第2章 弐種類の果実

 リシャルトとヘルトラウダが地下書庫から、魔導書ヘルトラウダの中へと旅立っておよそ一日が経過した。リシャルトに至っては魔導書の外の世界で半日ほど活動しているので、そろそろ休息をしたいところであるが。


「わぁあ! ねぇヘルトラウダ! この植物を見てよ、△△だ!」


 珍しいなぁ、と感嘆の声を上げながら石壁を伝うように伸びる植物に目を輝かせている。ヘルトラウダはリシャルトから少し離れた位置で、空中に浮かびながらその様子を見守っている。彼らが今いるのは、石壁や石畳を植物が侵食している部屋だった。光源らしきものは見当たらないのだが、この一帯はまるで昼間のように明るい。


「人間的に、そろそろ休息が必要だと言っていた気がするけれど」


 真紅の栞をゆらゆらと揺らすヘルトラウダ。改竄者を早々に見つけ出したいのが魔導書としての本音だが、リシャルトのように興味があちらからこちらへと世話しなく楽し気に移り変わる人間には小うるさく言っても無駄だろう。


 なので、せめて改竄者と出くわしたときに備えて少しでも体力を温存してほしいのだが。


「大丈夫だよ、ちゃんと考えてるんだから」


 振り返ってヘルトラウダに笑いかけるリシャルト。


 特殊魔導書であるヘルトラウダに目はないのだが(一部の特殊魔導書には目や口が付いているものもある)、ヘルトラウダはリシャルトのしぐさや表情を読み取れる。


「こんな状況下でもそれだけ素敵な笑顔を浮かべられるのだから、私は君に出会えてよかったと思うよ」


 ヘルトラウダはぱたり、と広げていた体——本を閉じる。相変わらず穏やかな声音だった。


 にっと歯を見せて笑ってからリシャルトはヘルトラウダを見て、再び石壁に伝う植物を観察する。ここに伝って伸びてきているのは植物の先端の方で、別の場所に根本があるようだ。口元を指先でなぞりながら、リシャルトは植物の根元を目で辿っていく。


「こっちだよ」


 リシャルトは振り返らずに、植物の根元を辿って崩れかけた出入り口に歩み出す。ヘルトラウダも宙に浮かびながらその背を追った。



 彼らがたどり着いたのは先ほどより少し広めの、同じ石壁で覆われた広間だった。あちこちに何種類かの植物が蔓延っており、崩れかけている。たどり着いたその広間には先ほどからよく見かける植物だけではなく、大きな樹が二本、石壁の左右を突き破るように生えていた。


 リシャルトの蘇芳色の瞳が輝く。先ほどリシャルトが目で追っていた植物の根は、その樹の根元の近くから伸びていた。リシャルトが言う△△は、大きな樹の側に多く自生する特徴を持つ。そしてもう一つの特徴として、△△が自生する付近の樹は果樹性が高いのだ。リシャルトは食糧確保のため、この植物の根を辿っていたというわけである。最悪果樹でなくとも、△△は水分や樹液を多く含んだ樹を好む特徴も持ち合わせているので、そこからどうにか水分や糖分を得る算段だ。ヘルトラウダが言うには、泉に行き当たることもあるそうなのだが、一日歩き回っても残念ながらまだお目にかかってはいない。樹の幹を革手袋越しに触れ、拾った小石で軽く傷をつける。


「うん、漆のような特徴も見られないし、何より……」


 リシャルトの運がいいのか。


 二本の異なる樹を見上げると、それぞれに果実が実っているのが見えた。よく見ると足元にも、虫食いが見られるが、ぽつぽつと熟しきった果実が落ちている。実る果実を見上げ、リシャルトはうんうんと満足げに頷く。しかし彼は顎に指先を添えると


「しかし、見聞きしたことのない樹なんだけれど……、この実は食べられるのかな」


 ヘルトラウダはその様子を静かに見守り、ページをぱらりと動かした。


「どうやらすこしだけ頁が改竄されてしまっていてね……残念ながらこの果樹たちに関する情報が今は引き出せない」


 ぱらぱらとページを捲ってみせてから、ヘルトラウダはぱたんと体を閉じた。


「ぐ……本当にごめん、かならず改竄者を見つけて捕まえてみせるからさ……」


 ヘルトラウダの声音は変わらず穏やかで焦りなどもなく、特にリシャルトを責めているわけではないのだが、樹を登るリシャルトの背にその言葉がさくりと刺さる。リシャルトはまず、向かって左側の樹に登り、果実の採取を試みていた。先ほど樹の幹に傷をつけ、漆でないかなどを確かめた樹である。


 リシャルトは今、魔導書ヘルトラウダの中に入り、書に記された内容をその五感をもって体験している。ヘルトラウダに最初に言われた通り、痛みも恐怖も喜びも、未知の知識に触れ好奇心が満たされる悦楽は毎分毎秒ごとに味わわされている。


(——これは確かに〝おかしく〟なってしまうかも)


 樹を登りながらリシャルトは思う。文字だけではなくたとえ痛みを伴ったとしても、その体験を実際にその肌で感じる喜びも、リシャルトはこの上なく大好きだった。もし己の狂気が、果てのない知的好奇心を満たし続けてくれる悦楽の先にあるというのならば、このヘルトラウダと名乗る魔導書のなかで溺れていくのも悪くはないかもしれない。


 一瞬の迷いを振り切るように、リシャルトは掴んだ枝に力を込めてさらに上へと登る。


 だがそんなリシャルトの狂気じみた思いを、ヘルトラウダならば受け入れてくれるような気もしていた。


「よし」


 今度は忍び寄るような迷いを押し込めるように声を出す。

 見聞きしたこともない樹の、これまた見聞きしたことのない果実は、リシャルトのちょうど眼前にあった。


 薄い青紫色に紺色の細かい斑点模様、林檎のような形をしている艶やかな実だった。革手袋のまま、その実をもぎ取る。反動で豊かな緑の枝葉がゆさりと揺れた。リシャルトはある程度の高さまで樹の幹を降りると、石畳へと飛び降りた。


「さて……」


 手にした果実をしげしげと、顎に指先を添えながら眺めるリシャルト。それを見守るヘルトラウダ。リシャルトは自らの知識の海から近しい果実や果樹などの情報を引き出してくるが、どれもこれもなかなかしっくりと来ない。これはリシャルトの世界には存在しないか、もしくは未発見のものだろう。ただ一つ確信できることは、この果実が非常に甘く水分が多いということだ。ただしそれは、リシャルトの住む世界の常識が通用すればの話になるが。


「ヘルトラウダ。わかる範囲でいいんだけど、この周辺にオーガやそれ以外の脅威になりそうな生き物はいそうかな」


 果実の角度を変えながら観察するリシャルトが声をかける。


「今のところはない」


 ヘルトラウダが栞を揺らして返事をする。それを聞いたリシャルトはふむふむと頷き


「その身をもって、体感しよう」


 ひと言つぶやいた。


 革手袋越しに感じる感触は林檎とさほど変わらない。外皮の薄さもおそらくは。


 その果実の外皮に、リシャルトは歯を立てた。


 しゃくり……、と音を立て、リシャルトの口にひとかけらの果肉が吸い込まれる。


 三、四回ほど咀嚼。見立て通りの甘さに、予想外の粘り気を持つしゃきしゃきとした果肉だったが、舌の上ですぐにぐずりと溶けてなくなる。そして強く濃厚な酒のような香りが口いっぱいに広がる。酒が得意ではないリシャルトはぐ……と小さく呻きながら、咀嚼した果肉を飲み干した。甘く豊かに染み出る水分量に、乾いた喉が潤う。立ったひとかけらでこんなにも満足度が高いとは。外皮も脆くはないので、香りを我慢すれば携行するのに向いているかもしれない。そう思い、もう一口齧ろうとしたそのときだった。


「う……? あぇ⁉」


 ふらふらとリシャルトの体がよろめく。


(——あ、すごい……酩酊しているかのような……)


 その思考すら、まるであの果肉のように舌の上でぐずりと溶けていったかのように、彼方へと消えていきまとまらない。


「へる……と…」


 最後はヘルトラウダの名を呼ぼうとしたのか、リシャルトは握っていた果実を落とし、膝から崩れ落ちる。そのまま倒れ込み、その衝撃で眼鏡が吹っ飛んだ。したたかに石畳へ頭をぶつけたのだが、そんな痛みすらも、今のリシャルトには理解できない。猛烈な頭重感と倦怠感がのしかかる。


 そこへ、事態を静観していたヘルトラウダがすいー……と宙を飛び、虚ろな目をしたリシャルトを見下ろすように止まった。


「敵の気配はない。それが回復するまで横になった方がいいだろう」


 ヘルトラウダのその穏やかな声が、今のリシャルトにはとても耳心地の良い音としてしか認識できなかった。何とか保っていた意識の糸がゆるゆるとほどけていくのを感じ、やがてリシャルトの視界はどろりと暗転していった。



 特殊魔導書は、基本的には強い魔力を持つ魔術師がかなり難解で複雑な手続きを取った上で執筆、出版されるものである。


 その種類にもいろいろとあり、魔術師そのものを魔導書にしたものであったり、栄華を極めた騎士の魂を込めたものであったり、滅びかけた文明を記し封じ込めたものであったりと様々だ。執筆や製本に強大な魔力や精巧な技術を要するため、数自体はそれほど多くはないのだが、その書に記された情報量はかなり膨大である。




 そして特殊魔導書には必ずと言っていいほど、それを執筆した者に近しいか、その題材となったものの自我のようなものを持つようになる。執筆者の魔力と同等のものを有すこともあり、その場合は自らの意志で魔法を操ることも出来る。さらに特殊魔導書は鳥や蝶のように、自らの意思で宙を飛びまわることもできる。中には執筆者のもとに付き従い、秘書のような役割をする特殊魔導書もいるため、本を連れて歩くことは魔術の盛んな国や都市であれば時折見かける光景ではある。


 では執筆者がいない、あるいは連れ歩くことをされていない特殊魔導書はどうなるのか。主ともいえるような執筆者不在の特殊魔導書は、厳密かつ厳重に封印や警備を施した書庫へ保管される決まりになっている。それが、リシャルトが全財産を投げうって入り浸っていたあの国立大図書館の地下書庫だ。


 執筆者が死亡したり行方不明になったり、ただの記録用に製本されたりなど、携行を目的としない、あるいは出来ない特殊魔導書たちが集う唯一の書庫が、国立大図書館の地下書庫であった。特殊魔導書たちも本としてこの世に生まれたからには、その扱いに疑問は持たないらしく、むしろ本として人に読まれることを喜びとしているため、丁重に扱ってもらえる図書館は都合がよいようだ。

 

 そして特殊魔導書には天敵と呼ばれる改竄者と言う存在がいるので、そういった者から身を守るのにも適している。


 今回のヘルトラウダのようなことが起きるまでは、少なくともそうだった。

 改竄者の目的は特殊魔導書の消滅を望んでいることしかわからず、その正体や複数人いるのかなどは明らかになっていない。


 まだ特殊魔導書の保管形態が不完全だったころは八冊の特殊魔導書が犠牲となり、消滅したと言われている。

 

 特殊魔導書の消滅とは、表紙が著しく破損することと、改竄者が特殊魔導書の汚損や、中身に複数の悪戯書き——ルーン——を施すことで、魔導書の中身が改竄されてしまい、特殊魔導書に込められた魔術式が壊れることで起こる。ページの多少の汚れであれば、特殊魔導書が持つ力は若干弱まるが、修復や簡単な手直しで元に戻せる。中身を激しく改竄、汚損されたものは手の施しようがない絶望的な状況となる。また、表紙のみが著しく破損した場合は、修復するか新たな表紙で製本し直すことで元通りとなる。ただし表紙が新しいものに変われば、元の特殊魔導書が持っていた自我は新たなものに変わってしまう。


 特殊魔導書の自我は人のように様々だが、人間らしいかと言えばそうでもなく、あくまで自身は本であるという認識でいるようだ。


 ヘルトラウダの場合は特にそうである。リシャルトが読むことに餓えているのなら、ヘルトラウダは誰かに読まれることに餓えていた。そしてこの事件、自身を本としての形でこの世に留めておけるのであれば、目の前でぐったりと伸びている青年——リシャルトの存在ですら利用する。一刻も早くこの中を蠢く改竄者を排除してしまいたい。表紙の題名が読めないほどに、自身で題名を名乗れなくなるほどになるまで抵抗したのは、自我を失ったとしても中身さえ無事であれば本として延命できるからである。


 自我が消えてしまうことに、ヘルトラウダは何の恐怖も抱いていなかった。リシャルトが提案した司書や修復師を呼ぶことすら惜しいほど、それほどまでに、ヘルトラウダの本としての寿命は危機にさらされているのだ。

 ——いるのだが。


 ヘルトラウダもまた、リシャルトが知的好奇心を抑えられないのと同様に、本として読まれたい、読者を中に取り込んで、自身を直接読み解かれたい欲に勝てなかったのである。


 迫る本としての死と、目の前の読者。

 どうせ死ぬならば、本を愛する者に読まれてから死にたい。

 そう思ったのだ。

 

 特殊魔導書に改竄者と言う天敵が現れてからと言うもの、これまで発行されたものには追加で自動防衛機能のルーンが書き加えられ、新しく発行される物には必ずそのルーンが施されるようになった。


 特殊魔導書が危機を感知した際に発動される防衛機能。改竄者や盗人などを本の世界観の中に取り込み、動きを封じるかそのまま取り殺してしまうかを、特殊魔導書自身が判断できるものだ。そして魔導書の意思で、取り込んだものは元の現実世界へと戻すこともできる。何度か盗人を取り込んだ例があるが(大抵は厳重な警備態勢で未然に防がれている)、その全てが、本の中の魔術式や知識量に発狂し、精神と脳を破壊されて戻ってきた。防衛機能のルーンが施されて以降、改竄者はそのなりを潜めた。

 

 この防衛機能で改竄者を取り込むのは、ヘルトラウダが初となる。そして、改竄者が取り込んだ本の中で動き回れることが発覚したことも。リシャルトとともにヘルトラウダが生還し、事のあらましを魔術機関へ伝えれば、それは大事となるであろう。できれば改竄者は生け捕りにしたいが、無理ならばせめてどのような秘術で本の中を歩き回れるのかを突き止めてからにしなければならないだろう。


 君が私を救ってくれるだろうから、と言う言葉はリシャルトの好奇心を焚きつける言葉でもあったが、そこには、もしかすると……と言う期待も籠っている。


(お互い生き延びられたらいいね)


 そう思いながらヘルトラウダは、本体が汚れないよう、ぐったりと眠っているリシャルトの腹の上に、自らを横たえた。



 今回のリシャルトの目覚めは飛び起きるようなはっきりとしたものではなく、頭痛とぼやけた視界から始まった。


(自分はあの果実を食べて、死んだのか?)


 リシャルトは薄目を開けて浅い呼吸を繰り返しながら逡巡する。


 自分が果実を口にしたあの部屋からは移動していないので、今回は死んではないことが分かった。


 黄緑色の木漏れ日が、蘇芳色の瞳に降り注ぐ。ツンと鼻を刺す強い酒のようなあの香りを嗅ぎ取ると、リシャルトの肺が一気に空気を吸い込み


「ぐ……、ぐふっげほっげほっ」


 思い切り咽た。しかしリシャルトの体はぐったりと力なく地べたに倒れたままで、相変わらず全身に強い倦怠感が重くのしかかっている。

 特に、腹のあたりだ。


「おや、これは失礼」


 わずかに腹の上が軽くなる。ぼんやりとリシャルトの半開きの目に注いでいた木漏れ日が、心地よい声音と同時に暗く遮られた。


「ヘルトラウダ……、君か……」


 自身の声で呂律は回復していることを確認するリシャルト。重厚な魔導書一冊分、体は軽くなったのだが、倦怠感はしっかりとまだそこにある。


「看病が出来なくてすまない。今のところも敵の気配はないから、安心してそのままでいるといい」


 優しい言葉だが、そこには人間らしい労わりの感情は籠っていない。声音が心地よく穏やかだから、温かみがある様に聞こえるだけであった。だが、リシャルトはヘルトラウダのその言葉に、ありがとうと礼を言った。倦怠感を何とか抑えて、無理矢理に笑みを作って見せる。そこから徐々に思考がはっきりとしてきた。


 急に先ほどの木漏れ日が降り注いできて、リシャルトは顔を顰め、固く目を閉じる。光を遮っていたヘルトラウダが別のところへ移動したのだろう。まだ視界はぼんやりとしており、手足や体も思うようには動かせない。ならば、その分思考をはっきりとさせていこう。

 

リシャルトは目元から体の隅々までの力をゆっくりと抜いてく。呼吸を深く穏やかなものにし、知識の海へと潜ることにした。先ほど口にした果実の毒性の分析、似た食感、香りや近い味の果物は何だろうか。最初は林檎のようにシャキリとしているのに、西瓜かあるいはそれ以上に溶けやすい果肉。目の覚めるような甘さにほんのりとした酸味。そして何よりの特徴が、むせかえるほどの酒のような香りだった。おそらくすぐそこに齧った果実が転がっているのだろう、口に含んだその時ほどではないが強い香りを放っている。この果実はなぜこのような毒性を持っているのか、どういう進化を経てきたのかなど、気になることは山ほどあるし、性懲りもなくまたあの果実を食べてみたいともうっすらと考えていたが、リシャルトの頭はまた別のことを考えていた。


 もう一つの樹になっている果実の特徴である。



 おとなしくなったリシャルトの経過を観察しつつ(とはいえ出来ることはこれと言ってはないのだが)、ヘルトラウダは大型の蝶のごとくゆったりと部屋の中を漂っていた。しかしヘルトラウダは自身の中身にも神経を集中させ、索敵魔法を使い改竄者の動向に目を見張らせていた。改竄者は身を隠すのがうまいらしく、今のところ目立った動きはない。特殊魔導書の執筆時に組み込む魔術式により、改竄そのものには時間がかかるため多少の足止めにはなるが、油断はできない。


 ヘルトラウダが動きを止めたのは、小さく唸ったリシャルトが、木漏れ日の眩しさに再び顔を顰める気配を察知した時だった。すいー……とヘルトラウダが日傘のようにその身を広げ、リシャルトの顔に注ぐ光を遮ってやる。


「ヘルトラウダ……、ありがとう」


「表紙が焼けてしまうかもしれないから、考え事は手短にね」


 ヘルトラウダは真紅の栞を揺らして、穏やかな声で無機質に言った。


「じゃあ、頼みがあるんだけど」


 リシャルトが目を細めたまま弱々しく苦笑いをする。果実の毒性はなかなかにしぶといようだ。


「もう一種類、果実があるよね。僕の一番近くに落ちているもので、ひどく傷んでない物がないかわかる?」


 リシャルトの言葉に、ヘルトラウダは、あぁ——と頷く。


「きみがいる左から五メートルほど先に。土を払えば何とか食べられそうなものがある」


 ヘルトラウダが示した先に転がるのは、もう一本の樹から落ちた白色の果実だった。薄青色の果実より外皮が柔らかいのか、地面にぶつかった衝撃で半分つぶれている。


「潰れているし、見た目がましでも衛生的にはおすすめできないけれど」


 ヘルトラウダは付け加えた。それを聞いて再び苦笑いするリシャルト。


「僕、そのおすすめできない果実を食べようと思っているよ……」


 その声に力はなかったが、強い意志が感じ取られた。



 白い果実の特徴を、仰向けに寝転んだままリシャルトは思い出す。両方の果実には虫食いがあり、何らかの幼虫が群がっていたのを覚えている。そしてその数は、リシャルトが齧った果実に多く見られた。一方で白い果実には群がる虫の数が極端に少ない。その中で最も鮮明に記憶しているのが、リシャルトが齧った薄青い果実から、白い果実の方へと虫が移動しようとしている光景だった。この毒は虫にも効いているようで、中には白い果実に到達するまでに息絶えているものも複数いた。さらに、白い果実から薄青い果実へと移動する虫は見かけていない。


 なぜ虫たちは薄青い果実を食べてから、白い果実へと移動するのか。


「白い果実には……、解毒作用がある可能性が高い」


 リシャルトはそう言って、深く息を吸い込む。そしてルーンを口ずさむ。それは身体強化魔法のルーンだった。


「ぐ……」


 薄目のまま、ぼやける視界を頼りに左へと起き上がる。手足に痺れのような感覚があり、うまくバランスが取れず、今度は左頬をしたたかに石畳に打ち付け倒れ込んだ。


「ぶはっ」


 これまた痺れる感覚が左頬を襲うだけで、痛みは感じない。それでも身体強化魔法により何とか体を動かす。平衡感覚にも影響を及ぼす毒性ならば、いくら空腹を凌げても食糧には適さないな、と頬についた土も払わずリシャルトは地面を這う。ヘルトラウダが示した方向へと体を這わせていると


「もうすこし左だ。そう、そのまま進むといい」


 回復しないままのぼやけた視界のせいで、誤った方向に進んでいたのをヘルトラウダが正してくれた。身体強化魔法で体を補助しても、なかなか思うように進んでいかず、目的の果実にたどり着くのにリシャルトの体は汗ばんでいた。


 後でどこかに落としてしまった眼鏡も探さねば、とリシャルトは頭の片隅で思った。最も、まずは自身の見立てたこの白い果実の解毒作用を証明してからの話だが。ぼやぼやと白い果実の影を捉え、手を何度か伸ばしたところで、リシャルトはようやく土にまみれた潰れかけの白い果実を手にすることが出来た。ヘルトラウダに言われた通り土を払いたかったが、リシャルトには潰れた部分を手触りで確認するのが精一杯であった。ゆっくりと果実に歯を立てる。形は梨に似ていたが、柑橘のようなさわやかな香りが優しく広がった。外皮は非常に薄く、桃のように柔らかい。そして


「ぐっ——⁉ ふ……うぅっ……むぐ……」


 恐ろしいほどに酸味が強く、そして苦かった。辛酸と苦渋と言うものが味として実在するのであれば、まさにこれだろうと思うほどに。


 最初に食べた果実のときよりも激しく、リシャルトは咽に咽た。リシャルトの様子をしばらく静観していたヘルトラウダだが


「もう大丈夫かな」


 あまりにも咽るのでひと言声をかけてみた。


「うぐぅう……」


 リシャルトは呻いてから蹲った。しかしもぞりと体を動かすと


「うぐっ……、あう……」


 再び果実に齧りついているようだ。齧っては咽、胃を震わせながらも無理矢理飲み下し、また齧りつき、咀嚼もそこそこに吐き気を堪えて飲み下す。


「んうぅ……‼」


 今のリシャルトの顔は、涙と鼻水と唾液にまみれ、とても人に向けられるようなものではなかった。それを察してか、ヘルトラウダはリシャルトの背を、その行為が終わるまで黙って見守ることにしたのだった。



 白い果実の可食部分を何とか食べ終えたリシャルトは、腹や背中が痛くなるまで咳をし続けた。咳が止むのに一時間ほどはかかったろうか。ぜぇぜぇと喉を鳴らし荒く浅い呼吸を繰り返すリシャルトを、改竄者や魔物の気配に配慮しつつ、ヘルトラウダは引き続き見守っていた。リシャルトの呼吸がようやく穏やかになったのは、それから小一時間してからだった。


「フェイ……ルケ……」


 かすれたリシャルトの声。


「ここにいるよ、調子はどうかな」


 ヘルトラウダは返事をしてやる。


「解毒成功だ……」


 リシャルトの声はすっかりと弱っていたが、勝ち誇ったように嬉しそうだった。


「おめでとう。でも、見たことのないものは識別できるまで食べるべきではないかな」


 ヘルトラウダがいつもと変わらぬ穏やかな声で言った。するとリシャルトは擦れ声でからからと笑い、そして咽た。


「その忠告、もっと早くに欲しかったかも」


 その汚れた顔は、遊び疲れて満足した幼子のような笑みで満ちていた。



 リシャルトが魔導書の中を歩き回って、二日が経とうとしていた。二種類の果実に七転八倒したリシャルトは少しばかりの空腹を耐え、せめて眠らなければとその場で短い睡眠を取った。幼いころは劣悪な環境で過ごすことがほとんどだったため、リシャルトからすれば草に浸食された石畳の上で眠ることなどなんの苦にもならない。寝付くのも早いリシャルトはすぐに寝息を立て、それから三時間きっかりで目覚めると大きなあくびをしながら右肩をぐるぐると回した。そしてすぐに顔を顰める。薄青い果実の毒性によって倒れ込んだ際に、地面にぶつけたあちこちの痛みがリシャルトを襲う。しかしそれは白い果実の解毒作用が確かなものであることを示していた。視野の狭窄や頭重感、倦怠感もすっかりとなくなり、痺れるような感覚も嘘のように消えている。二日酔いのような不快な頭痛もなかった。口腔内にも、白い果実のあの嫌な味は残っていない。ただ、酷く咽こんでいたため背中や腹は相変わらず痛む。

 睡眠では回復しきれていない肉体のダメージは、今後の旅程に響きそうだ。


「まだ眠っていてもいいけれど」


 ヘルトラウダの言葉にリシャルトは「いや」と立ち上がり、歩き出す。そのまま白い果実のなる樹に登ると、斜めがけの布の袋へと白い果実を詰め込めるだけ詰め込みだした。袋が限界になると、リシャルトは樹から降り、ヘルトラウダの近くへ袋の中の果実をごろごろと取り出した。袋が空になると、今度は薄青い果実を取りに樹へと登りだす。白い果実と同じ個数、袋に詰め込み石畳へごろごろと取り出す。二種類の果実の山を作ると、さらに地面に落ちている薄青い果実から幼虫を何匹か捕まえ、果実の山の真ん中に置いた。リシャルトはその前にどっかりと座り込むと、深く息を吸い


「——」


 回復魔法のルーンを唱えた。リシャルトの体を淡い光がしばらく包み込む。それと同時に並べた果実と幼虫が、ぱちぱちと光の飛沫となって消え去った。

 身体強化魔法は自身の体力を前借し、そこに魔力を注ぎ込むことで成り立つ。体力が低くとも、注ぎ込む魔力を多くすれば膂力を底上げできるという仕組みだ。逆に体力の前借が多ければ少ない魔力で体強化することも可能だ。しかし生まれ持った視力の悪さなどには効果がなく、リシャルトの場合は眼鏡での矯正は身体強化魔法をかけた後も必須である。


 回復魔法の場合は、自身の寿命を前借することになるため、代わりとなる生贄、触媒などを用意する。それがこの果実と幼虫である。触媒などを使わず魔力のみで行うことも可能だが、術者の練度によっては傷の悪化に繋がる。もちろん、身体強化魔法でも今回のように果実を使って体力代わりに触媒とすることも可能だ。リシャルトの体を数十秒包み込んだ光が消えると、「はぁ」とリシャルトが手を組んでから伸びをした。先ほどより彼の動きが軽くなっているのが見て取れる。


「君には絶対消えてほしくないからね。もちろん、未知のものをこの身をもって知りたいのはやまやまだけど……」


 鉄黒色の髪をくしゃくしゃと掻きながら、リシャルトは苦笑いをした。


「それはうれしいことだ」


 ヘルトラウダは真紅の栞をふわりと揺らした。そこには感情らしいものが通っていないことを知りつつも、それを見てリシャルトはにこりと笑う。


「素敵な笑顔だけど、洗った方がもっと良くなる」


 ヘルトラウダのその言葉に、リシャルトはようやく顔面を覆う不快感に気が付き、ポケットから麻の布を取り出すと乱暴にそれで顔を拭った。



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