第17話 野天の語らい
リンデンにだいぶ近づいた辺りで、小川が流れる草地を見つける。
今夜の野営地と定め、降り立った。
フェルが薪を拾いに行っている間、ローズはヴァイゼに寄りかかって、地図の見方を教わっていた。
陽が沈んで、だいぶ冷えていたが、焚き火の暖かさと、ヴァイゼの獣の身体の温もりで、ローズは寒さを感じなかった。
昨夜ノースオークを出てから、どういった道のりを経て来たのか、地図の上を順にたどってみる。
初めて見た海、ブレイド湾の見た形そのままが、地図にも描かれていた。
そこに書かれた地名を覚えるのは、同時に文字の勉強にもなった。
「勉強をして頭を良くしても、ご主人様にはさからえないから、何も知らない方が良いって、一緒に働いていたリリィが言っていたけど・・・」
ローズの言葉に、ヴァイゼが顔を寄せてくる。
「本当にそうなのかしら。使用人は何も知らない方が良いの?」
「・・・ローズはどう思うのだ?」
逆に問われて、ローズは考える。
そして、昼間の魔獣亭の店員たちを思い出した。
「わたしはバーチ家に使われていたけど、魔獣亭の店員の女の子たちも、お店に使われているのよね。あの子たちは色々な事が分かっていた。だから、何も知らなくて良いという事は無いと思う」
パチッと、目の前の焚き火が爆ぜる。
ヴァイゼは炎を映して光る大きな瞳を、ゆっくり細めた。
「知識とは、この焚き火の薪のようなもので、それ自体はただの木切れでしかない。だが、思考という炎を大きく燃え上がらせるには、薪は無くてはならない」
正しいとも、正しくないとも言わないヴァイゼの言葉は、ローズには難しくてよく分からなかった。
だが、とにかく地図は、きちんと読めないといけない気がする。
もしも万が一、フェルやヴァイゼとはぐれてしまったら、すごく困るだろう。
せめてこれから行くリンデンの位置と、その文字は覚えてしまわないと。
ローズは何度も、地図の上を指でたどって、位置を確かめる。
そして枝を使って、地面に地名を書いた。
ヴァイゼとフェルの名前のつづりも教わって、それも書く。
「・・・ヴァイゼのつづりは難しいのね」
「私の名は、ヴルツェル語から付けられている」
「ヴルツェル語?」
首を
「お前は国境に近いフェーザーの町に居たのだから、その先にヴルツェルという国があるのは知っているだろう?」
「ヴルツェルは、悪い国よ」
ローズが語気を荒げる。
「ヴルツェルが攻めて来なければ、院長先生は兵隊に取られる事も無かったし、フェーザーの町も無くなりはしなかったのよ」
その事を考えると、ローズは悲しくて悔しい思いがいっぱいになる。
もしも、を考えても仕方無いのは分かっているが、それでも辛い。
「・・・そうだな」
ヴァイゼは優しい声で
「戦争で親しい者を奪われたお前が、そう思うのは無理も無い。だがなローズ、ヴルツェルにもお前と同じように、親しい者をエルーガ兵によって奪われた少女が居るだろう。その少女はきっと、エルーガを悪い国だと思っているだろうな・・・」
ローズは、ハッとしてヴァイゼを見る。
「それが『戦争』だという事を、心の片隅に置いておいてほしい」
ただ穏やかに、ヴァイゼはそう言った。
「話が逸れてしまったな。つまり、言葉や文字は一つでは無く、国や場所によって違って沢山あるという事だ。今はまず、エルーガで使われている文字を覚えよう」
ローズは
膝の上のカイムは、丸くなって眠ってしまったようだ。
寄りかかっているヴァイゼの身体は、柔らかくて温かくて心地よい。
パチパチと焚き火が燃える音と、小川の流れる音が柔らかく耳に響いて、ローズはいつしか眠気に絡め取られて行った。
「お前もそう思ったんだろう、ヴァイゼ。ごまかすなよ」
言い合うような声に、ローズはうっすらと目を覚ます。
「・・・王城のグリフォン像の事か。フェル、いささか飛躍しすぎではないのか?」
ヴァイゼがフェルと話しているようだ。
焚き火の向こう側に座っている人影が、どうやらフェルなのだろう。
辺りは暗いようだから、まだ朝ではないらしい。
「そうだと考えると、全てがしっくり収まるんだ。グリフォン像の事、カイムの事、ヴルツェル国境の町であるフェーザーの孤児院の事・・・」
カイム?
フェーザーの孤児院?
これは自分の話なのだろうか?
「ローズを連れ出した事を、後悔しているのか?フェル」
えっ・・・?
とうとう自分の名前が出てしまって、ローズの心臓がドキリと鳴った。
悪いとは思いつつも、寝ているふりをしながら、フェルの返事に耳をそばだてる。
「・・・後悔するのは、もっと先だろうけどな」
もっと先・・・。
肯定もされなかったが、否定でもない。
ローズはキュッと息がつまるような感覚になる。
それは、自分の働き
やはりフェルはそれほど期待していない、という事なのだろうか?
ヴァイゼが、深く息を吐くのが分かった。
「あの森に降りた時の感覚は、私自身も不可思議で説明しがたい。そしてそこに、ローズとカイムが居た。・・・フェル、これはそう決められていた事柄なのだと、私は思っている」
あの森とは、バーチ家の森の事か。
初めて会った時の事を言っているのだと、ローズは思った。
それは偶然ではなかったのだと、ヴァイゼが言っている。
「11年前のツケを支払わなければならないかもな・・・ローズに」
フェルが言った。
だが、当のローズは何の事だか見当も付かない。
お店でもないのに、ツケとはどういうことだろう?
決して冗談を言っているような口調ではないけれど・・・
11年前といえば、自分はまだ4歳。
だが、その頃の事をローズはあまり覚えていない。
もう孤児院で暮らしていたと思うが、曖昧ではっきりしない。
そういえば、昼間、フェルは魔獣狩人を始めて10年だと言っていた。
では、彼が仕事を始める前の話だろうか?
その頃の話に、なぜ自分の名が上がるのだろう?
フェルとヴァイゼは、まだ何か話を続けているようだったが、その声も少しずつ遠のいて、ローズは再び眠りの中へと落ちて行った。
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