第53話 解かれた鎖



 サイモンは目を剥き、怒りの形相でマリウスを睨みつける。


「10年も騙し通せるとは思っていなかったけど、できるものだね。・・・終わりですよ、サイモン卿。あなたも、僕も。本物の王と宰相が城に帰って来た」

 すっきりとした表情で、マリウスが言った。


「マリウスッ!貴様っ!」

 マリウスに掴みかかろうとしたサイモンの腕を、長い棒のようなものが弾く。

 フェルの槍の柄だった。

 よろめいたサイモンに、今度は穂先を向けて威嚇する。


「ヴァイゼを返してもらう」

 フェルに凄まれて、サイモンは「ぐう」と言葉にならない声を漏らした。


「グリフォンの鎖を解け!」

 厩舎に向かって命令を発したのは、マリウスだ。

 薬を片付けていた兵士たちは、再び大急ぎで厩舎の中へ戻る。


「・・・他にも返して欲しいものがあるだろう、フェル」

 マリウスが寂しそうに笑った。

 フェルは槍を下げて、力を抜く。

「マリウス、俺は・・・」

 言いかけた時だった。


「ぎゃあーっ!」

 血を吐くような叫び声が響いた。

 厩舎の方からだ。


「ヴァイゼ?」

 フェルは咄嗟に、厩舎へ走る。

 ローズも後を追った。

 そして、


「きゃああっ!」

 今度はローズの悲鳴だった。

 駆けつけたダーヴィッドが、ローズを背に庇う。


「・・・ヴァイ・・ゼ?」

 フェルは呆然と、その有様を見つめた。


 厩舎には、血の匂いが充満していた。


 ヴァイゼの鉤爪に串刺しにされて、地面に押さえつけられている兵士。

 厩舎の壁に叩きつけられて、動かない兵士。

 もう一人の兵士は、ヴァイゼを繋いである鎖の端を持って、ガタガタと震えていた。


「危ない!鎖を捨てなさい!」

 ダーヴィッドの声と、ヴァイゼが身体全体を使って、鎖を引っ張ったのが同時だった。

 兵士の身体は宙に浮いて引寄せられ、その無防備な足が、ヴァイゼの嘴に捕えられる。


「ヴァイゼ!よせっ!」

 フェルが叫ぶ。


 ヴァイゼが勢いよく首を振ると、兵士はいとも簡単に放り投げられた。

 ガツンと鈍い音をたてて天井にぶつかり、そのまま厩舎の地面へと落下する。

 ・・・悲鳴を上げる間もなかった。


「ヴァイゼ!どうした?!聞こえないのか!」

 ヴァイゼの元に駆けつけようとするフェルの肩を、ダーヴィッドが押しとどめる。


「待ちなさい、フェル!・・・おかしいですよ。ヴァイゼの様子をよく見て!」

 様子?

 フェルは立ち止まってヴァイゼを見た。


「フェルさん!フェルさん!ヴァイゼの言葉、言葉が聞こえない!」

 ローズの泣き出しそうな声。


 言葉?

 フェルは意識を集中させる。


 ・・・言葉が入ってこない。

 聞こえるのは耳からの音、ヴァイゼのグリフォンの唸り声だけだ。


「どうし・・・」

 無表情に見下ろすヴァイゼに、フェルは愕然とした。

 あの美しかった青紫の瞳が、濁った赤に変わっていたのだ。


「・・・エロジオン薬・・・」

 フェルの口から漏れた薬の名に、ローズは真っ青になる。


 リンデン寺院で、ドラゴンに使われていた薬。

 定量を越えると、意識が混濁こんだくして暴れ出す、違法な薬。


 ヴァイゼは急に首を上げると、大きく左右に振って、地団駄を踏み始めた。

 低い唸り声を上げて、時々何かに打たれたように、身体を硬直させる。


「抗っている。薬の支配に抗っているんだ・・・」

 ヴァイゼはあの薬を知っていた。結果がどうなるのかも。

 だから抗う。

 薬に全てを持っていかれないよう、残された意識で必死に戦っている。

 フェルにはそう見えた。

 だから・・・


「・・・ローズ、カイムを風上へ連れて行け。大量にエロジオンを使ったようだ。リンデンで吸い込んだ薬の分だけ、限界が近い。・・・ダーヴィッド頼む」

 ヴァイゼを見据えたまま、フェルが言った。


 ローズはすぐにカイムを抱きとめると、上着の中へと押し込んで走り出した。

 後ろから追いついたダーヴィッドが、風上へと導く。


「マリウス、この辺りを立ち入り禁止にするんだ。衛兵全員に盾を持たせて、厩舎の周りを囲ませろ。・・・急げ!」

 マリウスは即座に指示を出した。

 衛兵たちが機敏に動き始める。


「みんな下がれ!厩舎の扉を閉める!」

 フェルの先導で、その場に居た者は厩舎から離れだした。

 外側へ大きく開かれていた扉を、フェルが閉じようとした時、その頭の上をシュッと風が通り抜ける。


「ヴァイゼ!」

 フェルを跳び越えて、たすん、とヴァイゼは厩舎の外に降り立った。

 咆哮を放つグリフォンに、衛兵たちは剣を構える。


「こちらから切りつけるな!盾を重ねて壁を築き、防御せよ!」

 上官ですら無いフェルの命令に、衛兵たちがざわついた。

 マリウスが前に出て、声を張る。


「この者は、余が召喚した魔獣狩人である!この者の言葉は、余の言葉と同意と心得よ!」

 これで、この場はフェルが指揮する事が決まった。

 下がって場を譲るマリウスに、フェルがひとつ頷きを返す。

 衛兵たちも「魔獣狩人」と聞いて得心したようで、言われた通りに盾で壁を作り始めた。


「・・・弓をひと張り貸してくれ」

 衛兵に向かって差し出されたフェルの手に、弦の張られた弓が渡された。


「フェルさん・・・どうするんですか、それ」

 戻ってきたローズが、恐る恐る聞いてくる。


 フェルは黙って弓を構えた。

 ヴァイゼに向けて。


「フェルさんっ!」

「ローズ、下がっていろ。・・・ヴァイゼの翼を射る」

 咄嗟に、ローズの手が弓を掴んだ。


「・・・離すんだ、ローズ」

 涙を溜めて、ローズは激しく首を振った。


「ヴァイゼは飛べる。あの状態のヴァイゼが、王都の町なかに降りたらどうなる?」

 ローズはくしゃくしゃの顔を上げたが、弓を離そうとはしなかった。

 フェルはその手に、自分の手を重ねる。


「片翼を撃ち抜くだけだよ。大丈夫、きちんと治療すれば、また飛べるようになるから」

 ゆっくりと静かな口調で、言い聞かせた。

 ローズの大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「フェルさんでなくては、いけないのですか。フェルさんが、ヴァイゼを撃つのですか。そんな、そんな事って・・・」

 フェルはローズの手を握り締めた。

 そうだよな、お前は優しい。

 けれど・・・


「俺は、魔獣狩人だからな」


 ハッと、ローズの瞳が見開かれて、弓を持つ手がゆっくりと離れた。

 フェルは、地面の上でもがくヴァイゼとの距離を目測して、ちょうど良い位置に立つ。


「ダーヴィッド、援護を頼む」

「承知しました」

 前に出たダーヴィッドが、腰の剣を抜いた。

 それを見て、フェルがあわてる。


「ちょと待て、剣じゃ危ない、弓で・・・」

 だが、ダーヴィッドは綺麗な微笑みで振り返って言った。

「申し訳ありませんが、右手があまり利きません。弓を持つ事はできないのです」


 右手・・・。

 10年前の戦闘で傷ついた腕だ。

 フェルの顔が曇る。


 その表情を見たダーヴィッドが、声を固くした。

「そんな事より集中しなさい。射抜く場所を少しでも違えれば、ヴァイゼは二度と飛べなくなってしまいますよ。・・・困るでしょう、それでは」


 当たり前だろ。

 フェルは乾いた唇を湿らせて、矢をつがえ、呼吸を整えた。


 剣を持ったダーヴィッドは、いきなりヴァイゼの正面に躍り出ると、その頭めがけて剣を振り上げた。

 見ていた誰もが、そのまま頭を斬り落とすと思うほどの、殺気をこめて。


 薬に喘いでいたヴァイゼは、間一髪でその剣を避ける。

 ダーヴィッドは続けざま、剣を繰り出した。

 それは威嚇ではなく、最初の一撃同様、必殺の意志を込めたものだった。


 間髪入れない斬撃に、ヴァイゼは自らの武器である鉤爪で応戦するため、翼を広げ、ダーヴィッドの頭上に飛び上がった。


 その瞬間を逃さずに、フェルが矢を放つ。

 矢は広げた片翼の、根元に突き刺さった。

 悲痛な唸りを上げて、ヴァイゼが地面に落ちる。

 ローズが声にならない悲鳴を上げた。


 身体を起こしたヴァイゼは、嘴で翼の根元に刺さった矢を引き抜く。

 真っ赤な鮮血が、傷口から飛び散った。

 ヴァイゼの濁った赤い瞳が、自分を傷つけた射手を睨み付ける。


「・・・さすがに嫌だな。お前にそんな眼で睨まれるのは・・・」

 フェルの呟きが聞こえたのか否か、ヴァイゼは飛び立とうと翼を動かすが、上手く揚力を得られない。

 その場で跳ぶ事はできても、飛び上がるまでには至らないようだ。

 翼を動かすと傷が痛むのか、苦しげな啼き声を上げる。

 それが、フェルの胸を深くえぐった。


 声は当然、ローズの耳にも届く。

 その痛みがまるで自分のもののように、ローズはその場にうずくまって、顔を伏せた。


「ローズ」

 フェルに名を呼ばれても、顔を伏せたまま首を振る。


「ローズ、立つんだ。ヴァイゼを助けるぞ」

 ゆるゆると顔を上げたローズの目の前に、フェルは自分の槍を差し出した。


「エロジオンに侵された魔獣の助け方は覚えているな。それをやる」

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