第8話 傲慢の滴り
屋根裏部屋を出て以来、顔を合わせるのは初めてだ。
ローズは少し、気まずさを感じた。
「奥様があんたを呼んでるよ。三階の西側の客間へ来なさいって」
だがリリィは、何事も無かったかのように、一緒に台所で働いていた頃のような気安さでそう言った。
正直意外だったが、また普通に話せるならその方が嬉しい。
「ありがとう、リリィ」
ローズもこれまで通りの笑顔で応えた。
三階の客間はあまり使われてない予備の部屋で、クリント卿とその令嬢には、同じ三階の別の部屋を用意してある。
クリント卿をお迎えした時の失敗を叱られるのだと、ローズは思った。
・・・それにしても夫人の部屋ではなく、使われていない客間に呼ばれるとはどうしてなのだろう。
足は重いが仕方なく、覚悟を決めてローズは部屋へ向かった。
「奥様、ローズでございます」
扉を叩くが返事は無い。
「・・・奥様?」
扉を少し開いて、部屋をのぞく。
中は暗く、
その灯りの端くれに、人影らしきものが見えた。
「あの・・・奥様・・・?」
もう一度声を掛ける。
人影が蝋燭の灯りの中へと入って来た。
「・・・チャールズ様?」
見えたのは意外な人物だった。
応接間で、婚約者と歓談しているはずの、チャールズだ。
「チャールズ様、あの・・・奥様は?」
「母さん?母さんは応接間にいるよ」
「えっ」と、ローズが喉の奥で声を上げた時、背後の扉がバタンと閉まった。
チャールズは満面に笑みを浮かべて、こちらへと歩いて来る。
「・・・こんな事、僕もするつもりは無かったんだよ。僕はローズを大切に想ってきたからね。本当だよ」
あっと言う間も無かった。
チャールズに手をひっぱられて、ローズの身体は抱きしめられてしまう。
「クリント卿がお前を気に入ったようなんだ。父さんにあれこれお前の事を聞いていた。後で、二人きりで話したいなんて言ったんだよ。僕のローズに手を出すなんて許せない」
ローズの耳に触れるほど近く、チャールズの唇があった。
ゾクリと、背中に寒気が走る。
「だから急がなくちゃと、思って・・・ね?」
チャールズの唇が、ローズの頬に押し当てられた。
「や、やめて下さいっ!」
ローズはチャールズの腕を振りほどいた。
「僕はローズが好きなんだよ。欲しいのはローズだけだ」
好きって、それ何?
全く考えもしなかった相手からの一方的な好意に、戸惑いを越えた混乱がローズを襲った。
「だ・・・だって、チャールズ様、婚約者が・・・」
ローズの口をついて出た言葉を、チャールズは一瞬驚いた顔で受けたが、すぐにまた笑顔になって、
「可愛い事を言ってくれるね。仕方無いんだよ。僕はバーチ家の跡取りだから、きちんとした正妻が必要なんだ。でも安心して。本当に好きなのはローズだけだから」
と、言ったのだ。
完璧な誤解にローズは弁明しようとするが、異性とのこんなやりとりは初めてで、どうしたら良いのか頭が上手く働かない。
けれどこのままでは、この身が危ないのは重々分かっている。
とにかくこの場は逃げなければと、ローズは扉へ飛びついた。
「・・・えっ?」
鍵は開いているのに、取っ手が何かにつっかえて開かない。
外から何かされている?
棒で
「開けて!開けてちょうだい!」
なぜ?どうして?
ローズは訳が分からずに、扉を叩いたり、力任せに取っ手を引いたりする。
けれど、扉はガタガタと音を立てるだけで、開いてくれない。
「・・・ごめんよ、ローズ」
扉の外側からかすかに聞こえた声に、ローズは息を呑んだ。
「リリィ?」
確かにリリィの声だった。
「そこに居るのはリリィでしょ!リリィ、お願いここを開けて!」
ローズは外に向かって叫ぶ。
扉一枚を隔ててリリィが居る、なのに
「ごめん・・・ごめんよ」
謝るばかりで、一向に扉は動かない。
「リリィ、何で?どうして?」
悪ふざけ、意地悪、逆恨み。
どれにしたって、これはやりすぎではないか。
「こ、こんな事、あたしだってやりたくないんだよ。でも・・・でもやらなくちゃこの家を追い出すって・・・チャールズ様が・・・」
ローズは扉を叩く手を止めた。
リリィの
「バーチ家を出されたら、この町じゃ生きていけないよ。あたしの給金は全部、親の借金のカタに取られてんだ、文無しじゃあどこにも行けないじゃないか。・・・あ、あたしだって、精一杯なんだよ、分かっておくれよ、ローズ!」
酷い。
ローズは胸が締め付けられる思いがした。
なぜこんな扱いを受けなければならないのか。
リリィも自分も使用人というだけで、どんな無慈悲も飲み込まなくてはならないのか。
「ひっ・・・」
突然、背後から羽交い絞めにされて、ローズはズルズルと部屋の中へと引き戻される。
「家に来た時は、ただの汚い子供だったのに、久し振りに見たらこんなに綺麗になっていた。ずっと欲しいと思っていたけど、台所の下働きじゃ、いくら何でも相手にできないだろ?だから母さんに頼んで、ヴィヴィアン付きにしてもらったんだ」
耳元で囁かれたチャールズの言葉に、ローズは身体が凍りつく。
この人は本気でそんな事を言っているのか・・・?
「あなたは・・・本当にわたしの事を好きなのですか?」
その問いにチャールズはクスクスと笑って、ローズを抱きしめる腕に力を込めた。
「意外と欲張りだね、お前」
そのまま力任せに引きずられて、部屋の中央に据えられたベッドへと放り投げられる。
すぐにチャールズが、上から覆い被さってきた。
「この僕がお前を好きだと言ってやっているんだ。身にあまる光栄だろう?」
蝋燭の灯りに浮かんだ顔に笑みは無い。
あるのは滴り落ちるほどの
「嫌です!離して!」
ローズはチャールズの手から逃れようと、身体をよじる。
けれど押さえつける力は強くて、大した効果は無い。
あの
それでも、足を蹴り上げ、爪を立て、動かせる部分の全てを使って、ローズは力の限り
チャールズが業を煮やして、ローズの頬を平手で打つ。
痺れと痛みが頭に響き、ローズは身体に力が入らなくなる。
ぐったりとしたローズを見て、チャールズは情欲の笑みを浮かべた。
もう、身体が動かない。
この
明日もこの先も、主人たちに人生の全てを握られて、それに甘んじて行かなければならないのだろうか。
だったら・・・もう・・・何もかも終わりにしよう・・・。
ローズの目の端から、一粒の涙が落ちた。
・・・その時
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます