②禁断の果実を口にするマリア様

「マリアさん」


 アタシが残業していると誰かに名前を呼ばれた。声の主はすぐに分かった。この会社で一番人気の彼女の声を聞き間違えるわけがない。

 アタシは営業部の社員が取引先に渡すための資料作成している手を止めた。


 振り返ると、事務所の回転椅子に座って手を振るリンゴさんの姿があった。相変わらず可愛らしい笑顔をアタシに向けてきた。もう定時はとっくに過ぎているのに彼女は何をしているのだろう。


「リンゴさん、どうかしましたか?」


「マリアさん、ちょっといい?」


 アタシの質問を無視してリンゴさんはアタシを手招きする。

 正直、リンゴさんと業務中でも全然会話をしたことがない。

 いきなり二人っきりだと気まずい。彼女に誘導されるまま、アタシはリンゴさんの席へと向かう。


「何ですか?」


「マリアさん。蜜谷さん、知っている?」


 蜜谷さん? あぁ、あの営業部の人か。営業成績が常に上位でこの会社の売上げを支えている一人。爽やかな顔立ちと柔らかい物腰で社内や営業先の心を掴むのが上手いらしい。特に女性の心を掴むことに特化していて取引先の女性社員からも声をかけられるほど人気という声を聞く。

 だから、蜜谷さんは好意を寄せる女性達に常に囲まれている姿を良く目撃する。対照的に成績や見た目でも太刀打ちできなくて彼の状況を妬む社員の陰口の方が良く耳にする。


 そんな有名人を知らない人間が社内にいるわけがない。


「はい、知ってます。営業部の方ですよね?」


 まぁ、アタシのようにブサイクと罵られている女とは縁がないということも周知の事実。彼は、まるで物語に登場する王子様。アタシは物語に出てくる村人の女。言葉を交わすことも、ましてや結ばれることなど永遠にない立ち位置である。


「そう。実は蜜谷さんからマリアさんに言付けを頼まれて」


「何でしょうか?」


 リンゴさんは可愛いらしい顔をアタシに近づける。


「蜜谷さんがマリアさんとご飯に行きたいって」とリンゴさんは可愛らしい声を使って囁く。

 まるで、イタズラを企む子供のような言い回しだった。


「え?」


 アタシは予想外の内容に思わず声が漏れてしまった。


 あの蜜谷さんがアタシと食事に行きたい?

 何かの冗談なのか?

 アタシは異性から食事に誘われたことなんて1度もない。そもそも女という認識を持たれていないアタシ誘う対象として数えられていない。


 そんなアタシが社内で一番人気の蜜谷さんから食事に誘われるなんて。 

ありえない。もしかしたら、リンゴさんはアタシをからかっているのか?


「この間、蜜谷さんに頼まれて。マリアさんを誘って欲しいって」


 リンゴさんは猫なで声でアタシと蜜谷さんの食事へ行くように誘導する。


「なぜ、アタシなんですか? アタシのような女と食事なんてしたって……」


「どうしてもあなたと食事したいんだって」


 蜜谷さんがアタシを女として意識している。

 しかも特別な女という位置に置いてもらえた。

 女として意識してもらえた嬉しさでアタシの胸の高まりが止まらなかった。


「行くかはマリアさんに任せるけど、どうする?」


 リンゴさんはアタシを試すように答えを待っている。何を迷う必要があるの!?

 あの営業部ナンバーワン蜜谷さんから食事に誘われるなんてアタシに訪れる事はもう一生ない。アタシが女として扱ってもらえる最後の機会。 

 村人の女からマリアという名前にふさわしいお姫様になるんだ!


「はい、行きます」


「良かった。蜜谷さん、喜ぶよ。私から返事伝えるね。詳しいことが決まったら、また教えるね」


 アタシは蜜谷さんと食事を行くことに決めた。その途端、胸ときめきと体の火照り始めた。今まで死んでいた無垢な少女のような感覚が一気に息を吹き返した。


 そんなケガレを知らない処女のような気分のアタシの背後で事務所を出ようとするリンゴさんが堕天使のような笑みを浮かべていた。


 これがアタシの人生を狂わせる悪魔の胎動する切っ掛けになることをアタシはまだ知らない。

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