第9話 月に飛ぶ



 ガシャーンッッ!!


 館じゅうに響きわたる大きな音を立てて、バルコニーから何かが飛び込んできた。


 蝋燭の灯は消え、暗い部屋に窓枠ごと吹き飛んだガラスの破片が、月明かりを反射させてきらめいた。


「な、何だっ!」

 チャールズが叫ぶ。


「・・・おっとまずい、部屋を間違えたようだぞ、ヴァイゼ」


 ヴァイゼ?

 ローズはクラクラする頭を何とか取り留めて、声のした方へ目を凝らした。


 破られた窓から風が吹きぬけ、カーテンを舞い上げる。

 満月の光を受けて浮かび上がったのは、大きなグリフォンとそれにまたがる長身の男だった。


「ひあああっ!!魔、魔獣だっ!誰かあっ!魔獣が部屋にっ!」

 チャールズが悲鳴を上げて、ベッドから転げ落ちる。


「クソッ、あの馬番の爺さんめ、いい加減な事を言いやがったな」

 フェルはチッと舌打ちすると、床に這いつくばっているチャールズの方に顔を向けた。


「よう、悪かったな。邪魔するつもりは無かったんだ。気にしないで続きを・・・」

 軽口はそこで止まる。


 フェルはヴァイゼから降りると、自分が纏っていたマントを外し、そっとローズへと掛けてくれた。


 どうして?・・・と、思った時、ローズは初めて、自分がどうしようもなくガタガタと震えているのに気付いた。


 唇が切れて、血が滲んでいる。

 打たれた頬もきっと、腫れているのだろう。


「な、何事だっ!これはっ!」

 この騒ぎに部屋の扉は開かれ、執事やバーチ氏が駆けつけて来た。

 だが、グリフォンの姿を見るなり、口々に叫び声を上げて部屋の外へと飛び退いて行く。


「グリフォンだと!」

 逃げる者たちを押しのけて部屋に入って来たのは、クリント卿だった。


「クリント!」

 フェルは素早くクリント卿に飛びかかり、卿の身体を壁に押し付け、片手で襟を締め上げた。


「よくも生きながらえていたなクリント!・・・いや、クリント卿か。随分と偉くなったものだ。サイモンからのご褒美か?」

 フェルの顔を間近で見たクリント卿は、大きく目を見開いた。


「あっ!も、もしや・・・ひうっ!」

 さらに締め上げられて、クリント卿は苦しげな声を漏らす。


「言えっ!ダーヴィッドはどうなった?知っている事を全部吐けっ!」

 今にも絞め殺しそうな形相で、フェルはクリント卿に迫った。


 その様子に、バーチ氏と執事が助けに入ろうとするが、グリフォンに威嚇され、身動きが取れない。


「ダ、ダーヴィット卿は・・・傷を負われて、た、谷川へ落ちま・・・した。その先は知りません。し、死体は、上がらな・・・かっ」

 苦しい息の間から、クリント卿はやっと言葉をつむぎ出す。


「・・・本当か」

「ほ、本当です!あ、後はし、知らない!た、助けて・・・たす・・・」


 懇願するクリント卿を、フェルは表情も変えずに見ていたが「ハッ」と、ため息にもならないものを吐いて、その手を緩めた。

 クリント卿は床に崩れ落ち、口から泡を吹いてピクリとも動かない。


「や、役場に連絡しろ!魔獣狩人まじゅうかりゅうどが人を殺した!私の館を壊したっ!」

 わなわなと震えるバーチ氏の指示で、執事が外へと駆け出した。


「気を失っているだけだ。死んでねえよ」

 倒れているクリント卿に目もくれず、フェルはバルコニーへ向かった。

 ローズはベッドから降りて、後を追う。


「・・・身体、大丈夫か?」

 振り返ったフェルが、気遣うように聞いた。

 ローズは口元の血を拭って、何度もうなずく。


「そうか」

 フェルの手が、そっとローズの頭を撫でる。

 そしてゆっくりと、ヴァイゼの背に跨った。


 館の門の方から、人や馬が入って来るのが見えた。

 執事よりも先に、だれかが役場へ走ったようだ。

 町に駐屯している兵士たちが、フェルを捕えに来たらしい。


「ローズ、あんたに会えて良かった。元気でな」

 満月の煌々こうこうとした光の中に、ヴァイゼに乗ったフェルが居た。

 その眩しさに、ローズは目を細める。


 青白い月光がその輪郭をくっきりと映して、まるで月の世界に向かおうとしているように見えた。


 彼らはそこへ行ってしまうのだ。

 ここでは無い、こことは違う場所ところへ。

 ローズの知らない場所へ・・・。


 行ってしまうのだ。

 ヴァイゼがゆっくりと翼を広げた。


 行ってしまうのだ。

 翼が大きくはためいた。


 行ってしまうのだ。

 ヴァイゼの後ろ足が、バルコニーから跳ね上がる。


 行ってしまう。


 行ってしまう。


 行ってしまう・・・!


 ローズは駆け出して、手摺りに取りすがった。

 月に向かって飛んで行くグリフォンに、思いっきり両手を伸ばす。


「お願いっ!!わたしも連れて行ってっっ!!」


 ローズはありったけの勇気をかき集め、か細い身体を振り絞って、叫んだ。


 こんなに大きな声を出したのは、初めてかもしれない。

 自分のための懇願を、ぶつけたのも・・・きっと。


 大きな満月の光の中で、グリフォンは小さな黒い影となっていた。

 その影が、ローズの涙に溶けて歪む。

 ローズは手摺りを掴むと、力尽きたように頭を付けた。


 その時、かすかに、本当にかすかに、グリフォンの鳴き声が耳に届く。

 ハッと、ローズは顔を上げた。


 月の中へと消えて行くはずだった黒い影が、だんだんと大きくなって来るのが見えた。


 月を背に、グリフォンが戻って来る!


 咄嗟とっさ、ローズはバルコニーの手摺りによじ登った。


「行くな!ローズ!」

 部屋から飛び出して来たチャールズの手が、手摺りに立つローズのマントの裾を掴む。


 ローズはマントを脱ぎ捨て、手摺りを蹴って月へと飛んだ。


「ローズッ!!」

 バルコニーで叫ぶチャールズの鼻先をかすめたのは、ローズを乗せて飛び去るグリフォンの翼だった。




 耳元でひゅうひゅうと風がうなっている。

 お下げにした髪が、ちぎれるほどにたなびいている。

 ローズは必死で、フェルの背中にしがみついていた。


 恐る恐る下の方に目をやると、闇の中に、家々の屋根がぼんやりと見える。

 それぞれの窓から漏れる明かりが、町を貫く道や路地の形を描いていた。


「町を離れるぞ」

 フェルの声にハッと気付いて、ローズは指笛を鳴らした。

 すると真っ暗な森から、小さなグリフォンが飛び出して来る。


「カイム!」

 カイムは懸命に翼を羽ばたかせ、やっと追いついて、ローズの肩にとまった。


 カイムの温かさを感じた途端、ローズの目から涙がポロポロとこぼれ落ちてくる。

 それは止めようが無く、ローズは声を殺して泣き続けた。


「・・・取り込み中に申し訳ないのだがフェル、ローズにもう少し前に来るよう言ってほしい。向かい風にあおられて落ちてしまう」


「あ、ごめんなさい」

 涙を拭って、ローズは言われた通りに前に寄った。


 そうしておいて、ハタと気付く。


「・・・え?今のは誰?誰の声なの?」


 空の上なのだ。

 自分とフェル以外の話し声など、聞こえるはずが無い。

 ・・・では?


「驚いたな。ヴァイゼの言葉が聞こえるのか・・・」

 呆然としたようなフェルの声がした。


「え!ヴァイゼなの?グリフォンって人の言葉が話せるようになるの?」

 ローズは目をぱちくりさせる。


「いや、こいつが特別。それも、俺としか会話できなかったんだが・・・。そうか、あんたヴァイゼの言葉が分かるのか・・・」

 噛み締めるようにして、フェルが言った。


「そのようだな。・・・では改めて、ヴァイゼだ。ローズ、よろしく頼む」

「こちらこそ、ヴァイゼ」


 ヴァイゼの声は、大人の男性のような声音こわねだったが、耳から聞こえるというよりは、優しく心に響くようで、それはとても心地良かった。


 ローズは少しだけ後ろを振り返る。

 バーチ家の館も、ノースオークの町灯りも、もう見えはしない。

 ただ闇だけが、重苦しく広がっているだけだった。



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