第36話 異国の名
ヴァイゼがローズの待つ岩だなに戻って来たのは、東の空がすっかり明るくなってからだった。
「リンデン寺院に戻った時には、すでにフェルの姿は無かった」
ローズは呆然として、岩だなに置かれたフェルの槍を見た。
穂先は血で汚れて赤黒い。
ヴァイゼは話を続けた。
「上空から付近を調べたところ、エルーガ軍の小隊がひとつ移動するのが見えた。どうやらフェルはそれに捕えられたようだ。恐らく、王城に連れて行かれたと思われる」
「王城・・・」
槍を見ていたローズは、顔を上げる。
昨夜の兵たちは、王城から来たのか。
ならば・・・
「あの人たちは、わたしを捕まえに来たのね」
確信をもって、ローズは言った。
ヴァイゼはしばらく黙っていたが、
「・・・間違いでは無い」
と、短く答える。
「尼僧長さんはどうなったの?」
この問いには、すぐに返事があった。
「無事だ。寺院の地下の食糧庫に避難して居る。・・・あの者も頑固であったから、少々強引に避難させたが・・・小隊を追った帰りに寄ったところ、中から元気な声がしていた。倒された兵たちもすでに片付けられていたから、もう寺院に兵が戻る事は無い。しかし、私では鍵を開けられないので、もう少し辛抱してもらうしかなかったのだ」
「もう少しって・・・」
「朝になれば、リンデン村の村人がやって来る」
これも事前に手配されていた事だと、ヴァイゼは説明する。
尼僧たちを預かってもらう交渉をした時に、同時に交わされた約束だった。
ヴァイゼは、毎朝決まった時刻にリンデン村に行き、尼僧たちの様子を確認していた。
これが途絶えた時は、必ず数人で寺院に出向き、ありとあらゆる部屋を開いて異常が無いか確認するように、と。
「もうすぐその時刻が来る。私が村に現れなければ、村人が寺院に来て扉を開けてくれるはずだ」
「良かった・・・」
安心のため息と共に、ローズの声がこぼれる。
ローズの気持ちを感じ取ったのか、カイムが嬉しそうに鳴いて、ローズの頬に擦り寄った。
そんなローズとカイムを、ヴァイゼは目を細めて見ていたが、
「ローズ、これからお前をパウル卿の元へ連れて行く」
そう切り出した。
「パウル卿?」
初めて聞く名に、ローズは首を傾げる。
「フェルが祖父に育てられたという話を聞いただろう、それがパウル卿だ。後は卿が万事取り計らってくれる。だから、お前は心配せず・・・」
「ま、待ってヴァイゼ!」
ローズはあわてて、ヴァイゼの話を遮る。
「待ってちょうだい。パウル卿って、貴族様よね?それが、フェルさんのお
「そうだ」
「フェルさんって、貴族様なの?」
「・・・」
ヴァイゼの返事が
「・・・ローズ、尼僧長は『青の乱』について語らなかったか?」
聞かれて、ローズは少し考える。
「それは・・・ファーディナンド様を国王にするために、たくさんの人たちが王城を取り囲んだ事でしょう。皆が青色の旗や布を持って集まったから、そう呼ばれて・・・」
ふと、ローズの脳裏にたくさんの青い旗が、はためく光景が浮かんだ。
旗を持った大勢の人が、何かを叫んでいる。
怖い。
でも・・・
たくさんの青い旗が、青い布が、風になびいて揺らめいているのは、綺麗だった。
「まるで・・・大海原の波のようね・・・」
誰かが・・・
そう言った・・・。
ローズは両手で、自分の頬を押さえる。
これは・・・何?
『・・・青い国の王は、民たちから強く頼まれて、王になった』
フェルの声が聞こえた。
あの星空の下で話してくれた、お伽話。
『10年前って、フェルさん何をしていたのですか?』
『俺は・・・王様だった』
ローズは目を見開いた。
「ヴァイゼ、フェルさんって・・・もしかして・・・でも、だったら・・・」
そのローズの混乱に、ヴァイゼは静かに頷きを返した。
「そうだよ、ローズ。フェルはエルーガ国王、ファーディナンドだ」
ローズは震えるほどの驚きに包まれる。
フェルが「神託の王」である、ファーディナンドであるのなら・・・
「神託の・・・グリフォン」
ローズはヴァイゼをまっすぐに見た。
青紫の宝石のような眼が、ゆっくりと閉じられる。
「・・・だが、その名は人間たちが勝手に付けたものだ。私自身、神の声など耳にした事は、一度も無い。私は、『ヴァイゼ』だ。フェルが付けてくれたこの名が、今の私の名なのだよ」
一度この目で見たいと思っていた、ファーディナンド王と神託のグリフォン。
それがフェルとヴァイゼだった。
嬉しいような、悲しいような、何とも言えない気持ちが、ローズの胸に湧き上る。
ファーディナンド王によって、母は牢獄へ行き、侍女であった尼僧長は城を追われた。
自分は孤児院へ入れられて、バーチ家でつらい日々を過ごさなければならなかった。
ファーディナンド王・・・フェルによって。
渦巻く思いをどうして良いか分からずに、カイムを強く抱きしめる。
「キュー」と啼きながら、カイムが心配そうにローズを見上げた。
ヴァイゼは黙って、ただローズの前に立っている。
聞きたい事はたくさんあるのだが、聞きたくないという思いとせめぎあって、心の底へ沈んでしまう。
だからローズは、単純な疑問を口にした。
「それなら・・・王城に居る王様は、誰なの?」
「今、ファーディナンド国王を名乗っているのは、フェルの
答えて、ヴァイゼは首を高く上げると、東南の方を振り返る。
王城の方角だと、ローズは思った。
「ヴァイゼ、教えてちょうだい。どうしてそういう事になったのか」
ヴァイゼはひとつ大きく息をついて、ローズへと顔を向けた。
「・・・そうだな。お前にはそれを知る権利があるだろうよ」
そして、ローズに座るよう
「話が長くなるからな」
ローズはヴァイゼの前に腰を下ろす。
朝の風が沢の霧を払い、陽の光が岩だなに降り注いだ。
「フェル・・・ファーディナンドは、エルーガ王族の末端、ヨークレフト公の嫡男として生まれたが、2歳の時に両親を亡くして以来、母方の祖父である、パウル卿に育てられた。パウル卿はヴルツェルの名門貴族で、ヴルツェル語を話し、ヴルツェル様式の暮らしをしている。『フェル』とは、ファーディナンドのヴルツェル名『フェルディナンド』からの愛称だ・・・」
「ヴルツェル・・・」
ローズは、「ヴァイゼ」の名もヴルツェル語であるのを、思い出していた。
地下牢から戻ったマリウスは、王宮の自室で朝食を取っていた。
「あなたは、この時を待っていたのですか?それとも恐れていたのですか?」
聞かれて、マリウスは口に運ぼうとしたスプーンを止める。
「分からない。でも・・・牢でフェルを見た時、会えて良かったと思ったんだ。嬉しかった。それは本当だよ」
マリウスは、皿に入ったスープを見下ろして、
「フェル、ちゃんと食べさせてもらえてるだろうか。あとで差し入れをした方が良いかな?」
と、つぶやいた。
クスリと、軽い笑い声が上がる。
「サイモンの出方が分かるまでは、食事に手を付けないでしょうね。・・・単に
「僕が持って行っても、食べてくれないかもしれないね」
「あなたが手ずから持っていた物を、拒みはしませんよ。例え、毒が入っていようとも」
「・・・ああ、きっとそうだろうね」
マリウスも笑った。
「そんなフェルと一緒に居られる自分が、誇らしかったよ。いつだって思い出すのは、フェルとヨークレフト領に居た頃の事ばかりだ」
そう言ってマリウスは、目を閉じる。
遠く過ぎ去った、少年の頃へと思いを
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