第4話

  港


 瀬戸内の海の夜、雲の無い星空、大きく天の川が横断し、そして夏の大三角も見えている。 こと座のベガ、わし座のアルタイル、白鳥座のデネブ。この時代の日本では、まだ、“夏の大三角”の言い方はされていず、一般には、ベガとアルタイルは、七夕の星、織姫と彦星の呼び名である。

その空の下、文化船の停泊している埠頭へ帰ろうと百目鬼が杖を使わず歩いている。 遠くになった旅館の二階部屋の窓の灯りが、ぽつり、、ぽつり、と消えていく。 

宿屋で風呂に入った後、文化船に用事かあるからと宿屋の部屋に行かず、酔っている体で文化船まで歩く百目鬼、片手に買い物籠、重たそうなものが入っている。

「おおっと、と、、」よろけて靴の先に、握りこぶし大の煉瓦の欠片が当たり、

ドポンと海に落ちたのを聴いて、芝居『慶安太平記』に出てくる侍、丸橋忠弥の台詞を、溜息を吐くような息遣いでつぶやいている百目鬼である。

「、、ここで三合、あちらで五合、拾い集めて三升ばかり、これじゃしまいに源太もどきで、鎧を質に置かざあなるめえ、裸になっても酒ばかりは呑まずにゃあ、いられねえ、、。」

江戸時代、徳川幕府転覆を狙う由井正雪一派の参謀、丸橋忠弥が、夜、酔ったふりをして江戸城の堀の近くを歩き、わざと石を掘に蹴って落とし、その落ちた後の石が堀の水底に当たる音を聴いて、堀の深さを計っている場面である。 

、、これくらいの台詞はテレビが流行り出す時代以前の大人は芝居好きでなくても知られている。有名な歌舞伎、講談、浪曲、新国劇の台詞などは、直接見ていなくとも、レコードやラジオで家で繰り返し流れていた時代であった。  

文化船に着く百目鬼、、船の近くに停めてあるバイクの座席を、空いている方の手で、ぽんぽん、と叩いて、中に入る。石を落とした近くの海面、、なにかの赤い光がふたつ、妖気を発しながら文化船と百目鬼を見ている。

そして、ゆっくりとゆっくりと音も立てずに海中に消えていった。


  文化船内、館長室 


この時代では当たり前の、電気を使用しない銅製の小さな氷式冷蔵庫が室内に置いてある。今日の朝、笠原港で上段に入れていた小さくなった氷の塊と冷蔵庫の一番下の受け皿に溜まっている融水を一緒にバケツに入れ、旅館から持って帰った籠の中、分厚い布に包んだ長方形の氷塊を出し冷蔵庫に入れる。

周りを見回す百目鬼、

「しまったなぁ、杖、旅館に忘れてきた。」今ごろ気づく。 

果物ナイフで切った、まくわ瓜、を口に咥えながら、ズボンの裾をめくり、バケツの上に浮いた薄い氷を足の裏で上から沈ませるように踏む、水の中でパキッポキッと薄くなった氷の割れる音、と共に、気持ちのいい顔の百目鬼、 

「くーうっ、、冷てぇ、、、気持ちいい。」

右足、膝から踝にかけて二十数針ものの傷がある。この足の怪我のために戦時中の徴兵はされず、代りに勉学に励み、横浜に逢った海軍工科大学で戦争史を教えていたのである。

すぐ隣、壁に備え付けの小さな折り畳みベッドがあり、その上に神棚に、座ったままで、かしわ手を打つ。ベッドの下に見えないように置かれている工科大学時代の教え子の残していった本を入れた黒革の鞄が、今日の航海の揺れのせいか、半分ほどそこからずれ出し、入っている鞄の口が開いているのを見つけ、目をこすりながら、昔を思い出す、、戦後、教え子から預かっていて、まだ本人や遺族に返していない本が十数冊、、その中の一冊を取り出し、本の最後のページをめくり、そこに書かれた住所“岡山県臼石島と「瀬島洋一」と書かれているのを確認し、ベッドのテーブルに置く。明日はこれをこの島にある瀬島の実家に返しに行くのである。備え付けのラジオをつける、、雑音で聴こえにくいNHKの天気予報放送、、

「、、 台風9号は、、北北西の、、、中心気圧、、九百五十ミリバール 風速三十メートル、、、台湾沖、、九州に、、」 

気圧の単位は今はヘクトパスカルだがこの時代はミリバールである。

港、沖を通る貨物船から伝わってきた波が突堤に当たるが、それでも中に入りこんできた並みの一部でゆっくりと揺れる文化船、航海日誌を書こうと、船の図書室に行く。船長は毎日、航海日誌を書かなくてはならない決まりである。 

「八月十一日 快晴、風穏やか 午後、×時、笠原港出航、乗務員以外で、島民など、七人を乗せ、岡山県臼石島到着、午後×時、港、停泊、、七日間、停泊予定、、、」書き終え、日誌をテーブルの引き出しの中に入れカギを掛ける、と、、そこからは見えない入り口の方向から、本が何冊か床に落ちた物音がした、音がしたほうに目をやる百目鬼、

「お、村上さんか、澤村君か?」

、、誰の返事も無い、、ラジオの音声が小さく聴こえる、、、「全国の皆様こんばんは、、」

一日に三度、同じ内容で流れる『尋ね人の時間』の最後の放送である。


『それでは 今日最後の尋ね人の時間です。メモのご用意をお願いします。 今日は、昭和二十年に東京深川に住んでいた上川俊一さんご一家を京都市洛東にお住まいの大橋英二さんご一家が探しています。上川さんと大橋さんは岡山県倉敷市出身で家が隣同士でした、、、』


百目鬼、床に落ちた本を拾おうとすると、すぐそばに落ちていた一枚の貸し出しカードも見つける、拾った本の中には貸し出しカードは入っている、、見るとこれは別の本のカードか、、そこから濡れた足跡が点々と図書室の床を窓の方向に続くのを見つける百目鬼、、小さな小さな足跡、すぐ横、舟虫が一匹、二匹、音もなく動く、、図書室の窓から甲板や埠頭を眺める、、誰も居ない、、カードを拾い、ひとりつぶやく百目鬼、

「おかしいなぁ、子供が留守の間に勝手に持っていったか?えぃ、困ったなあ、」

明日、学校に行って聞いてみたらわかるだろう、と思い、船長室に戻ってベッドに横になり、戦時中にに勤めていた横須賀の海軍工科大学の事を思い出していた。

電灯もラジオも、つけっぱなし、まくわ瓜の切り身がひとつ、テーブルの皿の上に残る。 小さなコガネムシが電灯の周り、円を描いて飛んでいる、カツン、、カツン、、と電灯カバーに羽根の当たる音、その下、酔っ払い男の欠伸の声が、ふぁあう、と聞こえる。

船の外、、小さな小さな五つの火の魂が、文化船にあった一冊の本と一緒に、音もなく海上を飛んで港から離れていく、本が海面に落ちそうになると別の火の魂が、また落ちると別の火の魂が、、代わる代わるすくい上げては運ばれていく、、ふらふら揺れつつ港から離れ、寺の方向に飛んで、暗がりの中で見えなくなった。 遠く沖合から大型貨物船の汽笛が聴こえる。 

汽笛の音程は、大きな船ほど低い音である。二回の汽笛で、進路を取舵(左方向)へ変えているのがわかる。

 

           ―――――――――


 その夜、百目鬼は昔の夢を見た。夢の中は昭和二十年九月九日である。 

どこかで蜩が一匹、寂しく鳴いているのが聴こえる静かな大学の校門、鉄の門扉は戦争開始直前の昭和十六年八月の金属回収令で取り外され、木造の門に換わっているが、この大学の性質上それを悟られぬよう黒く塗装されている。

校門を入った左側には、煉瓦造りの小さな門番小屋があり、五十歳は過ぎているであろう常勤の門番と三十歳台の料理人とがタバコをふかしながら二人とも頭を下にしたまま、目もあわさず会話をしている。軍内にいることで敗戦はある程度は予想していたが、軍隊が廃止になり自分たちまでも路頭に迷うことになることになるとは、思いもよらなかった、とあきらめ顔の二人である。

「、、暑いなあ、、」「ああ、一昨日みたいな夕立が、さーっと、くりゃあ、涼しくなるんだがなぁ、、」「明日も晴れるか?」「朝のラジオの天気予報じゃ、関東は暑い日がまだ数日続くとよ。」「暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったものだ。」

戦時中、発表されなかった天気予報も八月二十二日から再開され、ラジオと新聞でわかるようになっている。


 神奈川県南東部、三浦半島に位置する横須賀市は幕末から昭和初期にかけ軍艦造船と首都防衛の要の軍港として日本帝国海軍と共に発展した軍事都市である。このような都市を軍都、或いは軍郷と呼ぶ。 戦時中、幾度となる米軍の艦載機攻撃で船舶や軍施設への被害はあったものの、大都市のような大規模空襲は無く、港とその周辺は、ほぼそのまま状態で終戦の日を迎えたが、翌月、九月二日の横浜沖、戦艦ミズーリ号甲板での日本降伏文書調印の後、大半の日本海軍将兵は、横須賀から移動を余儀なくされている。 その市の中心から車で山の手を北西に抜け、標高二百四十メートルの大楠山の頂上に向かう緩やかな坂道を登って行くと軍の検問所が見えてくる。 終戦後、誰も居なくなった検問所、、そこを過ぎると広大な横須賀の軍港が眼下に広がるはずなのだが、軍艦の行動の様子を、民間人に見られないようにするため、日清戦争前から、高さ三メートルの板塀が海側に数百mに渡って建てられている。歩く速度で三十分ほど登るとその塀が山林の茂みの中に消え、逆に、山の崖側には長い煉瓦塀が出現し、その塀の向こうにある、コンクリートで建設されている巨大な白亜の建物が見えてくる、、日本海軍の兵器研究開発の技術将兵を養成する、帝国海軍工科大学、ここで百目鬼は世界の戦史を教え、そして図書館の館長を兼任していたのであるが、大学もすでに閉鎖が決まり、門番と料理人だけではなく、他の大学職員も就職は決まっておらず、皆、不安な日々を過ごしている。 


門番小屋の中の壁には職員に急遽作ってもらったとわかる荒い字体の、英語での挨拶の言葉と簡単な英会話の文の貼り紙が見えている、それを読みながら、つぶやく門番。「グッド、アフタァヌーン、グッドイヴニングゥ、エク、エクス、スキューズミイ、」 料理人、挨拶の練習を邪魔するように、話を変えて話し始める、「昨日なあ、おい、、昨日なぁ、市の役人が警察と一緒に、調理場にまで入ってきて、来週からは一切、食料を持って来ん、と伝えてきた。後は個人の配給切符で、どうにかやっていけだとよ。俺ゃあ、今まで配給切符なぞ貰ったことなんぞねえよ。」

「今まで軍の食料調達は、どこよりも優先してくれとったが、、はぁー、、変われば変わるもんだ。」

「ここに残る奴はどれくらい居そうだ?」

「、誰も、わからん、、」

料理人、短くなったタバコを、最後、思いっきり吸い込み、渋い顔をして項垂れた顔を、地面に向かってどっと吐く、

「食材が来ないのなら、仕事はできん、、、」

「、、だな、」

「これで終いだ、あんた、これからどうする?」

「決めてねえ。ふぅー、いいよなあ、そっちは包丁が使えるから。どこか食糧の豊富な田舎の温泉場に行っても仕事はあるだろ、、しかし俺や、ここの教官たちはどうすりゃいい?、もう武器兵器の研究も設計も、教えることも出来んだろうに?」「いや、仕事の話しより、オレはタバコのことを聞きたかったんだがな、もう酒保(軍の売店)も、タバコが尽きている。」 

と、坂を登ってくる数台の車の音。それに気付いた料理人が門番に言う、

「おい、車が来るぞ、、」「ああ、時間通りのお越しだ。」

低速のトルクの効いたエンジン音が聴こえてきた、、坂を登ってやってくる黒塗りのフォード製乗用車一台とそれを挟んで、屋根に幌がついているウィリスジープが二台、門に入っていく。ボンネットと両ドアに大きな白い星のマーク、ナンバープレートは日本軍のそれと違い、数字とアルファベット、米軍の車両である。スピードを落とさず門を勢いよく入っていく車列、、最後のジープが門を入ったすぐの所に停車し、二人の若い米軍兵士が小銃を携えて門に立つのをを見た門番、あ、オレはもう、お役御免か?と察知し、米軍兵士に近づき、頭を下げて慣れない英語で挨拶し、媚びようとする、

「ハ、、ハウドウ、ユウ、ドウ、、」

無視して直立不動で門の番をする米兵二人を後目に、職員宿舎に引き上げる料理人。


コンクリート三階建ての白い大学校舎、屋上から海側の壁には戦時中の空爆を回避するための緑色の偽装網がまだ残っている。 廊下の水兵連続窓は空爆で飛散しないよう全てのガラス面は、米、の字の形で戦時中に貼られた白いテープ状の紙も、まだそのままである。廊下突き当たりにある将校と教官だけが使用できるエレベーターで三階に上がるとすぐに貴賓室の入り口が見え、廊下の窓からすぐ下は練兵場、はるか先には軍港の様子が手に取るように見える。 

貴賓室は、今日は窓が閉められ、大型扇風機が四台、テーブルの四方に置かれ、風を送っている。椅子に座っている人たちの後ろ、空になった本棚の横壁には戦艦や軍用機の挿絵がある月暦のカレンダーが留めてあり、大きな文字で書かれてある戦争標語に注目し、手でめくって読んでいる日系人通訳が居る。


昭和二十年

九月   『撃ちてし止まん!』 

十月   『ぜいたくは敵だ 』

十一月  『石油の一滴 血の一滴』

十二月  『一億一心 火の玉だ』


昭和一九年末に印刷された一年分の暦であるから印刷された時にはまだ戦時中の真っただ中であったからである。

米軍将校が最後をめくると二十一年一月のページ、

『 今年こそ勝利の年に!船だ!船だ!船を造れ!米英撃滅!』

小さな手帳に丁寧に日本語で標語を書き写し終えた通訳を貴賓室の窓の外から百目鬼が見ている。あの時はそこに居ないし、どう会議が行われたのかも憶測にすぎないのだが、後に聴いた歴史の想像から夢の中で映像が創られているのだ。 

奥の間では米軍側の通訳を介し、この大学の明け渡しについての最後の話し合いを、たった今、終えたばかりである。

米軍将校は自分たちだけで小声で話し合いをしている。テーブルの上の縞瑪瑙(オニキス)で造られている大きな灰皿には沢山のアメリカタバコの吸殻が見えるが、日本人側はタバコも吸わず、神妙な顔で沈黙している。日本人職員は学校専用の上履きを履いているが、米軍たちは、皆、土足である。日本側、まだ一人だけ座っている老人、自分がまだ現役の軍人だったころの日露戦争時代に使用していた軍服をわざと着用し、その頬には大きな傷と左目に黒い眼帯、鼻の下に見事なカイゼルひげを生やしているのは、元帝国海軍、技術技官中将、現在は工科大学学長、五十嵐晃である。老いてはいるが、幾多の戦いを生き延びてきただろうと言うことがわかる軍人を目の前にして、協議し終わったアメリカ側はまだ異様に感じている。

座ったままで観窓の外をる学長の目線の先には、練兵場で大量の書物を燃やしている白い煙の一端が、外から窓を撫でているように見える、、その煙が部屋に入ってこないように貴賓室の窓は閉められている。中心の将校が顎を突き出した顔で、部下と

会話しているのが学長の耳にも聴こえる。


「They are not allowed to make any kind of airplanes, battleships, or cars in order not to rebel against us. We should get rid of all these books. If they were to need any weapons, we could sell them old ones.」

(翻訳)

『ジャップどもが、この後も我々にたてつかぬよう、飛行機や軍艦も車もぜんぶ製造は禁止だ、ここにある本も全部処分しておかなければならん。もし兵器が欲しくなったら、わしらの使い古しでも売ってやればいい。』

学長、英語は解らぬという顔をわざとして横を向き、椅子に座ったまま、窓の外をずっと眺めている。米軍将校たちも、日本人には、どうせ英語は解らぬだろうと思ってバカにしている顔だ。敗戦後の日本に進駐してきた米軍、英軍は、、マッカーサー総司令官の命令で、日本国内の陸海軍基地、備蓄基地、軍教育施設、軍需工場に査察に入り、残存する兵器、研究開発段階の兵器の廃棄を始めた。すべての武器兵器は解体、刀剣類も回収された。 無事に動く艦船の一部は国外から帰還する日本兵、日本人の輸送に使用されるものはあったが、大半の艦船はすべて連合国に接収され、潜水艦は太平洋に海中投棄されていった、、そして書籍類。兵器研究、製造の書籍、兵器、軍艦の設計図はもとより、軍国主義、戦意高揚の文物、映画の台本、写真、絵画、映画フィルム、戦争画、哲学思想本、軍歌、行進曲の譜面、仇討、武士道に関する小説、古典芸能及び地方の神楽の戯曲までも廃棄が決まり、戦争に関するすべての書物の焼却が全国の施設で開始されている。


   練兵場 


 リヤカーで運ばれ、置かれていく大量の軍事教本を炎の中に投げこんでいる十数人の学校職員たちを見ている百目鬼、、。めらめら、ごうごう、と炎の音、手拭いで顔の汗をぬぐってもぬぐっても、きりが無い。 たまにパチパチと、何かが弾ける音がする中本を運んできた職員の疲れた声が聴こえる。「まだあるかー?」「中は、もう少しだ。」同じ練兵場の端々には先に処分された銃器武器を処分した残骸が見える。そこにやってきた米軍将校の一人が引き金の折られた一丁の三十八式小銃を拾い上げると小銃の銃身上部にあるはずの菊の御紋がヤスリで荒く削られ消されているのを見つける。米軍将校、そこを指さして職員に通訳を介して訊く、

「 Why did you erase the mark? 」

通訳が訳して職員に伝える、

「なぜこのマークを削ったのか?」

職員、直立不動ですこし頭を下げて日本語で語る。

「我が軍の武器兵器は、すべて、天皇陛下からの預かりものだ。たとえ国が決めた武装解除でも、簡単に敵に渡すわけにはいかん。しかし、菊の御紋を消することで誰のものでも無くなった。ただ、それだけのことで、、ある。」

通訳と目を合わさず、そのまま下を向いている職員。


   貴賓室


 学長が窓の近くに立ち、すぐ下の練兵場に停めてある幌を捲った米軍ジープを眺めている。 車上では、ニヤニヤしている米軍兵士が二人、学舎の近くでは立小便をしている兵士も居る、、嫌な顔をし、窓から顔をそむける五十嵐学長。同じ部屋の中、米軍将校の一人は手持ち小型映写機を使い、窓の外の光景を撮影している。 映写機の先には屋根付きの長い渡り廊下が伸び、その先に見えるのは煉瓦造りの大きな建物、 “帝国海軍図書資料館”である。


  帝国海軍図書資料館


 入口の上には、小さく「明治八年」と刻まれた金属製の札が見える。創立当時は学校すべてが煉瓦で作られたが、煉瓦で残っているのは、塀と門番小屋と、ここ図書資料館だけである。

玄関から中に入ると両横に靴箱が据えられ、その靴箱の上の壁には、

「如何なる理由でも館長、司書の許可無く書籍の持ち出し厳禁」「私語慎むべし」「禁煙」「飲食不可」「整理整頓」「土足厳禁」

と貼り紙が見えている。

二階の桟敷まで書架が並び、そこに本が並んでいた広い館内の中、大型扇風機の前で、腕まくりしたワイシャツ姿の職員たちが残っている本を片付けている。

「だれか三十一番から後の書庫の鍵を持ってきてくれぇ!それで最後だ。」

「ああ、わかった。」 

「館内の電話機はどうしますか?」 

「置いておけ。本が先だ。」

奥にいる職員の会話する声が入り口からでもよく聴こえる、今までは書籍に吸収され聴こえなかった館内での声が、今は壁に反射して響いているのだ。その館内に響く空しい声、本を運んで廊下に投げる音、音、、音、、、東洋一の蔵書の量を誇った歴史ある大学図書館は、明治期から日本帝国海軍管理下で印刷出版した物と、翻訳されていない洋書も含め、ありとあらゆる戦争に関する書籍で埋め尽くされていたが、今はその名前が書かれた分類仕切り版が書架や床に倒れて残っているだけ、、船舶技術、金属工学、内燃機関工学、砲術、弾道学、光学技術、通信工学、測量学、戦史資料、軍事史学、統率学、植民地政策、海洋戦略、気象学、戦術系の古書、地図、海図、世界中のありとあらゆるの言語の辞書、、写真集、映画フィルム缶、、戦争に関する書籍以外の分類版はまったく見当たらない。玄関を上がったすぐの廊下に、米軍将校と書類を持っている日系人通訳将校、そして国民服を着た五十代の笠原司書、と白い制服に『澤村靖夫』と、その下に小さく血液型がAB型と書かれてある名札を、胸に縫い付けてある勤労動員の少年が立っている。血液型が書かれているのは、戦闘、空襲などで、怪我をし、緊急に輸血する場合の用意である。通訳に説明する笠岡司書。

「これがその疎開本の目録です、重要な地図、資料、書籍は空襲に備え、一年前に移動させ、、、」と書類を見せている司書、その資料には軍部の大きなマル秘の印が押してある。

渡そうとした書類が司書の手から落ち、床に散らばった腰をかがめて書類を拾おうとする少年、米軍将校が履いているピカピカの革靴がよく見える、横目で見ながら、自分や老司書の使い古した校内靴と比べる少年、、軍事専門書しかなかった図書館だが、本がこの上なく好きな少年は二年の間この仕事に満足していた。 しかし、もうここには居られないこと、本を燃やされてしまうこと、親切にしてくれた百目鬼図書館長や職員との別れ、を大人同様、悔やんでいる。

 

書類を持った司書と勤労少年、廊下を歩き、図書館長室にやってきて開いているドアをノックする。

「笠岡、入ります。」

「澤村、入ります」

「はい。入りなさい。」

「失礼します。」「失礼します。」

私物を片付けながら二人に挨拶したのは夢の中の百目鬼弘一である。

ここの窓の外からも本を燃やしている煙が見えている。この時点で、百目鬼も他の職員と同じく失職し、職を探して今日の午後に郷里岡山に帰ることを決めている。

笠岡司書が腰に巻いた手拭いで汗をぬぐいながら報告する。

「今日で、すべて終わる予定です。」

自分の棚の本を整理していた百目鬼、手を止めて笠原司書のほうを向く。

「笠岡さん、御苦労さまです。今日は日曜日なのに、申し訳ない。麦茶を用意しておいたから。」「ありがとうございます。」

大きな施設ほど未だ残務整理に明け暮れ、今日がその仕事の最後の日である。笠岡司書に寄り添う少年に、百目鬼が笑顔で声をかける。

「澤村君、だいじょうぶか?疲れてないか?麦茶を飲んでいきなさい。」

後に文化船に乗ることになる、この時はまだ十三歳の勤労奉仕員、澤村靖夫、足を揃え、気を付け、をし、声変わりしたばかりの声で答える。

「はい、大丈夫であります。では、残っている二階の本を運び出します。」「うん。頼む。」老司書と澤村少年、二人が出ていく。

沢山いた勤労動員の少年は、八月十五日後、すべて解散したはずだが、澤村だけは両親が居なく帰る家が無いので、用務員と一緒に宿舎に住んでいることを職員の皆はそれを知っている。と、すれ違いざまに、五十嵐学長がやってきた。学長、一冊の本と風呂敷で上手に包まれている一升瓶二本を持ってきている。今来た二人と同じく、開いているドアをノックする学長。そのノックの方向に振り返り、笑顔を学長に見せる百目鬼。

「今、、いいかね? 長く君から借りていた本を返しに来たのだが、、」「ああ、、本を、はい、どうぞ。」

学長、中に入り、洋書の翻訳本を近くの棚に置く。


 『海洋戦略の諸原則  ジュリアン コーペット 著 』


1911年に出版された、イギリスが世界中の植民地を運営するための海軍戦略思想の翻訳本である。入り口近くにあった書架用の脚立に腰かけた学長を見て自分の椅子を持って座ってもらおうとする百目鬼、

「が、学長、そんなところに座らんでください、どうぞこちらへ。」

「いや、いいんだ、すぐ帰るから、、それより百目鬼君、足の具合はどうだね?」

「ええ、学長のほうこそ神経痛のほうは?」

「うん、今日は、大丈夫なようだ。、、今、中を覗いてきた。本の無くなった図書館の中はこんなに広かったか、とつくづく思った次第だよ。 話しは変わるが、木更津の航空隊基地にやってきた米軍、真っ先にエンジンプラグを全部集めさせたそうだ。」百目鬼、眼を閉じて渋い笑みを見せる、

「くっ、そりゃあ巧いこと考えましたな、プラグが無けりゃ飛行機はエンジンがかかない、ただの鉄の塊、、。」

残念そうな顔の中に少し笑みを見せ、ため息をつく五十嵐学長。

「ふーっ、そんなことせんでも、日本全土の燃料は半年前に尽きとる。」百目鬼、自分の机の本棚にある『満支旅行年鑑』の背表紙を見つつ、懐かしい顔をしながら言う、満州、中国、朝鮮半島の大陸鉄道、路線、案内の本である。

「満州とは、通信が途絶えたままです、」

「うん、朝鮮半島とはまだ通じておるが、その先とは途絶えとるらしい、逆に、開戦以来、途絶していた日米間の回線が再開しておるそうだ。八月に横鎮(横須賀鎮守府)から伝わった噂だと満州の関東軍はソ連参戦時にシベリア鉄道とウラジオストクを、空から真珠湾攻撃並みに攻撃する計画があったそうだがな、、ふっ、航空燃料も兵器も人員も数年前から南方戦線に廻って、何もかも、ありゃあせんかっただろう、、」

学長、ポケットから煙草を取り出して火を点けようとしたのを観る百目鬼、

「申し訳ありません、、学長、ここは禁煙になっております。」

「ああそうか、ん?、だがなあ、ここの本は燃やされるんだ、もう、いいだろう?」

「、、まあ、そういえば、そうですが、、」

「じゃ、いいな。」

ライターの火でヒゲを焦がさないよう、タバコを口で咥えず指の間に挟んだまま火をつける学長。百目鬼の目からは、ガラス一枚隔てた外と部屋の中の煙が重なって見えている。

「百目鬼君、横須賀が大規模爆撃されなかった理由は知っているかね?」

「ええ、なんとなく。」

「今ここから見えることがその理由だな、あいつらはここを自分の海軍基地として使用する目的を先に計画していたのだ、、聴くところによると、日本国内のダムや製鉄所、鉄道施設は空爆されていない、占領後にアメリカが使えるよう考えての戦略爆撃だったとはな、どうせ日本の国力が二、三年も持たないことなど、アメリカから観たら、、岡目八目だったろう。」

一服喫い、閉まったままの窓から、外の煙を眺める学長に百目鬼が訊ねた、

「あの、、学長、失礼ですが、施設の受け渡しの書類に、署名とか、なされたのでしょうか?」

「署名?、、はっ、日本が負けて、全部占領されたんだ、この学校の受け渡しくらいで、いちいちそんなことはせんよ。 西郷隆盛のセリフじゃないが、勝てば官軍、負ければ賊軍だ、、」

沈黙する百目鬼に、折り曲げた人差し指の中ほどで自分のひげを触りながら笑顔で答える五十嵐学長。

「さすがに、、そういう細かいことを知りたがるのは君のような歴史学者くらいだよ。」

「はあ、申し訳ございません、、」

「いや、いいんだ、、今まさに、オレたちそのものが日本史の、いや、世界史の転換の、ど真ん中にいるのだからなぁ。しかし、ここの本まで燃やされるとは思わなんだ、」

「空襲に備え、軍の命令で一年前から最重要書籍は疎開させましたが、米英軍はそれも探しているようです。しかし、どこへ運ばれ、どこで保管されているのか、命令の出どころもわからず仕舞いですし、その後、連絡がまったくありません、、」「、、らしいな、、他の学校からも、その後どうなったのか、と、うちに尋ねてきた、、まあ、戦争が終わる寸前まで、ここにあった訓練用研究用武器兵器を集めて前線に移動させよとの命令もあったし、ここ半年はもう内外からの命令が交錯して滅茶苦茶だった、、そんなことではいかん、と言う意見書を、何度も司令部に提出したんだが、、」

「ここは、閉校後、どうなります?」目の下の頬がぴくっと動いた五十嵐学長、渋い顔をしながら答える。「今、来ている米軍の話では、香港からやってくる英軍と英インド旅団の駐屯地になる、、ほかの地方の軍学校もすべて閉校だ、海軍省と陸軍省は復員省という名前になり、厚生省と一緒になって、外地のすべての兵士と日本人の帰国作業を受け持つことになるそうだ、あんなに仲が悪かった海軍と陸軍が一緒になるとはな、ウハハッ。大本営は廃止、軍需省、大東亜省、内務省、大学の造兵学科、植民地政策学科も廃止、軍需工場もすべて閉鎖だ。」

百目鬼、黙ってうなずく。

学長「君の身内でまだ外地におるものは居るのかね?」

「兄が、台湾におります。」

「そうか。ここに属していた教官も、八人は、まだ外地におる。君の兄さんも、無事に帰国できればよいがな、、」

「台湾は近いですから、、」学長、タバコの灰が長くなる、、部屋の中を見まわす学長、

「灰皿は、、無いな、、」

「ええ、ありません。もう、床に落としてくださって結構です。」

「百目鬼君はここに来て何年になるかな?」

「二十三歳で赴任し七年目です。、、失礼ですが、学長のほう、は?」

「二十年だ。横須賀線が電化した年だったよ。この港があったから、国鉄の中じゃ山手線の次に早い電化だった。」

旅行鞄に本を詰めている百目鬼を見ている学長、

「お?そっちの本は?」 

「これは教え子から預かっていた本です。私がここに赴任した最初の年から、放課後に持ち寄った小説で読書会を開催していた時期がありまして。」

 「ほぉー、、読書会かぁ、懐かしい響きだな、アメリカでは、たしか、ブッククラブ、と言うのだったな、、皆で同じ小説を読んで感想を言いあったり、こんな本があると紹介しあったりの。思い出した、私も一度参加したことがあったな。」

「そうです、こちらに、」 

壁にかかってある数枚の記念写真の一枚を、すっと指さす、

「こちらに学長が。」

膝を軽く叩く学長、

「おお、そうだった、これは学校創立六十年記念行事の時の写真だな、、あの頃か、ふーっ、ほんの、五年前のことだったなぁ、、。」

「日米開戦後、繰り上げ卒業で急きょ学生たちが内地外地に赴く前、自分の一番好きな小説や古典文學の作品を一冊ずつ持ち寄り、『戦争勝利のあかつきには、皆でここに必ず帰ってきて、読書会を開こう。』と、一人一人、最後のページに血判を残して誓い合い、ここに置いていった本です。もう、ここに置いておけませんから、私の実家に持ち帰り、保管しておこうかと。」

 百目鬼、本の一番後ろ、血の指紋の跡が押してあるページを開いて学長に見せる。である。

「ふぅ、そうか。米軍の許可は下りたのか?」

「はっ、検閲は済ませました。彼らの本はすべて娯楽小説や古典文学だったので大丈夫でしたが、、私の書いた論文の書物の持ち出しは認められませんで、、今、学長から返された私の、、その本も、燃やされるでしょう、、。」

「そうか、おしいことをしたなあ、」

すぐ近くに横に積み上げられた本の上に百目鬼が著述した本、『大石内蔵助の戦術』』『曽我兄弟の真実』 『戦国時代の戦略』が置いてあるのを見ている学長、他に置いてある歴史本も眺め、一冊取って読もうと手にするが開けもせず、数秒で静かに本を戻す、、いまさら廃棄される本を読んでも、どうにもならんという気持ちが顔の表情でわかる。

「そうか、仇討物も禁止か、なんとも、、歴史の浅いアメ公どもが考えそうなことだ。」

「米軍の持ってきた廃棄リストを見て、古典文学まで入っているとは思いもよりませんでした、そこまで研究していたかと、逆に感心しましたよ。」

集合写真を見つめながら、静かにうなずく学長。教え子たちと学長と一緒に、生徒が持ち寄った本の表紙をカメラの方向に向けて笑っている。

「ここにある写真も君が持っていったらいい。そうだ、そこの神棚に飾っとる銀杯も。」学長、神棚にある二つの銀杯を指さす。「これも、よろしいのですか?」百目鬼がここに赴任してからずっと見ていた銀杯である。「それはわしがそこに置いたものだ、昔から飾りっ気のない部屋だったからな、君が持って行ってくれたらいい。なんでも日清戦争で中国からぶんどった賠償金の銀塊で作られた物だそうだ。おお、言い忘れるところだった、それから、これはわしの家から送ってきていた酒だ。この学校の職員の中で君が一番の蟒蛇(うわばみ)だったからな。受け取ってくれ。」学長、風呂敷から縦に包まれた二本の一升瓶を出す。

百目鬼、

「いや、申し訳ないです、たしか、御実家は名古屋の造り酒屋で、、」「このご時世、良い出来じゃないと言うとったがな。君の口に合うかどうかわからんが、そこらにある配給酒よりかなりいい。」注がれる方の杯の表は菊の御紋、坏裏には『日露戦争勝利記念』と刻印されている。

銀杯の埃を手ぬぐいで拭いている、と、外から車のエンジン音が聴こえてきた、学長が近くの窓から外を観る、、車の屋根とドアに米軍のマークが付いている黒塗りの乗用車だ。学長、今まで緩やかだった顔つきから笑顔が消え、鋭い顔つきになる。

「、、わしの、、迎えが来たようだ。」

心配する顔を隠しながら尋ねる百目鬼、

「これから、、出頭ですか?、、」

「ああ、特攻兵器の開発指揮をした責任で取調べだ。」

「、、そうですか、」

「百目鬼君、、ちょっと、訊いてもいいか?」

「はっ、なんでしょう?」

「赤穂城明け渡しの時、、赤穂藩の侍たちは、どうだった?逆らう侍や切腹する侍は、おらんかったのか?」 

「最初は籠城の噂のため、城明け渡し時には、幕府側の侍と隣接した藩の武士たち併せて七千人と海には百隻の船を用意したそうです。」

「しかし、家老、大石内蔵助の判断で、きちんと明け渡した、、」

「そうです。その後、赤穂藩の借金返済、藩札両替、そして下級武士のほうから、より多くの退職金を渡したことなどが世間に知られるようになり、幕府からもその見事さは称賛された、と。」

「うん、、良い話だな、ああ、君は故郷が岡山県だっただろ?」

「ええ、」

「岡山藩の家老の娘が大石内蔵助の母なのは有名だが、その岡山藩は赤穂藩の中で討ち入りに行かなかった藩士をたくさん岡山藩に移住させたとか、何かの本で読んだことがある」

「そうですか、それは初めて知りました」

「、、ふっ、、時が過ぎて落ち着いた世の中になったら、今みたいな歴史の話をお互い言い合って、君と酒を酌み交わしたかったよ、、ありがとう。」

「い、いえ、どういたしまして。」

「じゃあ。」

その言葉を残し、そっと廊下に出ていく学長、その後ろ姿へ百目鬼館長、静かに敬礼する百目鬼、図書室からは職員がまだ片付けている音が聴こえている。館長室の本も順に運ばれていく。本の束、束、束、、燃やす指定の無い本も、自分の書いた本も、今、学長が返却したばかりの本も、ここにやってきて、最初に自分が指定して揃えてもらった国内外の歴史本も、大学のすべての知識が炎の中にくべられていくことを止められず、諦めて黙って夢の中で観ている百目鬼である。


  学長室、奥の個室


 開けられた洋式箪笥の中には、肩から胸に飾緒のついた今現在の海軍の儀礼服が用意されている。上半身シャツの五十嵐学長、脇の下にサスペンダーに吊られた薄い金属の塊を左右二個仕込み、その服に着替える、、学長自らが手りゅう弾数個を改造して作った自決用の爆弾である、、全身が映る鏡の前に行き、自分の姿に違和感が無いか確かめ、中に見事な彫金細工を施した手鏡付きの手帳を掴んでポケットに入れ、個室から出ていこうとする、しかし、もうここには帰って来られないと覚悟の行動だ、学長の個人書庫の書架の本も運び出されて無くなっている。 残った中の一冊だけ残されていた本を拾う、日本で最初の海軍をこの地で興した勝海舟の『氷川静話』だ。 勝海舟が幕末から明治初期の新政府設立まで活躍した人物や日本の世相など明治三十年に新聞記者に語った話が書かれてある本である。自分が若い頃、神田の古書店で買ったな、、と、懐かしく表紙を触る、、 裏表紙をめくり、机に置き、名前と住所を書き、小さなナイフを取り出して薬指の皮膚を軽く刺し、滲み出た血で最後のページに血判を押す。血が乾くまで少し待つ間、名残惜しそうに自分の部屋の中を眺める五十嵐学長、、しばらくして、本を閉じ、それを持って廊下に出る。歴代の学長の肖像画が飾ってある廊下も名残惜しい。どの学長の時代でも日本が勝つために、どれだけ兵器を研究開発してきたか、そして、教官、技術将校を何百人も外地に送り出したか、そして自分の時代に、アメリカと言う強国と戦争をしてしまい、敗戦し、日本が占領され、明治から続いた帝国海軍が廃止され、すべての努力が無になっていくありさまを、自分は責任者として、生きて、それを体験していることに耐えられないのである。


閑散とした学舎の廊下


玄関の前、職員が総出で規律よく並んでいる、、と、奥から学長が勲とした顔をしてゆっくりと歩いてやってきた。 玄関外にはヘルメットをかぶった米軍兵士が黒いフォード車のそばに立っている。 他の兵士とすこし違う制服、大きな英字で「MP」と書かれた太い腕章、ベルトには紐の付いた拳銃のホルスターと手錠入れ、も見える。MPはミニタリーポリスの略、日本軍では憲兵隊である。車の後ろのトランクに、校内に残っていた書類の束を積んでいる二人の職員。学長、皆に挨拶している中、百目鬼館長を見つける、そして二人とも見つめ合い、軽く頷く。五十嵐学長、持っていた本を渡しながら、

「百目鬼君、この本、キミの教え子の本と一緒に預かっておいてくれたまえ、、二年前、神田で見つけた初版物だ。息子が戦地から帰ってきたら渡そうと思っていたが、叶わぬ夢となった。落ち着いたら、我が校に住んでいるその子に読んでもらってくれ。いいかな、澤村君?」

自分の服に縫い付けられた名札を読まれ、気を付けの恰好をし、元気よく叫ぶ少年、

「はい、、かっ、澤村靖夫と申します!。」

「おお、元気がいいぞぉ。その活きを忘れちゃいかん。」

「はいっ!」

坊主頭の澤村少年の頭を、笑いながら撫でる学長。澤村少年、学長から直接言葉を貰ったのはこれが初めてだ。その本を丁寧に両手で受け取る百目鬼、丁寧にパラフィン紙に包まれ、透けて下に見える題名を見る、氷川清話、、明治期の貴重本だと気が付く百目鬼、

「このような、貴重な本を、、」

うなずくだけの学長。

「わかりました。お戻りするまで大事にお預かりしておきます。」

本を受け取り、持ち直した瞬間、床になにか小さな金属物が落ちた、本の背表紙の隙間に入っていた鍵がひとつ、落ちたのだ、百目鬼が拾って学長に尋ねようと、後を追いかけるがすでに遅く車に乗り込んでしまった学長、近づこうとしてMPに停められてしまう、、鍵と本を握りしめている百目鬼、、。

学長、乗り込んだ後、その車種がアメリカでは安い大衆車であるフォード、と言う事に気がつき、しかめっつらの顔をして、小さくつぶやく、

「俺様にフォード?、、ふん、せめてビュイックくらい用意しとけっ、、」後ろ座席、MP二人の間に挟まれて座る学長。貴賓室に居た、一番偉そうな米軍将校が前部右側の助手席に座って、後ろの学長の顔をバックミラーで見た後、前に向き直し、ニヤッといやらしそうに笑う。 軽い音でドアが閉まりゆっくり動き出す車。 門の手前に学校職員三十人ほどが綺麗に整列し、敬礼で見送る、、何人かの啜り泣きの声に誘われたように、百目鬼図書館長の後ろで、がっくり肩を落として泣いている澤村少年。「大丈夫だ、澤村君、学長は、すぐ帰ってくるさ。」

肩を叩いて励ましの声をかけつつも、自分も心配顔で車を最後まで見送る百目鬼であった、どこかで、、


どこかで、鴎が鳴いている、、すこしうるさいぞ、、

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