲れた体を潜り込ますのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る