幕間 心を閉まって、後ろを向いて、前に進んで
幼いシャルロットの小さな手の中には、己の拳大はある若草色の結晶が握られていた。できるかな、と思い付きで、父テオドリックと遊んでいた時に造ってみたものだ。結局それはシャルロットの固有魔法であり、多量の魔力を使った反動でシャルロットは卒倒。テオドリックもまた急激に魔力を奪われたことで失神してしまい、二人が救急車で病院に担ぎ込まれる事件となったわけだが。
父が急にいなくなって、早三週間。テオドリックの帰りを待ち続けるシャルロットは、リビングのソファーで大事そうに魔石を抱きしめていた。
「……お母さん、お父さん、まだ帰ってこないの……?」
お父さん、帰って来るよね? シャルロットは出かけるための身支度をしていた母、
「……そうね、きっと見つかる。帰って……来るわよ」
美里は顔を伏せ、力なく言った。
鞄の置かれたダイニングテーブルの上には、書類の入ったファイルがある。何の書類なのかは分からないが、何かしらの手続きに必要なもののはずだ。
「じゃあ、出掛けてくるわね。家から出ちゃ駄目よ」
それだけ言い残して、美里は家を出ていった。
つきっぱなしのテレビからはニュースが流れていて、最早全国区となったアウロラの集団失踪事件の話題が長い時間を作って放映されている。行方不明者、総勢三十六人。その中に、テオドリックも含まれる。ニュースの内容は警察の初動捜査の不備や現在の警備状況、情報提供のための連絡先などが主だったが、既にいなくなった人間に共通点がないか、という憶測の域にまで達していた。
被害者の一人として、テオドリックの名前と顔写真が上がっている。現役の葬儀監督署の職員で、妻子持ち。素行に難は無く、自ら行方を眩ませるような人格ではない。
淡々と読み上げられ、あることないこと好き勝手に話すコメンテーターの言葉が耳に突き刺さるよう。聞きたくなくて、シャルロットは肩で耳を塞ぐように身を竦めた。
自宅には子供が二人。ダイニングで勉強をしている兄の
「……お兄ちゃん」
「……なんだよ」
拓海は返事をして耳栓を取り、リモコンでテレビを消した。
「……お父さんいなくて、寂しくないの?」
「──慣れた。もう帰って来ねぇだろ」
拓海はぶっきらぼうに言った。テオドリックがいないことをすっかり認めて、受け入れているようだった。
シャルロットは諦めたくなかった。大好きな父が帰ってくると、信じたかった。
「……あたし信じてるもん……お父さん、帰って来るもん」
「──帰って来ねぇよ、もう何日経ってると思ってんだ⁉ 三週間だぞ、もうとっくに
物分かりの悪いような、子供ながらの純粋さで現実から目を背けるような。そんな物言いが癪に障ったのか、拓海は怒鳴った。ダイニングテーブルを握りこぶしで叩いた大きな音に、シャルロットはびくりと身体を跳ねさせた。
それでもシャルロットには、何故拓海が既に諦めているのか、まだ分からなかった。
「死んでない、帰って来るもん! お父さんがあたしを置いていくわけない!」
「じゃあなんで今まで帰って来ねぇんだよ⁉ それともなにか⁉ お前が父さん連れ戻して来るのかよ、捜しに出たこともねぇ癖に偉そうなこと言ってんじゃねぇ!」
「じゃあ捜してくる! あたしがお父さん見つけてくるもん!」
「──っ、おいシャル! 一人で出るなって言われて──!」
売り言葉に買い言葉で、シャルロットは母の言いつけをすっかり忘れて立ち上がる。若草色の魔石をソファーに放り投げて、拓海が止める間もなく玄関から外に出た。
*
お気に入りのサンダルを履いて、シャルロットは近所をただただ走った。当然だが当てもなく、身を隠せそうな場所を覗き込みながら手あたり次第に移動して、捜して、また走る。なまじ身体能力のあるシャルロットだったから、夢中で辺りを走り回り、気づいた時には見知らぬ場所にいた。
「……ここ、どこ?」
たかだか七歳児の足取りと体力だ、きっと近所なのだろうが、出掛ける時は常に両親の車か、そうでなくとも片方が一緒だった。父を捜すと息巻いて外に出たはいいものの、自分が迷子になってしまった。
見知らぬ場所で、急に心細さが襲ってくる。一人で外に出るなとの言いつけを今更思い出して、シャルロットは尚の事怖くなって、その場にしゃがみ込んだ。
「……おとうさん、どこ……?」
できる限り多人数での外出を求められているのは、当然失踪事件が解決していないからだ。新たな被害者を増やさないよう、単独行動は行政から止められている。
にもかかわらず、感情に任せて出てきてしまった挙句がこれだ。約束を破ってしまったことが怖くなって、シャルロットは瞼に涙を浮かべながら腰を下ろした。
誰か見つけてくれないか。そう思っても、人通りの少ない道のようで。人はいないし、車も通らない。家に帰ろうと思っても、帰り道が分からない。子供に支給される個人端末は身元確認に使われるだけのもので、通信機能はついていなかった。
「……おとうさん……帰ってきてよぉ……」
大粒の涙を流しながら、シャルロットは膝を抱えて俯いた。もうどうしようもなかった。まだ小さなシャルロットには、自分の身を守る方法がなかった。
このまま見つけられずに、
「君、こんなところでどうした」
テオドリックよりも背の高い、こげ茶の髪をした男だった。手に刀を握っているのに驚いて、シャルロットは思わず後ずさる。
刃物、つまり武器だ。まさかここで殺されてしまうんだろうか。もしかしたらこの人たちが父の失踪に関わっていたりしないだろうか。不信感から身を護るように己の身体を抱きしめたシャルロットに、男はようやく自分が持っている刀のせいで怯えられていると気づいたらしい。
「失礼、君に対して敵意はない。私は葬儀官の木内という」
木内と名乗った男は刀を腰に差し、端末を取り出して身元証明の画面を見せた後、小さく身を縮めたシャルロットから少し距離を取って片膝をついた。赤褐色の瞳が心配そうに細められている。
「葬儀官……? お父さんと一緒の仕事!」
黒いジャケットに、ところどころ武装しているが、確かに見なりは整っていて役所の人間のようにも見えた。なにより男の口から飛び出てきた役職の名前に、シャルロットは顔を上げて問う。
「お父さん、知ってますか⁉ いなくなっちゃったんです、あたし、お父さんを捜してて!」
藁にも縋る思いで言った問いに、木内もまた目を見開き。
「父親……? 君、まさか」
テオドリックの子か、と答えた。
「そうです、テオドリック・ソーンの娘です! お父さん、どこにいるか分かりませんか⁉」
どうやら父の知り合いのようだ。しかし目の前の子供が知人の娘だと気づいた木内は、盛大に頭を抱えてしまった。
「……そうか、テオドリックの……」
言ったきり、木内は何度もため息を漏らしながら首を横に振るばかりだ。どうしたのだろうと小首をかしげていると、運転席から出てきたもう一人の男がシャルロットに声をかける。
「嬢ちゃん、俺らは葬儀監督署の悪性新生物対策課って部署のモンや。心配せんでええで、家まで送ったる」
「……彼女、テオドリックの娘だそうだ」
「──マジか?」
「マジだ。髪も目もあいつと同じだ」
「ほんまやなぁ……」
片膝をついた木内と、もう一人の葬儀官が立ったまま困ったように見下ろしている。
自分がテオドリックの娘で、なにか不都合があるのだろうか。シャルロットは大人二人の反応に困惑して、おどおどと口を開いた。
「……おとうさん、帰って、きますか……?」
声は小さく、震えていた。心細そうに問うた言葉に、木内はしばらく返事を返さなかったが──
「……ああ、帰って、来る……そのために、俺達はこうして巡回をしている」
苦々しく、顔を歪めて言った。
本当に? と思った。本当に帰ってくると、見つかると思っているなら、こんな弱弱しい声色は出さないはずだ。自分よりも遥かに大きく頼りになりそうな大人まで自信なさげにしているので、シャルロットはますます不安になった。
信じて、願って、足掻いて。諦めるのは、遺体が見つかった時でいい。それなら諦めようがあるのにどうして。
何も見つかっていないのに、大人は諦めてしまうのだろう。
「……嬢ちゃん、車、乗り? 家まで送るで。子供が独りで出歩いたらあかん」
さっき警察から捜索協力が来た。七歳の女の子で、薄ピンクのワンピースにミルクティーベージュの髪。君やろ?
同行していた葬儀官が問うたので、シャルロットは弱弱しく頷いた。けれど。
「……お父さん、見つかるまで、帰りたくないです」
拓海に啖呵を切って出てきたのだ。手柄もないままとんぼ返りするのは情けなさ過ぎる。
「けどなぁ、君のお母さんもお兄さんも心配してんで? 捜索は俺らに任せて帰り? 大人困らせるもんやないで」
「でも……! みんなそう言って何も見つけてくれないじゃないですか!」
シャルロットが今まで以上の声で叫ぶので、男はぎょっとして口を噤んだ。
図星だったはずだ。行方不明者に関わる証拠品や、目撃情報まで。彼彼女らが普通に過ごしていた時以降は見つかっていないのだ。何一つとして、手掛かりはない。
「──分かった、日が落ちるまで君と一緒にテオドリックを捜そう」
言って、木内が立ち上がる。シャルロットの威勢に根負けしたのか、しかし彼はこう条件を出した。
「捜索は車の中から。外に出ようとはしないこと。日が落ちたら、きちんと家に送り届ける。それが飲めるなら、君を連れて巡回に戻る」
「おい正嗣」
「……納得しないだろう、こうでもしないと」
シャルロットはその条件を受け入れて、葬儀官二人の巡回に連れて行ってもらうことにした。
*
しかし、やはり父は見つからなかった。そのまま日が暮れてしまって、シャルロットは自宅まで送り届けられた。
「シャル……! 心配したのよ、いきなり外に出たって拓海が言うから……!」
「……ごめん、なさい」
「──奥方。少し、いいですか」
玄関先で美里に抱き留められ、俯くシャルロットを見ながら木内が言う。どうやら美里と二人で話をしたいようで、シャルロットはすぐに玄関からリビングに戻ることになった。
扉を開けると、拓海が顔を歪めて駆けよってくる。
「俺が悪かったよシャル、俺のせいでお前までいなくなったらどうしようって……!」
「……いきなり出ちゃって、ごめんなさい」
シャルロットの無事を確かめるように肩を抱く拓海に返事をしながら、シャルロットの意識は玄関に向いていた。
木内と母がどんな会話をするのか、単純に興味があったのだ。
そっと扉から漏れる声に耳を澄ませる。拓海はシャルロットの無事にそれどころではなかったようだが、しっかりとシャルロットの耳は会話を捉えた。
「……なんの手がかりもなく娘さんを連れ回して、申し訳ない」
「いいんです……シャルはお父さんっ子だったから、テオがいなくなって一番心細い思いをしているのは、あの子でしょうから」
「……ここまで手ごたえがない捜査は、警察も初めてだそうです。綺麗さっぱり、何事もなかったかのように皆消えている。仮に犯罪だとしても、大きく事を起こしておいて、足がつかなさすぎる。妙なんです」
「……でも、対策課が出てきたのなら……そういうことでしょう?」
やはり諦めたように美里が言う。続けた木内の返事に、シャルロットは目を見開いて扉を凝視した。
「……そうですね。行方不明者の捜索は、既に葬儀監督署に委任されています。我々が捜しているのは……行方不明者の死体だ。或いは、彼らを食った
──ああ、そうか。だから、皆自信なさげに『テオドリックが帰ってくる』と言ったのか。
シャルロットは歳のわりに聡明な子供だった。相応にお転婆でらしさはあるが、同時に物分かりが良すぎたきらいがあった。
だから、今回も気づいてしまった。
嘘だ。全てが嘘。大人は既に、今回の行方不明者が生きて帰ってこないことなど気づいている。シャルロットがまだ子供だから、父は帰ってこないと残酷なことを伝えられないだけ。
「……先ほど、死亡手続きをとってきました」
「よろしかったのですか? まだ他の被害者家族も、死亡手続きまでは──」
「……テオが、子供たちを置いて、どこかに行くはずがないんです……だからもう、諦めるしか」
「お子さんには、いつ話をする予定ですか。特にご息女は……まだ、諦めていない様ですが」
「……まだ、決めかねています。あの子は敏い子だから、もう薄々気づいているかもしれなくて……それでも信じているようだから、いつ話すべきか……」
木内と母の会話は、それからしばらく続いていた。
「お兄ちゃん。お父さん、帰ってこないんだね」
「……シャル?」
シャルロットは乱暴に肩を抱く兄の手を払い、押しのけてソファーに向かった。突然行動に力が入ったのを怪訝に思った拓海の視線をよそに、放り投げたままだった若草色の魔石を手に取る。
「……帰って、こないんだね」
呟いて、シャルロットはリビングから仏間に入った。電気もつけず、暗い室内の中、仏壇の前で止まって座布団に座った。
父の魔力を凝縮した魔石を握る手が震えている。そのままゆっくりと仏壇に魔石を置くと、鈴を鳴らすための鈴棒を握った。
父はもう死んだも同然。帰ってこない。シャル、と愛おしそうに呼ぶ声も聞けない。抱きしめてももらえない。共に過ごすことが叶わない。
どれだけ信じても、願っても、祈っても。シャルロットの想いは届かない。
苦しかった。胸が引き裂かれそうなほど苦しくて、呼吸がままならないほど深奥が熱くなる。強く閉じた瞼から大粒の涙が溢れだして、しかし拭いもせずにシャルロットは微動だにしなかった。
苦しい。悲しい。辛くて、痛い。
こんな思いをしたくはなかった。大人が嘘をついたのはきっと、まだ子供の自分が苦しまないよう、ずっと信じさせ続けて願いを心の支えとするためだ。
けれど叶わない。願い続けた祈りが砕かれるのは、期間が長ければ長いだけ、受けるダメージも大きくなる。故にシャルロットは気づいた。
初めから期待なんてしなければ、こんなに苦しまずに済んだ。
子供だから無邪気に信じる。大人は早々に事実を認めているから、兄のように既に余裕がある。
「……おとうさん」
大人になろう。下手に期待をせず、諦められる大人に。そうすれば、こんなに傷つかない。
鈴を鳴らして、シャルロットは仏壇と魔石に向かって手を合わせた。
あたしは──私は、もう大人になる。子供だから辛いなら、子供であることを辞める。
リビングから少し開いた引き戸から心配そうに拓海が見つめているのに気づいていたが、シャルロットは振り返りもしない。大粒の涙で頬を濡らしながら、気が済むまで手を合わせ続けていた。
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