第55話 それぞれの分際
「ヴァイゼ・・・」
涙に濡れたローズの声。
手にした槍は、力無くローズの両手から滑り落ちる。
槍の石突がヴァイゼの胸元から離れた途端、ヴァイゼは全身を大きく震わせた。
鉄槍を握っていた鉤爪から力が抜け、赤い瞳がゆっくりと閉じられた。
「うわっ!逃げろローズ!」
力が抜けたヴァイゼの身体が、落ちて来る。
ローズは転がるようにして脇に逃れ、その身体をダーヴィッドが引っ張って、ローズを遠ざけた。
フェルはヴァイゼの目を貫かないよう、鉄槍の穂先をずらす。
鉄槍に引っかかっていたヴァイゼの爪も、ずれた。
「わーっ!」
辛うじて保っていたバランスが崩れ、ヴァイゼはフェルを巻き込んで地面に倒れ込んだ。
ズザザッ!という大きな音と、土ぼこりが舞い上がる。
「フェルさんっ!ヴァイゼッ!」
駆け寄ろうとするローズを、ダーヴィッドが止める。
「あ、痛たたたたっ。ヴァイゼ、お前、結構重いなあ」
前脚の間から、フェルが顔を出した。
「大丈夫だ。芯核は止まっているが呼吸がある。・・・よくやったな、ローズ」
フェルが笑顔を向けると、気が抜けたのか、ローズはへなへなとその場に座り込んでしまった。
ダーヴィッドの手を借りて、ヴァイゼの下から出たフェルは、ひとつ深呼吸をしてから、
「ほら、まだ終わりじゃないぞ、ローズ!次はどうするんだ?」
と、パンと手を叩く。
ローズはピョンと立ち上がって、
「水!水です!水を飲ませないと!」
ぐるぐると辺りを見回し、水のありかを探した。
その様子を笑って見てから、フェルは兵士に、これから行うべき事を伝えた。
兵士たちはすぐに動き出す。
一隊は厩舎の裏手の水場に走り、また一隊は、桶や応急処置の道具など必要な物を集めに行き、別の隊はフェルの指示を受けながら、ヴァイゼの身体を動かした。
兵士たちの手によって、水場から次々と水が運ばれ、頭を高くして身体を横たえたヴァイゼの口に、フェルが水を注ぎ込む。
それをローズは、祈るように見守った。
何個目かの桶が空になった時、「ゲフッ!」とヴァイゼが嘔吐く。
今まで飲み込んだ大量の水を、一気に吐き出した。
目を固く閉じたまま、苦しそうに全身で喘ぐ。
フェルは注意深く、ヴァイゼを囲んでいた兵士たちに遠のくよう、手で指示した。
ローズは動こうとしなかったが、傍らにピタリと付いたダーヴィッドは、腰の剣に手を添え、厳しい目つきで見る。
咳とともに、最後の水を吐ききったところで、ヴァイゼの瞳がゆっくりと開かれた。
「・・・ヴァイゼ・・・」
息を呑んで、フェルとローズはその瞳を見つめる。
「・・・ひどい匂いだ。香水の瓶の中に漬かっているような・・・」
青みがかった紫の美しい瞳がそこにあり、ヴァイゼの言葉が二人の胸にはっきりと届いた。
「ヴァイゼ!」
「ヴァイゼ、良かった!」
フェルとローズは同時に、ヴァイゼの頭を抱きしめる。
ヴァイゼは何が起きているのか、まだ把握できているようではなかったが、そこにフェルとローズが居る事が分かって、安心したように喉を鳴らした。
ふと、その瞳が空を見る。
「・・・ああ、これで揃った」
パサパサと軽い羽ばたきと共に、風上に避難していたカイムが飛んで来た。
カイムは「キュー」と嬉しげに声を上げて、ローズの肩に降りる。
フェルもローズも、しばらくヴァイゼを離さなかった。
ヴァイゼもされるがまま、気持ち良さそうに頭を預けていた。
その後フェルは、ヴァイゼの翼の傷を処置した。
自分の脚の傷の治療をしようとしないので、ローズが無理やり薬を塗って包帯を巻く。
その光景をじっと見つめる視線があった。
マリウスである。
フェルはそれに気づき、立ち上がって彼を見た。
マリウスはゆっくりとこちらへ歩いて来る。
その表情は、覚悟を持ったものであり、どこかさっぱりとしたような感じでもあった。
ヴァイゼの処置を手伝っていた兵士たちは、国王の登場に、潮が引くように道を空け、直立不動の姿勢で迎える。
その場に居た全員が、二人の青年に注目した。
フェルは片膝を地面に付いて、頭を下げる。
困った顔をしたマリウスが、それを見下ろした。
「君に膝を付けられてしまったら、僕はどうすればいいのかな?」
「どうもしないさ、国王なんだから」
抑えた声は二人にしか聞こえない。
柔らかな風が、二人の間にそよいでいた。
「君とゆっくり話がしたいんだ。時間をもらえるかな?」
「今は無理だ」
即答で却下されたマリウスは、悲しげにため息をつく。
フェルは顔を上げた。
「ヴァイゼも俺も怪我をしている。早くきちんとした治療をしたい」
「もちろんすぐに治療の手配をするよ、休む部屋も用意する」
だが、フェルは首を振った。
「いや、
静かだがきっぱりと言われて、マリウスは何か言葉を重ねようとしたが、口を閉じる。
そして、苦笑いを浮かべた。
「・・・僕が甘かったな。どうしても、君が『帰って来た』としか思えなくて。自分のした事を棚に上げて、横暴だった」
そのマリウスの言葉に、フェルはほんの少しだけ、口の端を緩ませる。
「話をしないとは言って無いさ。
言い終えると、フェルは再び頭を下げた。
そして、
「国王陛下に申し上げます。このグリフォンを城外に連れ出す御許しを、賜りたく存じます。城内ではいまだ薬の影響が有り、城外にて静養するのがよろしいと考えます」
そう声を張り上げて、言上したのだ。
マリウスは驚いたように目を瞠ったが、すぐに背筋を伸ばして、
「許す」
ひと言、王の言葉で言い終えると、踵を返す。
「・・・やっぱり敵わないな」
小さく呟いて、マリウスは振り返らずに城へと戻って行った。
国王は国王であり、魔獣狩人は魔獣狩人であった。
見守っていた兵士たちも、日常の業務へと戻って行く。
思うところは、それぞれにあったのだろうが、誰も口にはしなかった。
それも恐らく、日々の忙しさの中で、忘れられて行くのだろう。
用意された馬車の荷台に、ヴァイゼが乗せられた。
「これからどこへ行くのですか?フェルさん」
まだ辛そうな様子のヴァイゼを、心配そうに見ながら、ローズが聞いた。
「祖父様・・・パウル卿の館へ行く。王都のはずれだ。そこでヴァイゼを静養させる。あそこならヴァイゼも安心して休めるだろう」
荷台でうずくまるヴァイゼの身体を撫でながら、フェルが言う。
ヴァイゼが軽く喉を鳴らした。
「ダーヴィッド、行くぞ」
フェルは、荷馬車を遠巻きにして佇むダーヴィッドに声をかける。
しかしダーヴィッドは、微笑みを浮かべて、首を振った。
「・・・行かないのか?」
「はい」
ダーヴィッドは表情を変えずに、こちらへと歩いて来る。
「気づきませんでしたか、フェル。私たち、ずっとエルーガ語で会話しているのですよ」
ハッとしてフェルは、口元を手で押さえた。
「10年とひと口で言いますが、それほどの年月なのですね。・・・その始末を、マリウスだけに押し付ける訳には行きません。10年前、辛くも命を取りとめた私を探し出し、今日まで匿ってくれた、彼との約束ですから」
いつも見上げていたダーヴィッドの顔が、同じ目線にあった。
あの断崖で別れてから10年、全く違う道を歩いて来たのだと、フェルは今更ながら思い知る。
「聞きたい事も言いたい事も、10年分あるからな。・・・マリウスと一緒に来るのを待ってる」
フェルがそう言うと、ダーヴィッドが頷く。
「父上にそのようにお伝え下さい」
「うん」
短く返事をすると、フェルは御者台に上った。
「ローズ行くぞ、ほら」
フェルが御者台から、ローズに向かって手を差し伸べる。
ローズがその手を掴もうとした時、ダーヴィッドがローズの身体を抱え上げて、フェルの隣へと乗せた。
「ダーヴィッドさん・・・」
「姫君、また必ずお目にかかります」
ダーヴィッドはローズに向かって、恭しく頭を下げる。
飛んでいたカイムが、ローズの膝の上に降りた。
荷馬車は車輪を軋ませて、城門へと向かって行った。
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