③甘い蜜(わな)にはご注意を

 蜜谷さんと食事する当日、アタシは彼が指定するレストランの前で待っていた。

 緊張のあまり約束の1時間前に来てしまった。当然、蜜谷さんはまだ来ていない。レストランは都内でもオシャレな街の1つである六本木にあった。六本木はお金を持て余した人間が上品に遊ぶ街というイメージがアタシの中にある。


 そんなオシャレな街である六本木なんてアタシみたいに醜い女には場違いな気がして一度も訪れたことがない。それに周りの人間にお前が来るような場所じゃないという陰口を言われる気がして来たくはなかった。

 でも、蜜谷さんがアタシをどうしても連れて行きたい場所がある。

 そう言われてしまっては行きたくないと断れない。


 アタシは自分の気持ちを押し殺して六本木にやって来た。

 オシャレに気を遣ったことがないアタシはリンゴさんにお願いして蜜谷さんと食事へ行くためのドレスを選んでもらった。


 リンゴさんは似合っていると言ってくれたけど、本当かな。

 疑うわけじゃないけど、周りの人の視線が痛々しいものを見るように感じて仕方ない。

 アタシは周りからの視線を気にしながら、蜜谷さんが来るのを待った。

 蜜谷さん、早く来ないかな。

 アタシは今までに感じたことのない緊張感に襲われていた。就職活動の面接前の圧迫感とは、また違う胸の鼓動が止まらない。

 これが女として見られたことによって生まれる緊張感なのかもしれない。


「マリアさん」


 アタシを呼ぶ爽やかな声に気づいて振り返る。そこにはスーツ姿の営業部の蜜谷さんの姿があった。

社内でも遠目でしか見たことない蜜谷さんがこんな近くにいる。


「マリアさん?」


「あ、お疲れ様です」


「そんな固くならないでよ」


「はい」


 蜜谷さんはアタシに緊張させないように気を遣ってくれている。

 でも、その気遣いが逆にアタシを緊張させるいるということに彼は気づいていない。


「来てくれてありがとう」


「いえ、こちらこそお誘い頂きありがとうございます」


「じゃあ、行こうか」


 蜜谷さんはアタシを予約したレストランへとエスコートしてくれた。

 レストランは六本木でも指折りの高級レストランであった。

 リンゴさんの話だと中々予約が取れなくて芸能人もお忍びでやって来る程の有名店らしい。


 そんな有名レストランにアタシを誘ってくれるなんて。レストラン内にはオシャレなドレスに身を包んだ女性ばかり。隣にいる蜜谷さんに恥を掻かせてはいけない。アタシは少しでも蜜谷さんの隣にふさわしい女に見せなくては。貯金を下ろして買ったこのドレスで少しでもアタシが良い女に見えていることを祈るしかない。


 予約していた席は窓際で六本木の夜の夜景が一望できる場所であった。アタシとの食事のために良い席を選んでくれたんだ。蜜谷さんの心遣いにアタシは感銘を受けた。

 席に座ると、すぐにオシャレなウェイターさんがメニュー表を持ってきてくれた。メニューを開いた蜜谷さんは慣れた口調でウェイターさんと食事について話している。

 アタシは聞き慣れないメニュー名に蜜谷さんに何が良いのか訊ねられても答えられなかった。


「すいません、こういうお店初めてでして……」


 人生経験が少ない自分が情けなくなってアタシは顔を火照らせながら、俯いていた。


「気にしないで」


 蜜谷さんはアタシをかばうようにさわやかな笑みを見せた。

 彼に気を遣わせてしまったことが申し訳ないと思いながら、注文した料理が運ばれるのを待った。


 どうしよう。今までまともに会話したことない相手と二人きりの食事の席は気まずい。異性と二人きりという状況だけでもどうして良いか分からないのに。アタシは困り果てていると、1つだけ蜜谷さんに確認したいことがあった。


「あの、蜜谷さん。1つお聞きしてもよろしいでしょうか?」


「なんだい?」


「どうして、アタシを食事にお誘いしてくれたのですか?」


 アタシは息を荒げながら蜜谷さんに訊ねるも、彼はキョトンとした顔をしてこちらを見ている。そんな質問されるとは思っても見なかったよと言いたそうな表情を浮かべるも、すぐに口元を緩ませた。


「理由が知りたい?」


「はい」


「それは……キミが好きだからだよ」


 蜜谷さんはアタシをからかうように耳元で甘い言葉を囁く。

 アタシは突然の言葉に驚いて自分の耳を疑った。

 アタシのことが好き。今まで生きて来て初めて言われた。

 男に女として見られることがこんなに嬉しいなんて。


 突然の告白で戸惑うもアタシはすぐに冷静さを取り戻した。

 この言葉は麻薬のような危険性があると本能で感じた。


 自分が必要とされている。承認欲求が満たされた女がこういう甘い言葉で虜にされて逃げられなくなる。

 でも、この人の誘惑に乗ってはいけない。そう脳から危険信号を出しているのも感じた。


「で、でも」


「僕と付き合ってください」


 蜜谷さんの曇りのない瞳は力強く訴えている。

 キミが欲しい。誰からも女として必要とされなかったアタシにとって一番欲しかった言葉を蜜谷さんは口にする。


 あぁ、もうどうでもいい。もし、何か罠があるかもしれない。そんな危険性を天秤にかけるのがバカらしい。目の前にある幸せを拾わない方がどうかしている。


「はい、よろしくお願いします」


 アタシは断る理由もなく蜜谷さんの告白を受け入れた。

 蜜谷さんの恋人に選ばれた。その嬉しさに包まれているアタシは冷静さを失って気づくことはなかった。

 この時、彼が仕掛けた甘い罠に掛かっていることなど。

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