ブラックフォレスト・ブラックバナナ

モグラ研二

ブラックフォレスト・ブラックバナナ

「ねえ、サムソン。誰もあなたに生きていて欲しいなんて頼んでないのよ?」

(アダムス・ファンドソン『暗い道・明るい道・かならず死ぬ・みんな死ぬ』より)


***


長く、小説というか、文章を書く行為から、離れていた。

その間、さまざまな出来事があった


あれほど死にたいと毎日言い続けていた仕事を辞め、転職をしたこと。


転職後、体重が減り続けていること。


軽減はされたものの、相変わらず陰鬱な気分が続いていること。


そのことで、この厭世観というか、陰鬱な状態の原因が、仕事だけにあったわけではないと判明した。


ようは、私個人の体質なのだろう。あるいは病気なのかも知れないが。


何を書くつもりなのか、私自身わからない。


まともなものが、書けるはずもないことを自覚しながら、


そう自覚しているだけ、まだマシなのだと思いながら、筆を進めていきたい。


***


屈強な黒人男性たちが路上をゆっくりと歩いている。


彼らは全裸である。


いずれも、野獣のように鋭い眼光で、まっすぐに前を見ている。


「なるほどね」

と、おれは呟いた。


「わかったかね?」

「ああ。大体、事情は飲み込めたよ。つまり、あんたらの言いたいことはこうだろ? あんたらがこの国を守ってるってことを証明しろってんだろ?」

「そうだ」

「それで、あんたたち全員が納得したら、おれを解放してくれるわけか?」

「そういうことだ」


「ふうん……」

おれは考え込んだ。

これはチャンスかもしれない。

おれはこの国(「ジャングルジャングル共和国のこと。俺たちは埼玉県の林道を散策していた。そのうち迷い、いつの間にかこのジャングルジャングル共和国に来ていたのだ。)のことなんか知らないし、この先もずっとこの国に滞在するつもりもない。


適当に話を合わせておけば、そのうち解放されるだろうという楽観的な見通しもあった。だが、それはそれとして、ここはひとつ、彼らの要求に応えておくべきかもしれない。


というのも、おれには彼らに対する貸しがあるからだ。

ついさっき、おれたちは道端で乱闘騒ぎを起こしたばかりなのだ。

しかも、その相手というのが、あろうことか警察官だったのだ。


おれたちは逮捕されそうになった。


そのとき、間一髪のところで駆けつけてくれたのが、ほかならぬこの男たちであった。


「ウゴア!ウゴア!」

一様にそのような雄叫びをあげ、激しく胸を叩きながらの突撃を繰り返した彼ら。


昔の格闘家でボブ・サップというのがいたが、全員の体格が、そんな感じに屈強で……。


複数の警察官たちの衣服を剥ぎ取りそのケツを掘りまくって血をドバドバ出させて死亡させた……。


「ケツ!俺のケツがああああああ!!!!」


警察官たちは自分のケツ穴が引きちぎられる激しい音を聞きながら涙を流し絶叫、白目を剥いて死んでいった……。


警察官たちはみんな若かった。左手薬指に指輪をしている者もあった。


嫁や子供がいたのだろうか。


その嫁や子供は、自分の夫・父が、屈強な黒人男性たちに、その巨大なチンポコに、ケツを掘られて大量出血・ショック死したと知ったら、どういう反応を、するだろうか。


ケツを掘りながらの彼ら屈強な黒人男性たちの、屈託のない笑顔。


白い歯が、輝いていた。

そして「オーイエス!オーイエス!」を連呼。


彼らがいなかったら、今ごろどうなっていたかわからない。

だから、彼らに恩返ししておく必要がある。


「オーケーだ」

おれは言った。

「いいぜ。やれるもんならやってみようじゃないか」

「よし」

リーダー格の男が大きくうなずいた。

「おまえの覚悟はよくわかった。では、ついてこい」

男たちは歩き出した。


その後に続く。


やがて、彼らは大きな建物の中へと入っていった。


大きな建物……緑色の壁。窓は黒く塗られている。


入口横に立てかけてある白い看板には ドーナツ島へようこそ! と書いてある。

横には坊主頭の少年が真顔でドーナツを食べているイラスト。


「ポゴって男の子だよ。ガラガラ蛇にチンポを噛まれて悲劇的な死を遂げたんだ」

全裸、屈強な黒人男性が述べる。


ポゴの悲劇的な物語は「ジャングルジャングル共和国」ではすでに古典として流通しているとこと。日本における桃太郎とか浦島太郎とか、そのレベルの物語であるらしい。


ポゴのイラストを横目に、入口を通過していく。


広いロビーがある。アップライトピアノがあり、そこにオランウータンに似た毛深い全裸の男がいて、滅茶苦茶な演奏をしていた。


「あんまり見るな。一応、名の売れた芸術家なんだ。気難しい奴でな……」


そこは体育館のような場所だった。


中に入ると、そこには大勢の全裸の男がいた。

むんむんと、オスの臭いが充満している空間。


全員、若い。


おそらく、年齢は十代後半から二十歳くらいまでであろう。


ざっと見て、五十人近くいるだろうか。

みんな、じっとこちらを見つめていた。


全員が勃起していた。


チンポの先端から透明な液体がしたたり落ちている。


びくんびくん震えている大小さまざまなチンポ。


「おい」

おれは尋ねた。

「なんなんだ、こいつらは?」

すると、男は答えた。

「ここにいるのはすべて奴隷だ」

「奴隷だと!?」

おれの声が裏返った。

「そうだ」

「冗談じゃねえぞ! こんなガキどもをどうやって守れっていうんだよ!」

「安心しろ。ちゃんと訓練してある」

「訓練だって?」

「ああ。ここでは毎日、厳しいトレーニングを課してある。戦闘技術を身につけるためのものだ。その成果はすでに充分に発揮されているはずだ。見ろ」

男が指差すほうを見た。


そこには二人の少年の姿があった。

もちろん全裸でチンポを勃起させている。


どちらも小柄である。特徴を言えば片方が褐色の肌をしている。もう片方は色白で坊主頭だ。


まるで小学生みたいに見える。


だが、よく見ると違うことがわかる。


筋肉質だし、顔つきにも幼さが抜けきっている。


それにチンポのサイズや形……。

どう見ても子供ではない。


それに── 驚くべきことに、二人は素手で戦っていた。


互いに組み合い、相手の身体を投げ飛ばそうと力比べをしている。


向かい合い、手と手をくっ付け、押し合っている。

その時に、お互いの勃起したチンポの先端がくっついている。

お互いの透明な粘液が、混ざり合う。


唇を突き出し、お互いにお互いの顔にキスしようとする。


目を瞑りロマンチックなキス顔……


歯を剥き出しにし「ガオ!ガオ!」とケダモノじみた鳴き声を発する。


生ケツと生ケツをくっつけて押し合う。

激しいケツバトル。


どちらも必死の形相だ。


歯を食いしばり、額からは滝のように汗を流している。

そして激しいケツバトル。


……ついに決着がついた。

色白で坊主頭にしているほうが勝ったのだ。


勝ったほうは雄叫びをあげた。

「ウゴア!ウゴア!」

雄叫びをあげながらチンポから勢いよく白い精液を発射した。


敗者はその声を聞いて崩れ落ちた。

敗者のチンポは勃起していない。すでに萎びている。

そのまま動かなくなる。

死んだのかと思ったが、違った。

気を失っただけだったようだ。


勝者はゆっくりと立ち上がった。

それから、勝ち誇るような笑みを浮かべて、おれたちのほうを振り向く。

そいつの顔を見て驚いた。

なんと、それは猿渡猿男だったのだ。

「なにやってんだ、あいつ……」


あの猿渡猿男が…なぜこんな場所に?


***


相変わらず、何を書いているのかと自分で問いたくなるイメージが、現れた。

これは何なのだろう。


かといって、自身の妄想や、願望をストレートに物語化したような、

たとえばモテまくる話とか、可愛い女の子やイケメンが出てくる話など、

書きたくもないし、死ねと思ってしまう。


そういうものをなんの恥じらいもなく嬉々として書いている連中が、生きたままガソリンをかけられて火をつけられ悲惨な最期を迎えても何も思わない。


むしろ気持ち悪い連中が駆除された喜びを表明する可能性さえある。


私はただ、なんの役にも立たない。なにも面白くないものを提示していきたい。


そして何かの間違いでこれを読んだ人が、「何これ…キモイ…」と呟き、顔を顰めて嫌がってくれたら良いと思う。


うんこを突き付ける感覚。


こんなにも人格が歪んでしまった。もう、元には戻れないのだろう。


今は嫌がらせすることしか、私にはできない。


***


黒い森には伝説の猿が住んでいるという。

一説ではオランウータンに酷似しているというが……。

私はその猿を探していた。


「猿か……」

一人呟きながら、森の中を歩いていく。


私と一緒にいるのは、私の忠実なる従者たちだ。


先頭にいるのは、黒豹の獣人である『夜ノ森』。

彼女は私がこの世界に来て最初に出会った仲間である。


次に並んでいるのは、巨大な体躯を持つ熊の獣人『アモン』。

彼は、元魔王軍四天王の一人で、現在は私の部下となっている。


最後尾に居るのは、美しい女性の姿をした精霊の集合体――ジン。

彼女の本体は剣であり、今は私の腰にある大剣へと姿を変えている。


そして、最後にいるのが、私の可愛いペット達だ。

一匹目は、背中に甲羅を背負い、二本足で立つ亀の魔物である『ガメラス』。


二匹目もガメラスだが、こちらは二足歩行する蛇のような姿だった。


三匹目のガメラスは全身から棘を生やし、四匹目は長い尻尾と頭があるだけの球体であった。


彼らは皆、私が召喚魔法を使って呼び出したのだ。


最初は百体近くいたのだが、今は二十体程まで減ってしまっている。


どうして数が減ってしまったのか?

それは、彼らが進化してしまったからだ。

進化とは生物が己の限界を超える為に行われる現象らしい。


彼らは魔王軍の実験によって限界を超えて進化させられてしまい、自我を失ってしまった。


だから、殺すしかなかった。


彼らの命を絶つ時、私の手は震えていた。

初めて殺した時は吐いてしまうほど気持ち悪かった。


私の中の溢れ出す善意が痛めつけられた。


だけど、殺さなければ殺される。

そんな世界で私は生きてきた。

慣れたくなかったけど、いつしか心は麻痺して何も感じなくなっていた。


「どうして?マスター……ぼくのこと嫌いなの?」


ガメラスたちの死に際の言葉を聞いて、私は泣いてしまうほどだった。


彼らを殺したことを後悔していないと言えば嘘になる。


「もうすぐだよ……」

私の言葉に反応して、夜ノ森たちが警戒を強める。


***


「アモン!だめっだめだよう……」

アモンが私のチンポを執拗に舐める。私は気持ちよくて甘い声で叫んでしまう。

「アモン!あんっあんっ」


巨大な体躯を持つ熊の獣人『アモン』。

彼は私の恋人なのだ。

「可愛いぜマスター……もっと鳴かしてやりたくなる」


アモンの太くごつごつした指が、私のケツ穴に入って来る。


「アモン!そこだめっ汚いよお」

「汚くねえさ。マスターのここ、すげえ美味そう」


アモンは熱い舌で私のケツ穴を舐めた。

「うんめ。うんめえ!」


「あっ、あんっ、きもちっ!アモン!きもちいよお!もっとして!」

「おうよ!まかせろ!」


***


私は厚揚げ豆腐をコンビニで買い、オールフリーというノンアルコールビールを飲む。


1人、臭い部屋にいる。


ゴミ部屋にはなってはいない。

引っ越して以来、ゴミ捨てはしている。


ゴミ捨てという行為を、私は覚えたのだ。


だが、臭いのは事実だ。


小説は、書かなかった。

書く意味合いを感じなかったし、必要も、なかった。


本は、読んでいた。以前ほど熱中しては読めなかったが。


なかでも、ナタリー・サロートの「黄金の果実」は素晴らしい小説だった。


キャラクターや物語がなく、ただ「現象」だけが、抽象化された声をパッチワークしていく形で、書かれていた。


しかもその一つ一つの会話や挿話が、まったくエンタメ的な面白さを持っていないのだ。そこも魅力だった。面白くしないことに徹底している。面白くしないことが面白いと思った。「黄金の果実」は、「黄金の果実」という小説を巡る評価の変遷を描いた小説であるわけだが、この主題ならもっと、面白くしようと思えば出来ただろうと思う。しかし、サロートはあえて面白くしなかった。私はそこに彼女のずば抜けた知性を感じた。


ネットの小説は、読む気がしなかった。


物語やキャラクターに依存し、作者の欲望や妄想をストレートに表現、


それは、見たくもない自慰行為を、見せられるようで、嫌悪を感じる。


サロートの小説に比べて、ああこの小説は作者の性癖や願望が剥き出しだな、と感じてしまう。


それが気持ち悪いのだ。まるで公共オナニーショーではないか。


そういうものをなんの恥じらいもなく嬉々として書いている連中が、生きたままガソリンをかけられて火をつけられ悲惨な最期を迎えても何も思わない。


むしろ気持ち悪い連中が駆除された喜びを表明する可能性さえある。


私は、厚揚げ豆腐を割り箸で摘み、食べていた。


陰鬱な気分が続く。うつ病なのだろうか。

カウンセリングを受けた方が、いいのかも知れぬ。だが、それも面倒だった。


窓に目をやる。

路上のカップルに殺意が湧いた。


「トラックよ!奴らを轢け!ぐちゃぐちゃにしろ!殺せ!」


私は、叫んでいる。


私は臭い部屋にいたのだ。

今もいるが。


これが、この文章が書かれている理由も、私にはわからない。


この文章を書く。その行為が、おぞましい排泄行為そのものだ、と言われても仕方がない。


私は、うんこをしている。


こんなにも歪んでしまった私の人格。


「私が可哀想だ!今、私は世界で一番可哀想!ウクライナの戦地で悲惨な最期を遂げる人たちより!私が可哀想!うわ!うわー!」


私は、臭い部屋で叫ぶ。


隣の部屋から、壁をガンガンと叩かれた。


私は、涙を流し、うんこをしている。


「うわ!うわー!」


***


2023 4/3

私は便器に座りうんこをしている。うんこがブリュリュリュと下劣な音を出してケツ穴から出て行く。どのような高貴な人からも、この下劣な音は、平等に発生するものなのだろうか。誰かが教えてくれるといい。とにかく、うんこが流れていく。私はのぼってくる私自身のうんこの臭いを感じる。臭い。私のカラダから臭いものがでていく。うんこ。うんこ。ずっと、呟いている。終わった後も。路上を歩きながら。うんこ。うんこ。呟いている。異様なものを見るようにして近所の小学生たちが、私の横を通過していく。私は通報されるだろうか。それはないと思いたい。呟くのではなく、大声で、うんこ。うんこ。を連呼すれば捕まるだろうが。呟く程度では。捕まるわけがない。だから私は電車に乗っても、ずっと呟いていた。私はさっき、うんこをしたんです。そのことを、電車の中で言っていた。誰も聞いてなどいないのだ。捕まるわけがない。さっき私のケツ穴は押し広げられた。そして臭いうんこがドバドバと流れ出た。臭かった。そのことを、スーパーマーケットで買い物し、レジに並んでいる時にも、呟いていた。異様なものを見るように、一様に血色の悪い、ほとんど灰色に近い顔色の爺さん婆さん、おっさんおばさん等々が私の方を向く。こいつら全員ぶん殴ってやろうか。私はスーパーマーケットの2階にある生活用品コーナーに行き包丁を購入することに決めたのだった。


***


「本当の優しさを知っていますか?」

駅前の広場で、赤い頭巾を被った痩せた少女、酷く目が飛び出ており、前歯も飛び出ている少女が言った。


「知るかボケ!優しさなんてこの世にはねえんだよ!」

突然の罵声。

浴びせたのは頭髪が欠如した、小太りの男だ。かなり顔が赤くなっていて、手には大きな酒瓶を持っていた。


「優しさなんて見たことねえし感じたことねえよ!おとぎ話のなかだけの存在!優しさはフィクション!宗教と同じだ!真顔で優しさがどうのとかほざく奴は宗教野郎だ!むかつく!むかつく!」


大声を出しまくる男に、少女は、動じることがない。堂々としている。


「本当の優しさですよ?思いやりの心を……」

少女は、先を言えなかった。

その前に、小太りの男が大きく振りかぶり、酒瓶で少女の顔面を強打したからだ。


「ブヒイイイイイイイイ!!!」

少女はそれまでの可憐な声を失い、甲高い、非常に耳障りな豚の悲鳴のような声を発して倒れた。


「きめえんだよ!死ね!死ね!」

頭髪の欠如した、小太りの男、恐らく40代半ばであろう男は、激高した様子で、倒れた少女、目が飛び出て、前歯も飛び出た少女の顔面を執拗に蹴り続けた。


少女の顔面は完全に潰れてしまい大量の血が噴き出して止まらない。


駅前広場は騒然とした様子だった。


行きかう人々の中にはスマートフォンを構え、その様子を動画撮影しているものもいた。


その中の一人、野球帽を被り大きな銀色のピアスをしたティーンエイジャーにインタビューを試みた。


「あ、はい!迫力あるシーンだったので撮影しましたよ!僕は最近ユーチューバーを始めてまして、はい!ネタを探していたのでちょうど良かったですよ!」


満足そうな笑顔が印象的であった。


***


「僕のオナラが凄く臭くて、その臭いを嗅いだうちの猫が泡を噴いて死んでしまったんです」


その話を聞いて、僕も死ぬほど笑いました。


「お兄さんは、猫に好かれるタイプなんですね」

と言ったら、彼は照れたように笑いながら、


「そうでもないけどね……」と言いました。


それから僕たちは色々な話をしたんですが、彼は自分のことをあまり語りたがりませんでした。


だから僕は、彼の仕事について聞き出すために、色々と質問してみました。


すると彼は困ったような顔をして、


「ごめんなさい……、言えないんですよ……。でもまあ、あなたならいいかな……」と呟き、自分が小説家であることを教えてくれました。

「小説家? すごい!」

僕が驚いていると、彼は少し恥ずかしそうな顔で笑っていました。

「本当にすごいです! どんな小説を書いているんですか?」

「それはちょっと言えませんよ……」

「どうしてですか?」

「……だって、人に言ったら、もう小説が書けなくなってしまうかもしれないからですよ」

「えー!? それじゃあ、本にはなってないってことですか?」

「いや、本にはなっているんだけど……、うーん、やっぱりダメだなぁ……」

そんなふうにして会話を交わしているうちに、気が付いた時には日が暮れていました。


そして彼が帰ろうとした時になって初めて、僕は彼の名前すら聞いていないことに気が付きました。


「あのっ!」

と言って呼び止めようとしたのですが、その時すでに彼の姿はどこにもありませんでした。


まるで狐につままれたみたいでしたが、何よりも不思議だったのは彼の存在感でした。


確かにそこにいたはずなのに、彼のことはまるで思い出せないし、名前を聞いたかどうかさえも記憶にありませんでした。


次の日に彼と会った時、僕は彼に昨日のことについて尋ねてみたんです。


すると彼は申し訳なさそうな表情を浮かべ、

「ごめんなさい、昨日の夜のことはほとんど覚えていないんです……」

と言いました。


「それにしても、あなたのような人がどうしてこの村に来たのか……。それが不思議なんですよねぇ……」

彼は独り言のようにそう言いました。


僕は「実は……」と前置きしてから、彼に昨晩の出来事を話しました。


すると彼は驚いたような顔になり、

「それはきっと神様のお導きでしょうね」と言いました。

「神様?」

「はい。そうでなければ説明がつきません」

「…………」

「あなたはきっと、これから先の人生において、たくさんの困難に見舞われると思います。だけどどうか恐れずに頑張ってください。大丈夫です、あなたは決して一人じゃないんだ」

彼はそう言って優しく微笑んでくれました。


その笑顔を見た瞬間、僕の目からは何故か涙が流れ出していました。

「ありがとうございます。頑張ります」

泣きながら礼を言う僕を見て、彼は少し戸惑っている様子でした。


それからしばらくして、僕は彼の紹介で一人の青年と出会いました。

その人は画家志望の学生さんで、とても繊細な絵を描く人でした。


ポゴ・ヒロシ。それが彼の名前。

「ぼくの故郷で悲劇的な死を遂げた人物がいて。その子供はポゴって名前で、今では神話上の人物になっています。ぼくの名前はその神話から取られたんです」


彼は毎日のように僕の家を訪れては、絵を描いて過ごしていきました。


僕はというと、そんな彼のためにお茶菓子を用意したり、部屋の掃除をしたりして、彼の身の回りの世話を焼いていたんです。


最初はぎこちなかった関係も次第に打ち解けるようになり、いつしか二人はお互いのことを『君』付けで呼ぶようになりました。


僕たちはまるで本当の兄弟になったかのように仲良くなっていきました。


しかしそんなある日、突然悲劇が起こりました。

ある夜のことだったんですが、僕はいつも通り布団の中で眠っていたんです。


***


僕がお布団に入っていると、下の方でもぞもぞと動くものがありました。

「え?だれ?」

僕は言い、お布団をめくりました。


そこには、見知らぬお爺さんがいたんです。痩せて、異様に眼光のするどいお爺さん。鳥のような印象の。


そのお爺さんは全裸で、僕のズボンとパンツを脱がせました。


「ユーは可愛いねえ。ユーのチンポとお尻も可愛い。ミーは食べちゃう。ミーはそのために生まれた。いいね?」


「え?なんで?気持ち悪い……」


「いいね?」


その「いいね?」には異様な迫力がありました。断れない。拒否すれば命を奪われるのではないか。あまりにも鋭い眼光に、僕は委縮していたんです。


「あはは。ユーのチンポを舐めて気持ちよくするからね。お口に出していいからね~」


***


トニー滝山というのが老人の名前であった。

卓越した会社経営者だ。


その経営手腕は、日本中の新聞が毎日のように彼の偉業を報道することからもよくわかる。


大隈重信と渋沢栄一という二人の巨頭から推薦状を受けて、滝山はこの六月に渡米した。


そして、九月にはサンフランシスコに東洋人初のホテルを開業するというのである。


しかし、この話には裏があったのだ。


渋沢栄一は滝山に資金を貸してやった見返りとして、あることを約束していた。

それは、自分の孫娘と結婚することであった。


もちろん、大隈重信もそれに一枚噛んでいたに違いない。


だが、滝山はそれを断わったのだ。そして、今度はアメリカでホテルを経営したいなどと言い出したわけである。


それが本当ならば、確かにアメリカに渡って成功する可能性はあるだろう。


いや、成功どころか、滝山はアメリカを手中に収めることさえできるかもしれない。


それというのも、彼は日本の未来について、こんなふうな予言めいたことを言っていたからだ――。


明治二十六年三月十日発行の東京日日新聞の記事によれば、次のような内容が記されている。

〈……今度米国より来りしハビテ・ブルダシネル氏は余等一行と共に昨十一日午後五時余等の案内にて此地ニ到着せり。同氏ハ米国ニ於ケル一名士にして商業上ハ其精力家徳ニ優レタリト云フ。余等は彼ニ会して後談論ずル所アリタルモ彼ハ敢テ自ラ語ラスシテ余等ヲ煩ワサズ。余等一同ハ今朝方同氏ニ対スル歓迎ノ為メ市中ヨリ馳走物ヲ持タセタルニ付此事後日迄忘レラレサルベキモノアルヘクバ是非共速カニ此旨を報知スベシト勧諭セリ〉


つまり、このアメリカ人の青年実業家とは、アメリカの一流大学を出たばかりの秀才で、その性格は温厚かつ聡明であるということだ。


そのうえ、英語はもちろんのことフランス語まで堪能ときている。


さらに、驚くべきことに、彼は日本女性との婚約を破棄したばかりだという。


滝山には20年前に芸者との間に生まれた娘がいた。


もし、彼が滝山の娘婿になるようなことがあれば、間違いなくアメリカの有力者たちとの人脈ができるはずだ。


そうなれば、この国を牛耳ることも可能となるだろう。


また、それだけではない。


アメリカは清国に対する最大の輸出先であり、その市場規模は日本よりも遥かに大きい。そして、莫大な利益を上げているのである。


しかも、現在のアメリカでは、南北戦争後の反動から来る経済不況を克服しようと、必死の努力が続けられていた。


そのような時期に、東洋から来た東洋人が、アメリカにおける最初のホテルを建設するというのだから、これほど恰好の宣伝はない。


まさに、日本の運命を握る男と言ってもいいくらいなのだ。


だからこそ、大隈重信も渋沢翁も滝山のことを気に入っていたのであろう。

ところが、滝山はその話を断わってしまった。

そして、その代わりに、今度はホテルの経営ではなく、自分が世界を動かしたいと言い出したのである。


これはもう、完全に馬鹿げているというしかない。いくらなんでも無理がありすぎるのだ。


おそらく、渋沢翁はそんな滝山に対して、アメリカに行く前に一度くらいは結婚をしておけと忠告したにちがいない。


だが、それでも滝山は自分の意見を変えなかったのである。


その結果がどうなるか? 答えはすぐに出た。


昨夜遅く、滝山からの電報を受け取った大隈重信は、すぐに栄寿を呼び出したのだ。


そして、滝山が殺されたという知らせを聞いたのだった。


栄寿は慌てて馬車に飛び乗って大隈邸に駆けつけた。

そこで待っていたのが、苦虫を噛み潰したような顔の大隈重信であった。


栄寿はその場で詳しい事情を聞かされた。


滝山は渡米を前にして、婚約者と別れたらしい。

理由はわからない。


とにかく、滝山はそれで気が変わってしまったのだ。

そして、今度はホテル経営に乗り出そうと決意を固めた。


そこまではいい。しかし、そのためにはアメリカの銀行の協力が必要である。

ところが、肝心の銀行はなかなか首を縦には振らなかった。

それどころか、すでに多額の投資をしていたにもかかわらず、突然手を引くと言い出したのだ。


これでは話が進まない。

焦った滝山は別の手を打つことにした。


つまり、自分で銀行を作る決心をしたわけだ。

それも、ただの銀行ではない。

株式会社の銀行を作ろうとしたのだ。

株式を発行して資金を調達する。それを元手に事業を起こし、成功すれば株を上場させて広く出資者を募り、最終的には莫大な富を得る。まさに、日本の産業革命ともいえる計画だった。


しかし、それを実現するためには、まず第一に株式取引所の開設が必要となった。

そのため、滝山は渋沢栄一に頼んで、東京株式取引所の設立に尽力したのである。

栄寿もそれは知っていた。


だが、まさかこんなことになるとは……


***


スーツを脱ぎ、ワイシャツを脱ぐ。細身だが鍛え上げられた肉体が現れる。


栄寿はホテルのベッドに横になり、目を瞑った。

今日は酷く疲れた。


すぐにうつらうつらとしてきた。

眠気がやってくる。


その時に、お布団の下の方がもぞもぞと動いた。


「なんだ!おい!」

栄寿はお布団を剥ぎ取った。


そこには死んだと聞かされていたトニー滝山がいた。


痩せ細った老人、異様に眼光が鋭い。しかも全裸である。


老人……トニー滝山の股間にぶら下がっているもの……腐り果てて乾燥していくブラックバナナ……そのような表現がふさわしいグロテスクなしろものだった……。


「トニー滝山!貴様!どういうつもりなんだ!」

栄寿が絶叫すると、トニー滝山はニヤニヤし始めた。


「日本にいる頃からユーのこと可愛い思ってたよ。だから今日はユーのチンポとお尻を味わいたくて来たよ」


「お前は死んだはずだ!」


「死んでないよ?普通に生きてる。ユーのチンポを舐めて気持ちよくしてあげるね。我慢できなかったらそのまま口に出していいからね~」


***


2023 4/3

スーパーに買い物に行った。2階の生活用品店でゴキブリを皆殺しにする商品が無いか店員に訪ねていた。そのときに、包丁を持った男が、横を通り過ぎた。前髪が長く顔がよく見えない男で、痩せていて、酷く猫背だった。襤褸切れのようなティーシャツを着ていた。その男は包丁を持ちながら頻りに、うんこだよ、うんこ、うんこがでたよ、ということを呟いていた。店員が「あの人は最近よく来るんです。少し頭がおかしいみたいで」と言った。私は「そんなことを言うべきではないですよ。頭がおかしいなんて。気の毒で可哀想な人だって言わないと。みんなが優しさを、本当の優しさを持つべきなんです」と言った。それを聞くと、店員はムッとした様子になった。そのままムッとした様子で二度とゴキブリを皆殺しにする商品についての回答をしてくれなくなった。何かが気に入らなかったのだろう。私はその場を立ち去った。包丁を持った男はエスカレーターに次々に乗って行く人々を見送りながら、ずっと、うんこが出て行きました、私のカラダからうんこ、うんこがです、と言っていた。


***


今は夜の10時半で、缶のレモンサワーを飲みながら、これを書いている。

もう、よくわからない状態だ。


これは、こんなものは小説でもなんでもない。ただの排泄物だ。

そう思う人も、いるかもしれない。


そもそも、ここまで読んでいる人がいるかも疑問である

久しぶりに書いても、何の進歩もない。

読んだ人がいるとしたら、何を感じただろうか。

予想もつかない。

気色悪いもんを読ませるなと、憤りを覚えた人が多いだろうか。

なんとなく思うが……。


引っ越しや転職しても、陰鬱な状態は打破できなかった。


これはもはや、私個人の体質というか、素養というか、そういう部分の、根っこの部分の問題なのだろう。


友達もいないし恋人もいたことがなく、家族にも好かれていない。

社会への憎悪が高まり、他者への殺意が止まらない。

池袋に行く。大量のカップルの群れ。

彼らに唐突にダンプカーが突っ込みぐちゃぐちゃの死体の山ができる。

そのことを熱望してしまう。

悪意の塊。

人間の屑。

自覚はしている。自覚しているだけマシなのか。


それでもなんとか生きている。それだけでいいのか。

わからない。立派なことは何も言えないし、立派なことを言う奴はぶん殴りたい……。


***


オランウータンに酷似した毛深い全裸の男が、広いロビーで、一心不乱にアップライトピアノを演奏していた。


もう、滅茶苦茶な演奏で、ほとんど騒音でしかない。


「ウギイ!ウギギイ!」

ピアノの騒音の合間に、彼のおぞましい甲高い叫び声が聞こえる。


「あの!あの!」

メイド服を着た少女、目が飛び出し、前歯も飛び出している、痩せ細った少女が、ピアノを演奏する男の背中を叩いた。


「は?」

オランウータンに酷似した毛深い全裸の男が、ピアノの鍵盤をたたく手を止めた。

「なんだよ?」


「バナナをフライパンで焼いてステーキにして食べますか?」

メイド服を着た少女が言った。


突然の話に、男は不愉快そうに顔を顰めた。

「非常識な奴だな。俺は、非常識な奴が1番嫌いなんだ!」


「でも……」


「出て行け!このバカ!」

それだけ叫ぶと、オランウータンに酷似した毛深い全裸の男は、再び、アップライトピアノの鍵盤を力強く叩き始めた。


「ウギイ!ウギギイ!!」


〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ブラックフォレスト・ブラックバナナ モグラ研二 @murokimegumii

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ