第50話 微笑むひと



 ローズの目の前に、若い貴婦人の姿があった。


 それは、見上げるほどの、とても大きな肖像画だった。


 結い上げた栗色の髪に、透き通るような水色の瞳。

 桜色の唇に、柔らかな微笑みを浮かべて、腕に抱いている赤子を、優しげに見つめている。

 貴婦人の着ているドレスは、光沢のある緑玉石エメラルド色で、薄紅の花模様が織り出されていた。


「この・・・ドレス・・・」


 ローズは、目を瞠った。

 かすかに残っていた、記憶。

 泣いている自分に、背を向けて行ってしまった人。

 その曖昧だった後ろ姿が、急速に色を付けて、鮮やかになって行く。


 緑色に薄紅の花模様。

 結い上げた栗色の髪にも、同じ色の花飾りが付いていた。


『わたしのメアリーローズ!』


 声が・・・聞こえた。


 固まっていた記憶が、ゆるやかにほどけて、動き出す。


 抱きしめてくれた。

 泣きながら。


 それを・・・引き離される。

 誰かに背中を引っ張られて、離された。


 ・・・お母さんと。


「・・・お母・・・さん?」


 ローズはもう一度、目の前の貴婦人を見上げた。

 抱いている赤子は、母親と同じ髪と瞳をして、真っ白い産着を着ている。

 赤子は小さな手を、母の方へと差し出していた。

 その母子を見守るように、小さなグリフォンが貴婦人の足元に座っている。


『忘れないで・・・きっと、覚えていて・・・』


 声が・・・した。

 泣いていた。

 向けた背中が泣いていた。

 だから・・・自分も・・・泣いたんだ・・・。


「お母さん」


 ローズの瞳からぽたぽたと涙が溢れて、零れ落ちる。

 カイムが心配そうに、ローズに擦り寄った。


「美しいでしょう。この方の肖像画の中で、私はこれが一番好きなのですよ」


 ローズは、声の主を振り返る。


 背の高い人だった。

 そしてとても綺麗な、男の人だった。


 錫色の瞳に、黒い長い髪を後ろに束ねて、優しげな微笑を浮べている。

 彼はその場に片膝を付き、頭を下げた。


「お目にかかれて光栄でございます、メアリーローズ姫。私はダーヴィッドと申します」


「ダーヴィッドさん!」


 ローズは驚いた。

 ヴァイゼの話に出てきた、ヘレン王妃の・・・母の恋人だと言われている人。

 10年前、行方不明になって、フェルが探している人。

 それが、どうして目の前に居るのか・・・?


「はい、姫君」

 ダーヴィッドが顔を上げた。


「あ、あの・・・本当にダーヴィッドさんですか?・・・フェルさんが探している、ダーヴィッドさんで間違い無いですか?」

「はい、そのダーヴィッドで間違いございません」

 突然の出会いに混乱するローズに、ダーヴィッドは微笑んだまま、答えた。


「ど、どうしてここに?・・・あ、ここはどこですか?・・・それに、あの、どうしてわたしがメアリーローズだと?」

 聞きたい事がいっぱいありすぎて、要領を掴めない。

 そんなローズの心情を察してくれたのか、ダーヴィッドは困った顔もせずに、穏やかに話しを始める。


「すぐに分かりましたよ、あの方の姫君だと。そこの窓から、ヴァイゼと降りて来られるのを拝見していました。フェルが捕えられているので、ヴァイゼが来るとは思っていましたが、まさか姫君までご一緒だったとは」

 窓?

 ダーヴィッドが指す方を見ると、カーテンのかかった窓があった。

 板が打ちつけられ、そこにも蔦が絡まっている。

 そのすき間から見えるのは、あの荒れた中庭らしい。


「この部屋はあの方の、ヘレン様のお部屋のひとつです。あの中庭もヘレン様のものでした」

 言われて、ローズは辺りを見渡した。


 昼間なのに薄暗いのは、窓が板で閉ざされているからだろう。

 それでも、板と板の隙間から漏れる陽の光が、部屋の様子を映し出す。


 中庭は荒れていたが、部屋の中は塵ひとつ無く整っていた。

 壁もソファーも淡い緑色で統一されていて、所々に淡い紅色の花が描かれているのが可愛らしい。

 王妃の部屋にしては、狭いようにも思うが、こぢんまりと居心地の良い感じがした。


「この部屋は、あの方のお気に入りでした。私たちはよく、時間を忘れて話しをしました」

 ダーヴィッドは大切な思い出に触れるかのように、ソファーにそっと手を置く。


「姫君、私はヘレン様を愛していました。私たちの愛は、何ものにも祝福されないと分かっていても、愛し合わずにはいられなかった。今でも、私の全てはあの方のものなのです」

 そう言い切って、ダーヴィッドは王妃の肖像画を見つめた。

 その表情は、そこに本当に愛おしい者が立っているようで、深い恋慕が滲み出ている。


 涙がふたたび、ローズの頬を伝う。

 今度はもう止まらずに、ひたすらに流れ落ちる。


「・・・だって、みんなが・・・悪い人だって言うから・・・」


 悪い事しか聞かなかった。

 自分も、見捨てられたのだと思っていた。


 でも、愛されていたのだ。

 愛し合える人がいたのだ。

 そして・・・愛していてくれたのだ・・・。


 泣きじゃくるローズの身体を、そっとダーヴィッドが支える。

「姫君、どうぞこちらへお座り下さい。ヴァイゼに乗っていらしたのですから、お疲れでしょう・・・」

 そう言って、ソファーへと導いた。


 腰掛けようとしたローズは、ハッと身体を起こす。

「わたし、マリウスさんの所へ行かないと!」

「マリウス?」

 ダーヴィッドが聞き返す。


「フェルさんを助けてもらうよう、マリウスさんにお願いに来たのです。ヴァイゼも待っているので、早く行かないと!」

 遠くに来たと思っていたのに、この部屋からまだ、中庭が見える。

 それなのに、ヴァイゼの啼き声や兵士の声が聞こえない。

 捕らえられているフェルの身も心配だが、ヴァイゼの行方も心配だ。


 袖で顔をゴシゴシ拭いて、ローズは部屋を出て行こうとした。

 その腕を、ダーヴィッドが引きとめる。


「姫君、どうしてここにマリウスが居ると、ご存知なのですか?」

 ローズはヴァイゼから聞いた話を、ダーヴィッドに伝えた。


 ヴァイゼと会話ができる事を、ダーヴィッドはとても驚いたようだが、それで得心したようで、

「・・・そうですか、よく分かりました」

 と、深く頷いた。

 そして、軽やかにローズの手を取る。


「参りましょう、姫君。止まっていた時計を、動かす時が来たようです」



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