第三章 深海の蓋を開ける者 2
一気に血生臭くなった臭いに顔を上げる。フードで隠した顔は口元が大きく裂けていた。路面に落ちたのは唾液か、血液か。パーカーはあっという間に真っ赤に染まって、濡れそぼった生地から体液が零れ落ちている。
「な──ッ」
男の下顎が外れそうなほど大きく広げられて、首が真っ二つに裂けた。下顎は重力に沿って皮膚ごと剥がれ落ち、露になったのは鮮血と肉ではなく、肋骨の下に収まる黒々とした甲殻だ。急速に膨れ上がっていく甲殻に押し出されて肋骨が広がり、行き場を無くした心臓と肺が路面に転がる。落ちた衝撃で心臓が破裂し、バトルブーツの太ももまで返り血で染まるが、男の体は立ち尽くしたまま。シャルロットの眼前には、虫のように黒光りする塊が急激に体積を増やしていた。
「総員、デモ隊と民間人の避難を開始!」
シャルロットはインカムに怒鳴りつけると同時に距離を取り、愛銃を引き抜いてパーカーの男に向ける。下あごと内臓が空っぽになった男の体が、肥大化を続ける悪性細胞の奥で倒れ込んだ。人間一人分の血液が、水たまりのように路面に溜まっている。
『どうした!』
「
男の体内に潜んでいた
デモ行進真っただ中で、このメインストリートには人が大勢いる。そんな中で大型の
路地を魔法障壁で塞ごうとしても、時すでに遅かった。悪性細胞から伸びた尾が下方から振り上げられ、左腕のガントレットで受けるが衝撃を緩和しきれない。吹き飛ばされてデモ隊の波に激突したシャルロットは、変態を終えた
人間がクッションになったおかげで怪我はない。だがデモ隊の十数人が将棋倒しに倒れているし、
「デモは中止です! 逃げて! 今すぐ!」
立ち上がり、シャルロットが魔弾を放つ前に、倒れてしゃがみ込んだ女が、断末魔のような悲鳴を上げた。
恐怖は連鎖する。デモ隊が叫んでいた言葉は権利を主張する大義から身の安全を求める怒号に変わり、我先にと
「っもう、硬い──! 吹き飛ばしてすみませんでした、立って! 今すぐここから離れて!」
片手で大口径の魔弾を撃ちながら、しゃがみ込んで動けない女を引っ張り上げた。ここで自分が足止めをしないと、大人数がこの
大きく反った尾を含めれば、全高は五メートル以上。全長はもっとあるだろう。サソリのような鋭い尾がでっぷりと膨らんだ腹部から生え、胴部からは六本の節足、カマキリのような鎌状の腕と、ハサミ状の腕を一対ずつ持っている。全身は黒い外骨格で覆われ、出で立ちは二つの虫を合体させたようだ。
これだけ変異が進んだ
生きた人間の中に寄生する
「──全員ッ、衝撃に備えろ!」
自分を体をはって受け止めてくれたからか、体制を崩してすぐに逃げられない者が多すぎる。周辺は人でごった返して、下手をすれば群衆雪崩が起きそうなほどの人口密度だ。一人焦っていると、デモ隊の群衆を飛び越えてエルが杖槍を振りかざしていた。
「〝
魔力でできた結晶の塊が杖槍と連動し、巨大な槌になって
「指示に沿って逃げろ! いいか落ち着け、統率を乱すな! 相手は一体だ、四方八方から撃たれる訳じゃない!」
軽やかな動きで着地し、シャルロットの近くに降り立ったエルが鋭く呼びかけても、動揺が頂点に達した群衆相手には届かない。
エルも混乱を収拾はできないと思ったうえで、それでも避難を呼びかけたのだ。
「──ッち……! とにかく距離を取れ!相手は
警備班に指示を出しつつ、エルが杖槍を構える。鼓膜が破れそうなほど不愉快な
一歩下がったエルの息を呑む音が聞こえるようだった。彼にとっては
「あの男か」
「はい。中から出てきました……私も初めてのタイプですね。封印指定クラスかもしれません」
「んなもんがなんでピンポイントに出てきたんだよ……!」
苛立つエルの声に反応して、刃蟲の
優れた魔法士であるエルの魔法を、無傷で耐え抜いている。六本の節足でアスファルトにヒビを入れながら歩く
「前衛は私がやりますから、後ろから支援を。大口径の魔弾を当ててもびくともしてないですから、間接か急所を狙った方がいいでしょうね」
「了解だ──対癌戦闘の指示はお前に任せるぞ!」
外骨格は攻撃が通らないと見ていい。狙うのは脆い関節か、急所である頭か。異様に膨らんだ腹部の下方も柔らかい可能性はあるが、巨大な図体で押しつぶされればひとたまりもないため狙いとしては外す。
この場にドミニクがいてくれれば、と一瞬考えたが、直ぐにそんな思考は振り払う。悪性細胞でできた外骨格は基本的に強靭で、シャルロットが扱う弾種では効果が見込めない。ジオの大口径ライフル弾か、ドミニクの魔力を込めた斬撃なら通用しただろうが、残念ながら慰霊公園にいるので増援は見込めない。
魔導銃と魔法で片をつけなければならない──建造物やインフラへの被害は最小限にすることを前提で、だ。まだ変態して日が浅い
二人で刃蟲の
刃蟲の
シャルロットはエルから離れながら刃蟲の
サマーソルトの如く、空中で体を捻りながら眼下を見る。エルの瞳と杖槍から稲光が走り、アスファルトを幾度も打ち付けていた。
「〝
エルが声高に汎用魔法の名を叫ぶ。アンカーを撃って建物の外壁に退避したシャルロットが見下ろす先で、強烈な稲妻が
万雷の名の通り、数えきれないほどの雷が杖槍の穂先から発生し、幾本にも分裂しながら宙を駆ける。白雷は寸分過たずに
初級の汎用魔法だが、術者が凄腕なのだから威力も量も段違いだ。刃蟲の
「ちったぁ大人しく、しろッ!」
刃蟲の
鼓膜が破れそうな落雷の音が、恐慌状態のデモ隊が叫ぶ声も、
「……硬いな、生身の人間なら即死するレベルなんだが……!」
こいつは骨が折れそうだ。
ぼやいたエルが再び杖槍を構える。刃蟲の
高電圧で撃たれた外骨格は確かにヒビや傷が入っていたが、深手とまでは言えない。エルが見上げ、シャルロットが見下ろす中で、
シャルロットはアンカーを解除して
狙いは、膨らんだ腹部の付け根。羽の下方に杭を打ち、閉じている羽をこじ開けて急所を晒す。
「いっけぇぇぇッ!」
全力で振り下ろした魔杭が
だが急所には当たったようだ。刃蟲の
「エルさん!」
「分かってらぁ、腹だろ!」
刃蟲の
「〝
エルが白い炎を灯した杖槍を、
刹那、悪性細胞の侵入した白炎が爆縮する。強力な外骨格で覆われて衝撃が外に漏れることはなかったが、だからこそエネルギーを逃がす場所がない。
エルが退避したのを確認して、シャルロットは大きく片足を振り上げた。踵の魔石が暗い魔力を灯し、
バトルブーツと魔槌の動きを連動させる。天高く掲げた片足を思いきり振り下ろし、ヒールで地面を踏み鳴らせば、浮遊していた魔槌が力を失い落ちていく。
狙いは一点、中途半端に
魔杭が撃ち込まれた場所から白炎が噴き出す。刃蟲の
端から硬い部位なんて狙うつもりはない。双方練り上げた魔力を武器に充填し、魔法を放とうとした時だった。
『ヴェルト捜査官! デモ隊の一部が、警備隊に攻撃を……! 小型の魔導小銃を保持しています!』
「おい嘘だろマジか! この状況で撃つ奴があるかよ!」
現場から離れていた警備隊からの連絡に、エルが魔法の発動を止めた。シャルロットは構わず
一般人には、小型の魔導拳銃であっても保持は認められていない。どこか裏ルートで入手したもののはずだ。そもそもデモに乗じて爆破テロを行う兆候があったが、方法を変えて来たか。
「……シャルロット、一人で片付けられるか? こいつ」
デモ隊がまだ大勢いる以上、警備隊と犯行グループで交戦してしまうと民間人に大勢被害が出る。エルは元々、魔法犯罪を対処するのが主目的だ。手を貸していようが、増援に来ていようが、各々の役割は変わらない。
「片付けるじゃなくて、送る、です。問題ありません」
「そうだな──頼んだぞ!」
エルが警備隊の指示を受けて踵を返す。シャルロットも異論はなかったので、この場は二手に分かれることになった。
腹部への銃撃は効く。問題はその場に縫い留めたとはいえ、
「……ほんとにこんな成長した
ぼやきながら、側方から来る鎌の斬撃を躱し、再び地面を踏み鳴らす。輝いた踵の魔石から魔力が放出され、結晶化して足元を中心に浮遊する。
今は手数が必要だが、刃物よりも鋭利な悪性細胞を直接蹴るのは避けたい。浮かべた魔石を脚の動きと連動させ、蹴りで魔石を弾丸代わりに飛ばす戦法も併用する。蹴り込みで放った魔石で次弾の鎌を弾き飛ばし、対面から振るわれたハサミは跳躍で回避。四肢を使い、魔弾と魔石を乱射しながら戦う様は舞踏のようだった。
しかし。魔杭で打ち込んだ部位は、
「……なんか、変」
シャルロットは呟いて、
そもそも、前提からして妙なのだ。
なんだか不気味だ。予見できない相手に、言いようのない不安が足元から這い上がってくるような。
「……まぁ、いいや。火葬済ませて、エルさんの援護に──」
さて、どうやって火葬しよう。どちらにせよ外骨格は強固で、これは棺の中で燃やすしかない。やはり体内の悪性細胞を全て抜き、行動できなくしてから納棺するべきだろう。もっと大きな弾痕を開けようと、セレクターを操作して三発を凝縮した大口径弾に変更する。その間にも
刃蟲の
逃げるつもりか。
追いかけよう。魔導銃を握ったまま路地裏へ向かったシャルロットの耳に、ドミニクから通信が入った。
『シャルロット。ドミニクだ、お前、今から会場に来い!』
「なんです、こっちも手が塞がってるんですけど!」
取り込み中だ、いきなり来いと言われても困る。
思わず声を荒げたシャルロットは、続く報告に目を剥いた。
「海上から
海からタイトロープ島に砲撃を?
一体何を考えているかと思ったが、
「はぁー⁉ こっちはデモしてるとこに
『あぁ⁉ タイミングが悪すぎるだろうがどうなってる!』
そんなこと言われても知らない、とぼやきながら、シャルロットは市街地の状況を片手間に知らせ、ドミニクに問うた。
「ところでドミニクさん、生きた人に寄生する
『寄生なんて聞いたことがないぞ』
「ですよねぇ! しかも逃げるし再生速度は遅いしなんなのコイツ……!」
ドミニクの方も急を要するのは十分理解するが、巨大な
「急ぐんで切りますよ、一応、火葬終わったらそっち行きますから!」
返事も効かずに通信を切り、シャルロットは忌々し気に呟いた。
「ってか、今から私が来るまでって──行っても間に合わないでしょ……⁉」
着弾地点の予測が外れるか、長距離を進む都合、魔力が削ぎ落されて威力が落ちるか、どちらかを祈るしかない。現地にいないのだから何もできないのだ。
頭を切り替え、今は目の前の
旧市街と言っていいような、数世代前に建造された建物が並ぶ風情な街並みに、体液を垂れ流したままの
「ここで火葬するんだから……大人しくしててよね」
走って息の上がった喉から忌々し気に言い、シャルロットは魔導銃を収めてクラウィスを抜く。移動に体力も魔力も使ったのか、
意志は感じない。魔力を削って力尽きた
訝しみながらもシャルロットはガントレットからクラウィスに魔力を移し、納棺術式を起動させて一歩路地裏を進む。
かつんとヒールが路地を鳴らした瞬間、地面から強烈な魔力を感じた。
「な──」
驚いて床を見る。地面一面に散りばめられていたのは、赤く艶やかな魔石だった──先日グラナート海岸でノイエたちと交戦した折、子供たちが集めていたものだ。海中から採取した、純度の低い魔石。術式を刻むには質が悪くて、属性が極端に偏っていて魔法が暴発しそうな、それ自体が火属性の魔力を放つ危険物。
咄嗟に一歩後退すると、ヒールが魔石を蹴り飛ばした。振り返ると通ってきた道にも同様に魔石がばら撒かれている。
捜査局が押収して保管しているはずのものが、何故此処に。
そもそも今まで見えていなかったのに──疑問を脳内で反芻する間もなく、全ての魔石が魔力を放って炸裂した。
衝撃はない。煙も出ない。ただ暴力的な魔力が、シャルロットの体内を揺さぶり加熱する。ドミニクの様に常時魔力で身を守っていれば話は別だったが──シャルロットは魔力増幅器を使わなければ十分な魔力を確保できない都合上、コストカットとして魔力を纏ってはいなかった。
単純な魔力放出による攻撃は、体内によりダメージを与える。内臓から筋肉から、脳まで魔力で揺さぶられ、火属性の魔力で急激に体温が上がる。一気に火照った体を御しきれず、シャルロットはその場に膝をついた。
「──っは、あの、
今にも意識が飛びそうな状態で、シャルロットは
敵意はない。が、それまで感じなかった知性を感じる。
「はめ、られた──!」
狙いは私か──!
頭痛でうまく頭が働かない。動くたびにガンガンとハンマーで叩かれたように痛んで、本当はこの場から動きたくない。しかし、逃げなければ。
せっかく父が守ってくれたのに、その信念を無下にしてしまう事だけは──!
「待った。まだ時間稼ぎができている。急ぐ必要はないさ。それよりも傷を治したまえよ? お前は傷の治りが遅いのだから」
不意に後ろから声が聞こえて、刃蟲の
しかし、男の声に聞き覚えはない。声の主はシャルロットの肩に手をかけると、乱暴に引っ張って仰向けに倒す。視界が空を向いて、頭痛と火照りに顔を顰めながら己を見下ろす男を凝視した。
「随分手酷くやったものだ……やぁ。初めましてだ、シャルロット・S・ソーン」
栗毛の壮年は、杖で体を支えながら言った。体に合ったオーダーメイドのスーツはさぞ値が張ることだろう。
「私はオーウェン・E・エルゼルト。しかし……本当に、お父君にそっくりだな」
テオドリック・ソーンという男を知っているかね?
男は──オーウェンはしたり顔でシャルロットに続ける。
「あの男を殺したのは、私だよ」
瞬間、シャルロットの体が熱を持つ。
魔力によって活性化した体温ではない。父の仇を見つけたことによる、仄暗い激情が放った熱だった。
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