第2話

 この洋館は三月にとって大事な思い出の場所だ。

 小屋敷クローリクという初恋の少女との、楽しい思い出のつまった鍵つきの宝箱だ。


 この名前も教えてくれない少女の高校デビューのために、これから好き放題に荒らされていいような場所じゃない。そう主張するだけの法的権利がなくとも、心情として納得しかねた。


 想像するだに恐ろしい。

 女子高生の自室がどんなものかは知らずとも、高校生活の三年間、彼女がどう慎ましかろうとクローリクの子供部屋がまるっきり様変わりしてしまうことは想像に容易い。


 壁面にアイドルのポスターでも貼れた日には恨み骨髄だ。


 ここは聖域だ。

 聖域を汚したる者、何人たりとも許すまじ。

 三月はそうした苛烈な懸念が火山のごとくグツグツと沸が滾る中、しかし事情もしらない初対面の相手に理不尽なことはいうまいとぐっとこらえた。


「こ、郡山さん、一体どういうご経緯でお住みに……?」


「えとね、うん、小屋敷クローリクのお父さんとわたしのお母さんは弟と姉の間柄なんだよね。で、高校に近くて空き家だなんてちょうどいいわね、って話になっちゃって。今日、法事のついでに下見してこいって流れだね」


「下見! じゃ、じゃあ! 気に入らなかったらよそに住む訳だ!」


「そうなるかな」


「こ、ここはよした方がいい! 曰く付き物件だ! きっと幽霊が出る! そうに違いない!」


「なにそれ面白そう」


 黒髪の少女は不敵に、どこか冷たく嘲るように笑ってみせる。


「悪霊は願い下げだけど、クローリクの幽霊にだったら会ってみたいけどなぁ」


「オカルトマニアかよ」


 不服そうにする三月の反応を知ってか知らずか、郡山はいたずらげに微笑んで。


「うん、決めた。ここに住む。今更住まい探しに四苦八苦するのは春休みを棒に振る愚行だもの」


「そうか、住むのか……」


 食い下がるにも限界だ。

 ならばせめて高校生活デビューという天災の被害を減災せねば。


「……おねがいなんだけど。一人暮らしするんだったらよければ他の部屋を使ってもらえないかな」


「なにそれ、理由は?」


「ここはクローリクの子供部屋だから。……特別な場所なんだ、“俺たち”にとって」


 三月は真剣に言葉した。

 まっすぐな眼差しで、訴えかけた。

 郡山はやがて視線に耐えかねてか、そっぽを向きつつ口を尖らせて言った。


「別にさ、ベッドのある寝室、もひとつあるからそっちで寝てもいいよ。ここ、悪夢を見そうだし」


「本当か! ああ、すまない、随分わがままを言ったのに」


「だって同意見だし。ここはクローリクの部屋でいいよ」


 郡山は目を細めて、左手に大事そうに握っていたミニチュアドールを三月へ示した。

 白桃色の愛らしいウサギさん人形だ。


「同い年のいとこ同士だもん、この部屋でいっしょに遊んだことくらいわたしにもあるから。私色に塗り替えるのは気が引けるってのは、それはそう。言っておくけど、有栖川くん、初対面の君におねがいされたって従う理由ないし、しょうがなく“折れる”訳じゃないから、そこ理解して」


 攻撃的な言葉遣いと眼差し。

 なんだか、ウサギさん人形までもいっしょになってむくれているようだ。


 実際問題、郡山にとって三月はよくわからない邪魔者でしかなく、三月にとっても郡山は今のところ邪魔者という他にない。

 郡山にとっては高校一年生の新生活の、三月にとっては亡き初恋の少女との思い出の、邪魔だ。


 しかし、邪魔だからといって即座に全面戦争に陥るほどお互いに短絡的でもないらしい。


 クローリクの子供部屋という不可侵領域を守る。

 この和平案を以って、合意がなされれば、双方にとって納得のいく決着になる。


 それっきりだ。

 それっきりでよかった。少なくとも、この時点での三月はもう郡山に関わる理由はなくなった。

 この一言がなければ。


「もう、この家に来ないでくれる? それが交換条件」


「……交換、条件?」


 逆鱗に触れる、とはまさにこのことだ。

 郡山の氷柱が降り注ぐような鋭い言葉に、三月は靴を床に縫いつけられたように帰れなくなった。


 論外だ。このまま了解しましたと引き下がれる話しではない。

 しかし怒鳴りつけるのも事だ。三月はぐっと感情を抑えたつもりで、郡山への言葉を返す。


「小屋敷のご両親に許可をもらってると言った通りだ。君の私生活を邪魔する意図はない。仮にも女子高生の一人暮らし、無断で屋内に入ったりはしないと約束はする。だけども、だけどもな。二度と来るなと言われてそーだねそーするとは同意できないんだと、君こそ理解してくれ」


「許可? なにそれ証拠は?」


「この合鍵が証拠だ」


 夕焼けの光に触れて、きらりと輝く合鍵。ゆらゆらと揺れるネズミのミニチュアドール。

 郡山は露骨に不機嫌そうな顔つきになる。


「それ、こっちに渡して」


「断る」


「自分ちの合鍵を見知らぬ男子が持ってるなんて、乙女の許容範囲外なんですけど」


「小屋敷のご両親に電話して相談すればいい。この屋敷も鍵も、どうするかは持ち主に決定権があるはずだ。一円も家賃を払ってない立場の郡山さんにこの合鍵を処分する権限はないはずだけど」


「……電話されても平気ってわけだ」


「俺は墓守もどきなんだ。時々、庭木の手入れや屋内の掃除もしてる。夏は草むしり、秋は落ち葉拾い、冬は水道管が凍って破裂しないよう水を流す。電話したって、いかに俺が信頼できる相手かを力説されるのがオチだよ」


「管理人のまねごと? なにそれ気持ち悪い……。 有栖川くん、君さぁ、クローリクの“友人”だと言ってたけどもさ、ただの友人のやることじゃないでしょ、そんなの」


 明確な敵意、嫌悪感。無理からぬことだ。

 郡山という少女の反応はむしろ正しい。有栖川 三月という少年の周囲にも、クローリクへの執着を異常だと陰口を叩く連中が少なからずいる。


 クローリクはもう死んでいる。

 たかだか小学校時代の友人関係では説明できないほどに、三月はクローリクにこだわっていた。


 もちろん、正しく事情を知っている人は好意的に理解してくれる。それだけクローリクのことが大好きだったのだと素直に受け止めてくれる人はいる。とりわけ彼女のご両親は一番の理解者だ。


 ふたりは幼くて、初恋は道半ば。

 子供らしい付き合い方のまま終わってしまい、列記とした恋愛とはいえない。


 初恋の人と両想いだったとしても、恋人だとか、婚約者だとか、そう表現するには早すぎた。


 友人。

 世間一般に通用する、三月とクローリクの関係性の表現はそれしかなかった。


 そうした積年の想いを、ここで偶然にも地雷を踏んだ郡山にぶつけるのは八つ当たりで理不尽であると考えて、三月は「気持ち悪い」という言葉を受容することにした。

 ただ黙って、合鍵に連なったミニチュアドールをやさしく握ることで三月は己をセーブした。


「急に黙って、なに、怖いんだけど」


「……やめた」


「何を?」


「言い争うのはやめにする。合鍵も返したっていい」


「……なんで、急に」


「ここはクローリクの子供部屋だ。大切な場所だから、それを、あいつとの楽しい思い出をつまらない喧嘩で汚したくない。だから俺が折れることにする」


「それ、わたしが悪者みたいで気まずいんだけど……でも、合鍵はやっぱ譲れない」


「さぁ、これを」


 三月は合鍵を手渡すために、ゆっくりと安楽椅子に座っている郡山へと近づいた。

 郡山は警戒をゆるかに維持しつつ、立ち上がって、自ら合鍵を主導的に受け取ろうとする。

 だが三月はあと一歩のところで立ち止まった。


「今度はなに?」


「ただし交換条件がこちらにもある。三年後、高校を卒業してここを立ち去る時には合鍵を返してくれ。それと季節ごとに屋敷の手入れのために立ち入りをだな」


「バカなの、死ぬの? 鬱陶しいにもほどがあるんだけど」


「なっ」


 三月なりに最大限の譲歩した提案を、郡山は感情的に一蹴してきた。

 合鍵を渡せばもう防犯上の懸念はないはずなのに、なにがそうまで気に食わないのか。

 郡山は詰め寄って、静かに吠えた。


「死んでるんだよ、あの子は。三年後? いつまで亡霊を追っかけて生きる気なの?」


「たったの三年間だろ」


「じゃあクローリクと出逢って、死に別れるまでは何年なの」


「……三年間」


「二倍だね、いっしょにいた時間の二倍だよね、高校卒業する頃はさ。ここまで三年間、これから三年間、いや死ぬまで引きずって生きてたいってこと? あの子が、クローリクがそんな根暗で後ろ向きな生き方してほしいって願うとでも本気で? 思い出の解像度が低いね、ボケボケだね」


 郡山の物言いには、なにか個人的な想いが重なっているような気がしてならなかった。

 彼女もいとことして、クローリクと親交があったのだから、郡山にとってのクローリクは“そう”なのだろう。いつも楽しげに振る舞う彼女ならば――。


 確かに、過ぎたことは忘れて、前向きに生きてほしいと願っても不思議ではない。

 けれど、それは郡山の想起するクローリクでしかない。


『忘れないでね』


 反響する。

 言葉が、想いが、三月の心の奥深くにずっと響き続けている。

 その言葉、祈りか。

 その言葉、呪いか。


「忘れないでね。あいつ、そう言い残したんだ」


「え……?」


「忘れてほしいなんて一言も、クローリクは言ってやしない。弱音をいっぱい吐いて、苦しんで、病弱な体質に流行り病が追い打ちかけて、未練や後悔にまみれた不幸な最期だったんだ。そんなに綺麗な終わり方じゃなかった。だから、俺は忘れない」


「なにそれ、ホント……なにそれ」


 郡山は愕然として、ふらついた。

 死者の想いを都合よく解釈していたのは郡山の方だとは、到底受け入れられなかったのだ。


 長く艷やかな黒髪を少々乱暴に掻きむしって、郡山は打ち砕かれた幻想の破片にもがき苦しむ。


 心底、気持ち悪いことだろう。

 この洋館に遺された想いは単純明快な悪意でもなく、純粋無垢な善意でもないのだから。


 現に、その想いに耐えかねて、クローリクの両親はこの洋館を去った。

 墓守気取りでここにとどまりつづける三月のみ、その祈り、その呪いを心地よいと感じている。


「どうする、ここを出てくか?」


「やだ、断固拒否」


「じゃあ、これを」


 合鍵とミニチュアドールを差し出す三月。

 一時、郡山はためらった。

 しかし意を決して、おそるおそる合鍵を、それにつらなるミニチュアドールを手にした。


 夕陽が沈む。

 山の向こう側へと沈みゆき、宵闇が訪れる。


 その時だった。

 ウサギとネズミ、郡山と三月。ふたりの所有していたミニチュアドールが一つ所に集まったことで信じがたい怪奇現象が引き起こされることになる。


 一言で表せば、ポルターガイスト現象。

 クローリクの子供部屋に電灯の明滅にはじまり、ひとりでに窓が開閉する、地震でもないのに家具が揺れ動くといった異変が巻き起こる。


「きゃぁっ!」


 郡山は悲鳴をあげ、震え上がりながら三月の腕を痛いほど強く掴んで、しがみつく。

 ホラーは苦手か。


 いや、現実に今まさに起きているのだから、誰だって恐怖するのが当然だ。

 しかし三月は違った。

 これから起こることを、きっと、三月はずっと待ち望んでいた。それゆえ期待に胸が昂った。


「帰ってきたのか、クローリク……!」


 宵闇に亡霊少女の御霊は蘇る――。

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