第4章 肆つ眼の旅人

 リシャルトが目覚めたのは、人の手入れがなされた洞窟の中の開けた場所だった。空気の流れや湿度から、そこが洞窟の奥深くなのだとわかった。じわりと汗ばんだ額を革手袋越しに拭い、リシャルトはため息をつく。寝汗をかいたせいで少し体が冷えていた。ゆっくりと起き上がると、リシャルトの周りを旋回するように漂っているヘルトラウダの姿が目に入る。


「随分と魘されていたね」


 ヘルトラウダが宙を漂いながらリシャルトに言った。


「うーん、さすがに今回のはしんどかったね……」


 リシャルトはくしゃりといつもの苦笑いで鉄黒色のくせ毛をわしわしと掻いているが、顔色は良くなかった。何の痕も残ってはいないのだが、膂力によって絞めあげられた感覚が生々しく首にまとわりついている。それを振り払うかのようにリシャルトは一度深呼吸をし、そして立ち上がった。オーガの手によって初めて死んだときほどの驚きはないし、そもそもこの魔導書内で自身が体験しているのが本物の死なのか定かではないのだが、死因が何にせよそう何度も味わいたくはない体験ではある。


「きみは……、やはり恐怖よりも好奇心のが勝ってしまうんだね」


 すー……とヘルトラウダが近づき、リシャルトの隣に浮かぶ。その言葉にリシャルトが笑った。今度は苦笑いではなく、曇りのない笑顔だった。


「うん、どうやらそうみたいだ」


 自身の新たな一面を発見したようで、リシャルトは嬉しそうだ。どこか狂気的にも見えるが、ヘルトラウダにとっては些細なことである。彼には改竄者を排除してもらうだけでいいのだから、たとえ狂人であろうと構わないのだ。


「さ、行こうか」


 リシャルトがそう言って軽く伸びをすると、彼の腹が切なげにぐぅ……と唸った。


「そろそろまともに何か食べないとだね……」


 リシャルトがしょんぼりと俯く。この二日半で口にしたものと言えば果実と水だけである。袋に残していた果実も、絞殺されたことによって失われていた。炭鉱で拝借したランタンも、戦闘で使った剣もない。ヘルトラウダの索敵によれば、この周辺一帯に魔物の気配はなく、ひとまずは改竄者の気配や痕跡を求めて歩くことにした。鼠がいないか目を凝らしつつ、リシャルトは黙々と歩き続ける。洞窟の壁には大雑把な感覚で松明が掲げられており、橙色の灯りが洞窟内を照らしている。足元は厚い木の板で舗装され、かなり歩きやすい。

 大体二時間ほど歩いたところで、ヘルトラウダが口を開いた。


「改竄者ではない……、誰かが近づいてるね。食料など分けてもらえたらいいのだけれど」

「ほ、ほんと⁉ 敵意はないかな……」


「そこまではわからないから、お目にかかってからの判断となるね」


「うーん……、良い人でありますように……!」


 リシャルトが胸の前で手を握る。

そこから半時ほど歩いて——。

リシャルトたちは旅人と出会った。琥珀色の四つの眼を持つ、灰色の肌をした蜥蜴族の旅人に。



「いんやぁ! それは大変だったねぇ!」


 四つの眼を細めて蜥蜴族の旅人は、干し肉とパンとチーズに齧り付いているリシャルトを苦笑交じりに眺める。蜥蜴族の旅人は名をヘリットといった。


「ほんとに、ありがとうございます……」


 干し肉を飲み干してから目じりに涙を浮かべ、リシャルトが何度目かの礼を言う。「いいのいいのぉ」とヘリットは間延びした声でそのたびにリシャルトの肩をぽんぽんと軽く叩いた。


「それにしても、ここで出会えてよかったよぉ。この先、半日歩かないとなぁんにもないんだから」


 ヘリットが四つの眼を丸くして、改めてリシャルトに言った。ヘリットの目的地はリシャルトが来た道の先にある◇国だった。この洞窟はヘリットの住む◇国への近道らしいが、これを通っても◇国へは丸一日かかるらしい。


「ここから半日歩けば、ドリカの雑貨店があるから、そこで……。うーんでもそうだなぁ。あなたお金持ってないんだもんねぇ……」


 そう言ってヘリットはカリカリと、とがった爪で頭頂部を困ったように掻く。「うぅん……」と、四つの眼が困ったように細められた。


「雑貨店! 洞窟内にあるんですか?」


 リシャルトの問いかけに


「ほんとにこの辺が初めてなんだねぇ、よくすっぴんでこの洞窟に入ってきたもんだよぉ」


 ヘリットはふにゃりと笑った。何も持っていないリシャルトに出くわしたときは大層驚いた。ヘリットはリシャルトのあまりの低姿勢さと丁寧さ、その経緯の不憫さと気の毒さのあまりに食糧と飲み水を分け与えるに至ったのであった。しかしリシャルトは今回すべてを説明するとややこしくなると思い、武器防具の類、持ち物や食糧がないことについては野盗に奪われたと説明している。


「ぼくは行商人でね、ドリカのお店にも商品を卸しているんだけど。中でも目玉となるのはドリカが採ってくる魔石なんだよねぇ」


 嬉しそうに大きな背嚢(はいのう)をぽんぽんと叩くヘリット。おそらくドリカと言う店主と取引した魔石が入っているのであろう。


「魔石! 見てみたいなぁ……」


「ぼくのはちょっと特別な商品だから、今回見せてあげられないんだけど、この先に行くなら必ず通るから、冷やかしに覗いてあげてよぉ」

 蘇芳色の瞳を輝かせるリシャルトにヘリットは四つ眼を細めて笑いながら言った。


「ここは旅人やぼくみたいな行商が必ず行き交う道だからねぇ」


 ヘリットは別の小さな袋から李を取り出すとリシャルトに勧めた。リシャルトは礼を言って李を受け取る。最初にもらったチーズとパンと干し肉は、すっかりと綺麗にたいらげた後だった。


「ただし野盗や、行商とか旅人のふりをしたスリも多いからね。今のあなたは何も持ってないから、よほどのことがない限りは襲われないだろうけどぉ……」


「うぐ……、気を付けます」


 李を喉に詰まらせそうになりながらリシャルトは苦笑いをした。ヘリットのその口ぶりからするとヘルトラウダの索敵通り、この洞窟には魔物は出ないようだ。ヘリットに出くわす前、ヘルトラウダは自分の存在を黙っているようリシャルトに言い、袋の中でじっと二人の会話を聞いていた。もちろんその間も索敵は続行しており、改竄者が現れないか気を配っている。リシャルトもなるべく説明の手間を省きたかったのでそれに合意し、ヘルトラウダのことは一切口にしていない。

 隣に腰掛けているヘリットとともに、李の実を味わうリシャルト。まだ完熟とは言えないが、甘酸っぱくとても美味だった。ヘリットが李の種をその辺に放り投げる。


「本当に、なんて礼を言えばいいのやら……、至れり尽くせりすぎる……」


 涙ぐみながら李を齧るリシャルトを見て、ヘリットは「ふーむ」と笑った。


「じゃあ、あなたの住んでいる国の話をしてよぉ」


 ヘリットが四つ眼を細めて、強請るように首を傾げる。


「それでよければいくらでも! ……と、言いたいところだけど」


「時間制限があるのはお互い様だからねぇ。そうだなぁ……。じゃあ、あなたの生い立ちが知りたいなぁ」


 ヘリットは笑顔で尻尾をゆさゆさと振った。


「生い立ち……、うーんと。記憶があるのは確か……」


 リシャルトがこれまでに読んできた本のこと以外を思い返すのは、久々のことだった。




 リシャルトが物心ついたとき既に両親はなく、病弱な祖父と二人きり、激しい雨の日には雨漏りがする家で暮らしていた。祖父はある程度の読み書きができたので、写本を作る仕事に携わっていた。とはいえ読み書きと言っても回ってくるのは末端の安い仕事のみで、その仕事も病気で休みがちとなると常に家計は火の車だった。それでも祖父はリシャルトに古本を買い与え、読み書きを教えた。自分がいなくなっても、職にあぶれて餓えることがないように。リシャルトは自分を想って慈しんでくれる優しい祖父が大好きだった。夜には童話を聞かせてくれるし、読み書きが上達したり、リシャルトの背が少しでも伸びると喜んでくれた。


 そんなリシャルトが祖父に強請る古本は、初めの頃は祖父が聞かせてくれた童話やおまじない程度の魔術本、かんたんな占星術の本などだった。それから少しずつ、罠猟の本、生活の知恵や料理の本、護身術の本、祖父の病に効きそうな薬草の図鑑など、実用的なものが増えていった。「もっとほかの本を選びなさい」と言われても、リシャルトは実用書を選んだ。そのうち祖父もあきらめ、古本屋での会計が済むと何も言わずに頭をぽんと撫でるだけになった。

 言葉を交わせる期間が、もう長くはないと祖父も悟っていたからかもしれない。実用書の内容を身に着けることでわずかにでも家計が救われることと、それがリシャルト自身のためになるということを。

リシャルトは時折、外に出て本を読んでいた。特に実用書を読むようになってからはその回数が増えた。祖父の顔を見るたびに、その背中を見るたびに。祖父とともに過ごせるのが、あとどのくらいかを冷静に考えてしまう自分が嫌だったからだ。万人向けに訳された医学書を祈るように何度も読み返したくせに、これっぽっちも涙が出ない自分に嫌気がさしていたのもある。そして今自分にできることが、実用書の内容や祖父から教わった読み書きの技術を高め、リシャルトの身を案じる祖父の不安を少しでも軽くすることだけだということにも。

全ての人の悲しみに、必ずしも涙が伴うわけではない、と知るのは、祖父を看取ったリシャルトが酒場の仕事での休み時間に、小難しい心理学の書物を読んだときであった。

寝台の上で息絶えた祖父の手を握ったあの日も、祖父を土葬したあの日も、一人で迎える初めての夜も。自身の悲しみには必ずしも、涙は伴わなくてもいいと知ったのだ。

それからリシャルトはますます本の世界へとのめり込んでいく。その好奇心は自分でも底が見えないほどに深く色濃くなっていき、枯れることを知らない泉のように探求心が湧き出で、特にその興味は、初めはおまじない程度にしか知らなかった魔術へと向けられていったのである。




「こんな感じかなぁ……」


 なるべく短めに、自分の生い立ちを話し終えたリシャルトは頭を掻く。


「ふおおぉ……! やっぱり誰かの生い立ちを聞くのって、いいねえぇ……!」


 ヘリットが琥珀色の四つ眼をきらきらと輝かせ、尻尾をびたびたと地面に打ち付ける。両手で拳を握り、嬉しそうにぶんぶんと振るさまを見て、リシャルトも思わず微笑んだ。


「本当にこれがお礼でいいの?」


「いいよぉ! なかなか誰かの生い立ちなんて聞く機会ないからねぇ!」


 興奮したようにふんふんと鼻を鳴らすヘリット。彼が満足そうならそれでいいか、と思ったが——。


「……」


 リシャルトは地面に転がる二つの李の種を拾った。


「ねぇヘリットさん。僕、さっき話した通り、魔法が得意なんだけれど」


 種を握りしめ、リシャルトはヘリットを見る。琥珀色の四つ眼が不思議そうに瞬きをした。


「ヘリットさんの旅路が少しでも楽になるように、ちょっとした魔法をかけてもいいかな?」


 リシャルトが自信いっぱいに笑うと、ヘリットも尻尾をびたびたと再び打ち鳴らした。


「ぜ、ぜひぃ‼ 大歓迎だよぉ‼」


 両手だけでなく両足もばたばたと動かして興奮するヘリット。これ以上は地面に貼られている床板が抜けそうなので、リシャルトは種を地面に並べると、ルーンを唱えた。ヘリットを淡い赤色の光が包み込み、やがて二つの種は光の粒子になって消えていった。


「体力増強魔法と、身体強化魔法です。種を触媒に使っているのでヘリットさんの体力を前借していないし、副作用も一切ないよ」


 四つ眼をぱちくりさせるヘリットにリシャルトはかけた魔法の説明をする。身体強化魔法は体力の前借をすると、翌日は強い疲労感や筋肉痛などに襲われるのだが、今回は李の種にリシャルトの魔力を多めに注いでヘリットの体力増強と身体強化を行ったので、ヘリットには何のデメリットもない。


「お、おぉ……!」


 ヘリットは再び興奮し、尻尾を今度はぶんぶんと振る。


「確かに、体がポカポカするよぉ! 効果はどのぐらい?」


 ぐるぐると片腕を回しながら、ヘリットがリシャルトに尋ねた。


「誤差があるかもしれないけど、一日は持つよ」


 その言葉にヘリットは嬉しそうに鼻を鳴らして斜めがけの小さな袋と大きな背嚢を素早く背負った。


「いつもよりすんごく荷物が軽いやぁ! ありがとうねリシャルト!」


「こちらこそ! いろいろと、ごちそうさまでした」



 ヘリットと笑顔で別れたリシャルトは、彼の背中が見えなくなるまで手を振り続けた。

ゆらゆら揺れる尻尾が洞窟の暗闇へ小さく吸い込まれていくのを見送ると、斜めがけの袋をぽんと軽く叩いた。


「どうかした?」


 いつもの穏やかな声音が返ってくる。


「いや、あまりにも静かだから寝ちゃったのかなって」


 リシャルトが少しだけからかうようにヘルトラウダに言った。


「魔導書は眠らないよ。きみの生い立ちの話もちゃんと聞いていた」


 ヘルトラウダの言葉は相変わらず無機質で穏やかだったが、リシャルトはなんとなく気恥ずかしくなりしばらくの間、無言で洞窟内をひたすら歩き続けたのだった。


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