幕間 コランダムの煌めき
そうして、眠りの沼から這い上がる。
何一つ変わらない、シャルロットの深奥。暗く淀み切った泥にまみれ、いつものように体を起こす。耳をつんざく泣き声に、己すらろくに視認できない暗がり──の、はずだったが。
「……なんか明るい……」
いつもよりは視界が利きやすい。故に感覚でしか分からなかった己の身なりは、装備を粗方外した葬儀官の制服。ループタイを外したパフスリーブのブラウスにホットパンツといつもの出で立ちだが、泥で汚れているので湿っている。
「べたべたするなぁ……」
手で泥をこそぎ取るように拭いながら、シャルロットは遥か頭上を仰ぎ見た。
灯りの無かった暗闇を、青白く輝く星が一つ照らしている。柔らかだが確かな光のおかげで、いつものように重苦しい雰囲気に心が潰されることはない。
ドミニクの魔力だ。干渉はできないと言っていた癖に、ちゃんと其処にいるではないか。
「……おとうさん……おとうさん……」
耳に入った泣き声に、シャルロットは視線を地上に戻した。
相変わらず、ぐずりながらしゃがみ込んでいる少女がいる。常ならば早々に撃ち殺すところだが、シャルロットは感慨深げに彼女を見やるだけだった。
ああして、嘆いた日々もあった。無力な子供であるが故、ただ待つしかない日々があった。頼るべき家族は見切りをつけて我が身を守り、奔走する大人もまた、生きていることは諦めているようだった。
周りの全てが、父がいない事実をさっさと認めて受け入れているようだったから。自分ばかりが努力をしても意味がないと悟った。他の皆を同じように。決別しなければと思った。
けれど本当は、父の遺体や遺品が見つかるその時まで、信じていたいと願っていた。
故に幼い少女は父を呼ぶ。呼び続けないと、孤独で押し潰されそうだったから。
間違いなく、シャルロットの封じた感情そのものだった。
「……そうだよ、信じたくなかったの」
言って、ヘドロの床から足を上げる。粘着質な水音を立て、シャルロットは少女の前でしゃがみ込んだ。
「辛かったよ。苦しかった。嫌だった。お父さんがいなくて、頭がどうにかしそうで、気が狂いそうだった──大好きだったもの」
お父さんがいないなんて、考えられなかった。
少女が顔を上げる。向けられた視線は暗く淀んでいて生気がなかった。もしかしたら、目の前の女に殺され続けたことを覚えているのかもしれない。今日に限ってなんなんだ、と不信感丸出しのジト目で見つめられて、シャルロットは苦笑した。
無理もない。自分を闇に葬り続けた人間を、信用できるはずもないだろう。
「でもね、もういいの。お父さん、帰ってきたの……
「ほんとう……? 本当に帰ってきたの?」
「うん。だから会いに行こう? 会って、ちゃんとお別れしよう?」
両腕を広げ、少女を手招く。おずおずと少女が立ち上がって、シャルロットは沼の湖面に膝をつく。膝立ちになってようやく少女と背丈が同じだった。
「おいで。大丈夫、もう否定しないよ」
土台無理な話だ。こんな小さな子供に、誰の助けもなしで、たった一人で親の喪失を乗り越えさせろなどと。本当は、ちゃんと家族も支えてくれたのかもしれないけれど──今更そんなことを考えても後の祭りだ。母も兄も、他人のことを考える余裕ができた頃には、シャルロットは既に己を切り分けた後だった。
「ごめんね、もう独りにしないから、帰っておいで」
言うと、少女は大粒の涙をこぼしながらシャルロットに抱き着いた。両腕で静かに泣きじゃくる少女を抱きしめて、ゆっくりと腰を下ろす。
独りは嫌だと散々思いながら、実際は己自身を孤独に突き落としていたなんて笑える話だ。
「……もう、嫌だよ? 撃たれるのも、無視されるのも」
「うん、しないよ。だってあたしも、私だもの」
よく頑張ったね。告げると、一つ頷いた少女の体が淡く光り始める。紅紫色の魔力に分解されて、ゆっくりとシャルロットの中へ取り込まれていく。
胸が疼く。深奥に溢れる想いが、父の不在を嘆いている。唇を噛み締めながら再び宿った感情を飲み下し、少女の姿が掻き消えた。代わりに自分の両腕を抱えてから、シャルロットは立ち上がる。
一歩足を進めると、つま先から溢れた魔力が湖面を奔った。泥はあっという間に浄化され、透明感のある水に変わる。振り返れば積み立てた亡骸の山も魔力の塵へと分解されて、壁面に吸い付くと紅玉の結晶が次々と現れる。
花の様だった。茨のついた蔦を伸ばして壁面いっぱいを覆い、紅玉の花弁が深海の細穴を彩っていく。汚点として蓋をした穴が、ここまで彩られるとは驚きだった。
「汚いだけだと思ってたけど、意外と綺麗じゃん」
呆れたようにシャルロットは言った。潜るたびに淀んで暗くて、自分の精神世界などろくでもないと悲観していたが、汚していたのは己自身だったか。
はるか遠くの空から一筋落ちる光を紅玉が反射し、淡く穏やかな灯りに包まれる。シャルロットは天井の星に手をかざし、僅かな笑みを浮かべて握り込んだ。
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