第四章 背負ったものと、置き去りにしたもの 4

 いい感じに話が纏まったようだ。ならばあとは仕事の──テオドリックの火葬についての事を口頭で話しておいて、後はドミニクが退院するまでに準備を整えるだけだ。


「ドミニクさん、退院してからの事は──」

 

聞いてます? そう問おうとして、唐突に呼吸が止まって首を抑えた。


「──ッ」

「おい、どうした」


 音がするほどか細く空気を吸い込む。ギリギリと首を締めあげられる圧迫感に脳が真っ赤に加熱する。足元をせり上がる様な悪寒から逃げるようにつま先を立て、椅子に座ったまま首を抑えて体を掻き抱く。


 うまく呼吸ができない。深い湖の底に落とされて水圧で沈むような、ここではないどこかへ引きずり込まれるような感覚に襲われる。


「──おい、大丈夫か、咳はできるか」


 自然と喉が詰まった時の動作になり、呼吸困難に陥ったことに気づいたドミニクが、自分のナースコールを使って看護師を呼ぼうとした。手近にあったボタンに手をかけたところで、シャルロットは慌ててそれを引き留める。


 病的な問題ではないからどうにもならない。そう訴えたくても、呼吸がままならないのだから言葉にできなかった。苦しさで己の首を抑えながら人を呼ぶのを止めたシャルロットに、ドミニクはふと何かに気づいたようだった。


「お前、何か変なのがついてるぞ……首、見せてくれ」


 ドミニクが言ったので、息も絶え絶えに首を抑えていた両手を離す。入れ替わりでドミニクの片手がシャルロットの首に触れ、暖かな魔力が奔ったかと思えば、青白い火花が散った。


 バチバチと線香花火のように魔力が散り、次第に呼吸が楽になってくる。ドミニクの光で、テオドリックの魔力の残滓が祓われたようだった。


「──っは、ぁ……ありがとう、ございます」

「今の魔力、なんだ? 明らかにお前に殺意があったぞ」


 首を捻りながらドミニクに聞かれたので、倒れていた間に何があったのかかいつまんで話をする。


 癌化した父テオドリックに命を狙われている。そして理由が恐らく、娘であるシャルロットを守る、という親心から来るものである。


「お前が癌化したらヤバいどころの話じゃなくなるだろう。阿呆か?」


 ひとしきり話を聞いたドミニクの感想は、どう考えても現実的じゃない、だった。


「お前の魔力が垂れ流しになったら辺り一面魔力が停滞して、魔導機器も魔法も使えなくなる。停滞どころじゃないとすれば、重力が増えて何もかも地面に貼り付けだ。俺クラスのキャンサーになるんだぞ、最悪アトラシア大陸が崩壊する。側にいるキャンサーだってひとたまりもない」


 事実だけど、ちょっと指摘がズレてるなぁ、などと思う。父親に殺されかけるシャルロットの精神状態を労わるべきではなんて、自死のために彼女を利用しようとしていたドミニクに期待できることではないか。


「まぁそんなこんなで……ドミニクさんが復帰したら、お父さんを火葬しに行く予定なんですよ」


 深呼吸して、首を労わりながらシャルロットは言った。首にまとわりつくような違和感は、ドミニクのおかげで綺麗さっぱりなくなっている。


「お前は大丈夫なのか」

「何がです?」

「実の父親だろ。意識もある。生前の姿の幻影も使ってきたんだろう。撃てるのか」


 ドミニクの問いに、シャルロットは押し黙った。


 そういえばそうだった。ドミニクの件で頭がいっぱいだったので考えるまでいかなかったが、テオドリックを撃つことにはなる。


 幻影と接敵した時は、そもそも無理をし過ぎて戦闘行動をとれない状況にあったし、気が動転していたのもある。ジオに先んじて正嗣が直ぐにやってきたので、彼に任せっきりだった。


 自分が普段の調子を保てていて、戦えて。面と向かって父に引き金を引けるのか。


 改めて問われ、シャルロットはおずおずと口にした。


「大丈夫です、撃てます。でも……」


 心の中にあるのは困惑だった。何も撃てない訳ではない。キャンサーになっている以上は葬る他ないことも、これ以上存在させ続けることが酷であることも分かっている。


「……薄情でしょう? お父さんの事、大好きだったのに……撃たなきゃいけないって思ったら、躊躇なく撃てるんですよ?」


 人と違うんだと自嘲し続けていたのに、今となってはそれが魚の骨みたいに心のどこかに突き刺さっている。


 撃てるだろう。きっちり納棺し、ドミニクに火入れを受け渡すこともできるだろう。けれど。


 理解してしまえばあっさり実の父親を撃てる気がするのが、娘としてどうなんだ、と思う。


「今だって……お父さんの事なんて子供の頃に全部置いてきてしまったから、今どう思っているのか、分からなくて」


 かつて心の奥に置いてきた辛苦は確かだけれど、今もそれを持ち合わせているのかどうか──今でも父が好きなのか、判断がつかなかった。頭と心が乖離してしまって、正しい感情なのか分からない。幼いころの思いすら嘘だったのではと思うくらい不思議と動揺していないのが、我が事ながら怖かったのだ。


「あんなにお父さんが大好きだったのに、そんな気持ち、なくなっちゃったみたいで、怖くて」

「……そこにあるだろう」


 シャルロットが弱弱しく言葉を紡いでいると、ドミニクがおもむろに彼女を指差した。


「置いてきた思いも、今ある思いも、両方正しいはずだ。親父さんを愛してたことは、特にな」

「でも、なんか実感がなくて」

「ちゃんと向き合ってないからだ。その感情を、お前自身が消化できていないに過ぎん」


 ドミニクが何を伝えようとしているのか、うまく噛み砕けない。彼の言葉は時々抽象的で、肝心なところが省かれている節がある。


「──迎えに行ってやらなくていいのか」

「……それは、どういう?」

「親父さんがいなくなって、お前はどうして辛かったんだ?」


 ドミニクは問うた。

 そんなの決まっていると、シャルロットは指を下ろしたドミニクに言う。


「──そんなの、そんなの……寂しかったからですよ。もう、お父さんの声聞けないかもって……もう抱きしめてもらえないかもって思ったら、悲しくなって」

「それだ。お前は切って捨てたその感情を、己のものにできていない」

「いや、今はもう大丈夫なんです。ずっと昔に割り切ったので、もう」

「嘘をつけ。ジオから聞いたぞ、俺が死にかけて錯乱したと。さっきも言ったじゃないか、昔と同じ思いをしたくないって。当時は大丈夫だった訳じゃないんだろう。今誰かを失うことを、極端に恐れるくらいには、な」

「……もうちょっとストレートに言ってもらえませんか」


 まだドミニクの言葉の確信が掴めない──はっきり言ってもらわない限り、理解することを恐れているのかもしれない。それは何故だ。


 怖いからだ。己の心を、自ら封じた過去に向き合うことは、想像以上に痛みを伴う。


「受け入れてやってもいいんじゃないのか。まだ子供のお前が、お前の中で泣いているんじゃないのか」


 心を切り捨てる事も、切り捨てた心を再び拾い上げる事も。たった一人では潰れてしまうほど困難なのだ。


「なんで、それを」

「自分の心象風景に潜り込むことなんてザラにあるだろ、勘だ。満たされなかった過去を許してやれるのは、お前だけだ。他人の心には直接干渉できんからな。こうしてお前の助けになることはできるが、直接お前をどうこうする力はない」


 ドミニクは言って、静かにシャルロットを見据えた。


 不意に、度々夢見た世界を思い出す。


 父は帰ってこないのか。いなくて寂しい。声が聞きたい。もう一度抱き上げてほしい。錯乱したように泣き叫ぶ子供の自分を、物分かりが悪いと撃ち殺し続けた。夢見るたびに亡骸は増えていって、キャンサーになったテオドリックが現れてからは毎晩悪夢の様に見続けた。


 もう、山のように死体が積み重なっていた。こぼれた血液で底なしの池ができるくらいに。


「十分頑張っただろう。もう許してやれ。否定しなくてもいい」


 その亡骸の山を見上げて。光が届かない暗闇の中で。一体何を思っただろう。


 ──きっと、幼い自分と、同じことを感じていたのではないだろうか。


「……そっか」


 叶わない願いを叫び続けることも、かといって本心を殺し続けることも、本来は同じくらいの苦痛をもたらすはずだ。


 父がいない事実と、心を保持するために己を殺すことと。その両方を天秤にかけて、重かったのはテオドリックがいない事実の方だった。痛みはマシになったものの、決して苦しまない訳ではなかったのだ。


 堰を切ったように再び涙が溢れだして、シャルロットは思わず目元を抑えた。急に腹の底が熱くなって、脳が沸騰するように顔まで真っ赤に加熱する。


「……そっか、私、こんなに……こんなに、苦しくて……まだ、お父さんの事、大好きで……!」


 単純な話だった。自ら諦めてしまったから、父に対する感情が当時のまま止まっているだけだった。傷つかないために大人になろうと思ったのに、実質、子供のままだった。


「……泣きたいだけ泣いてしまえ」


 胸くらい、貸してやる。ドミニクが言って片手を広げたので、シャルロットは飛びつくようにドミニクに抱き着いた。


「──っ、う……! 嫌だった、いやだったの……! もう一回くらい、会いたかった……!」

「……そうだな、だろうな」

「あんな、いきなりいなくなるなんて、考えもしなかったから……! 信じたくなかった……!」

「あぁ、そうだな」

「諦めたくなんてなかったし、帰ってきてほしかったし、でもそうしないと、苦しすぎて生きていけなかったから、あ、うぅぅ……!」


 長年抑えていた慟哭が、病室に長く響いた。ゆっくりと、優しくドミニクの腕が背中に回される。何分そうしていたか分からないが、シャルロットが落ち着くまでずっと、ドミニクは彼女の背中をポンポンと軽く叩き続けていた。


 再び顔を上げた時には顔中涙で汚れ、メイクも完全に崩れてしまっていた。ドミニクの病院着にアイシャドウが付着しているのを見て、シャルロットは起き上がりながら顔を抑える。


「……すいません。服、汚しました」

「構わん。洗えば済むことだ」


 お気に入りの、マゼンタのアイシャドウ。酷い顔だな、とよれたメイクを笑われて、シャルロットは思わずそっぽを向く。


「……いいです。直してから出ますから」

「そんな顔、俺以外に見せるなよ」


 何気なく言われて、シャルロットは軽く噴き出した。今自分が何を言ったのか、ドミニクは気づいているだろうか。


「そっちこそ、そんな口説き文句、私以外に言わないでくださいよ」

「何のことだ」

「気づいてないならいいです」


 案外鈍感だな、なんて思って、シャルロットは落ちた鞄を再び拾い上げた。


「まぁ、親父さんの事は心配するな。俺が隣にいてやる」


 帰り支度を始めたシャルロットを見て、ドミニクが言った。


「──頼りにしてますよ」


 言うと、ドミニクが当然だと言わんばかりに鼻で笑った。

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