第四話「日誌と嫁入り」
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脇本陣に帰り着いた後、畳敷きに布団を敷いて就寝することになった。
とりわけ奥方は眠たげで湯上がりのぽかぽか気分にまかせて、すぐにでも寝そうだった。
しかし奥方は寝る前にと行灯に火を灯して墨をすり、筆をとる。
「奥方様、日誌でございますか」
「ええ、いつ何があるとも限りません。日誌を書き残しておけば、いざという時に役立ちます」
「いざ、ですか」
「もしもの時は、これを我が父母に届けなさい。そうならぬ為にも、仇討ち旅なんてものは早々にあきらめてしまいたかったのですが……」
「……承知いたしました」
寝間着に着替えた奥方は文机に向き合って、静かに筆を走らせている。
当世読み書きのできる庶民は増えつつあるとはいえ、教養がなくては文章は書けなかった。
ウコンは読み書きができる。されとて本格的とは言い難く、高度な文章を読解はできない。それでも並大抵の庶民よりは忍者として教育を受けた分、賢い方ではあった。
文武両道。
良家に生まれ育ち、それに相応しい教育を受けた奥方は彼女なりの努力を重ねてきたのだろう。
勉学や鍛錬の苦しさには常々うんざりするばかりのウコンはかえって同情する。
己の死後に読まれるための日誌をせっせと眠気に耐えて書き残すなど、なんと物悲しいことか。
(……こんな後ろ姿を見守って何になる)
ウコンはとっとと寝てしまいたいのに、床に入ってもなお眠れずに奥方の背中を見つめていた。
一方サコンはさらさら興味がないらしく、くぅくぅと寝息をたてている。
「千代丸……」
不意に奥方のこぼした名を、ウコンはかろうじておぼえていた。
雪代ノ千代丸。
奥方の一人息子にして、亡き夫の忘れ形見――であったはずだ。
高位の武家は往々にして、子育てにおいては乳母に世話させることが多い。奥方の場合、手ずから育てることもできる程度の身分なれど、仇討ち旅に出向くためにやむなく我が子を預けてきた。
――庶民には信じがたい話だ。
乳飲み子より仇討ち旅を優先するよう命じられて、奥方は今こうして日誌を書き残している。
もしも己が死んだ時、十数年後にいつか我が子に読んでもらう意図もあることだろう。
(……バカげている)
武家の名誉。
仇討ち旅によって守らねばならぬソレは到底、いかに世の理であったとしても受け入れがたい。
ウコンはしかし、けして無闇に熱くはなるまいと一線を引くことにしていた。
これはあくまで任務にすぎず、この主従は契約上の関係性にすぎない。
(奥方とて、わかってるはず……)
奥方の人生にとって黒狐のウコンという従者は、昨日今日に顔を合わせた程度の間柄だ。
家族や親類、友人、そして亡き夫に我が子――。
彼女の一生にとって大事なものは枚挙に暇がなく、ウコンなど天秤にかけるのもおこがましい。
であるからして、ウコンもまた彼女のことを不必要に気遣うべきではないのだ。
「……寝ていらっしゃる」
文机に覆いかぶさって、奥方は眠りについていた。
ウコンの想像するよりはずっと、おだやかな寝顔にみえた。
「おやすみなさいませ、奥方様」
奥方に掛け布団をそっとかぶせて、ウコンもようやく寝ることにした。
『ウコンはかわいくて、とても頼りになる忍びでした』
ウコンはちらと見えた一文に、そう書き記してあったのを盗み見てしまった。
(……妥当な評価だ、何を喜ぶことがある)
そしてウコンは寝た。
ぐっすりと八時間ほど快適に、良い夢をみられた気がした。
翌日、ウコンは朝食の匂いによって目覚めた。
ふと見やれば、奥方はまだ文机でくぅくぅと寝入ってた。
「白虎族はよく寝るんだってねウコン、しばらくそっとしとく?」
「……ああ、腹が減ったらおのずと起きてくるさ」
脇本陣での朝食は手間の都合もあって、昨夜の残りものだ。ごはんも冷めきっている上、少ない。
しかし紅葉のしぐれ煮の切れっ端、それにあたたかな根菜の汁物にありつけるだけでも十分だ。
「奥方さまには飯処で食べてもらおっか、めざめる頃には商いやってるだろうし」
「朝食が減るのがイヤなだけだろう、さては」
「えっへへへー」
サコンは愛想よく笑ってごまかした。
「で、どうすんの湯治の旅だなんて。仇討ち道中の途中そりゃ湯治の名所を横切ることくらいはあるだろうけど、ホントに一ヶ月も泊まるの?」
「わからん。いずれにせよ、陸路をたどって西海道へと渡ることに変わりはない」
(……順調に行けば、か)
目的地は南西の方角、『西海道』という地域だ。
陸路ならば、長ければ片道六十日もかかる。たった二ヶ月、されど二ヶ月、長旅には相違ない。
往復ならば四ヶ月間だ。
しかしこれは順調に移動できればの話である。
(仇討ち旅をなるべく長引かせるには、それなりの工夫が要る……)
「早いとこお役目を終わらせてごほうびをもらうためにも頑張らないとね!」
「……褒美? 初耳だが」
冷や飯にほかほかの汁物をぶっかけてすすっていたサコンは、がふがふと慌てて食べて一息つく。
「“士分”を貰える約束をね、こっそりと」
「な――っ!」
ウコンは箸を止め、黒々とした狐耳をピンと立てて驚いた。
士分。
武士に等しい立場に成り上がれる、ということだ。
それは天涯孤独の拾われ子には夢物語に近い。天下泰平の世にあって、稀有な立身出世だ。
しかしウコンはすぐに察する。今の約束は、あくまでサコンのみの話だ。
「……お前の出自は、元々士族だったと言ってたからな。雪代家の助力があれば、士分の回復もできん話でもないのか。めでたい話だ」
少々落胆したものの、すぐにウコンは冷静になった。
妬み嫉みなんて損気なだけだ。なにより、そもそもウコンは武士になりたい訳でもない。
「あ、ウコンもだよ」
「は!? 待て、それこそ聞いてないぞ!」
「だって家族だもん。というか今更ウコンのいない人生なんて考えらんないし」
「勝手に人のことを人生設計に組み込むなよ」
「ウコンのことはあたしが養ってあげるから、そん時はいっぱい家で一日ごろ寝させたげるよー」
「や、養うだと」
ウコンは想像する。
野山や田畑を駆け回ることもなく、忍び里の命令に従って血と汗にまみれることもなく。
暮らしやすい城下町でのどやかな一日をすごし、縁側で昼間っからお茶をすする。
そして一日働いて帰ってきたサコンを出迎えて、労い、そして――夕飯を作ってもらう。
存外、良いかもしれない。
「一考に値する」
「でしょー」
「いずれにせよ、事が終わるまでは夢物語だ。ダメで元々、白紙も覚悟と割り切ることだな」
「のへへへへー、わっかりましたー」
ウコンとサコンは朝食を済ませて宿場町へと繰り出すことになった。
(……にしてもホントにこいつは私にべったりだな)
サコンがいやにごきげんだとは支度の様子ひとつみてもわかる。
任務の下準備のためにお互い二月ほど別行動が多くなっていたので、こうしていつものように朝食を共にしたのは久方ぶりだった。
よっぽどウコンに逢えて嬉しかったのだろうか。
草履を刷いている最中のサコンに対して、ウコンは軽い調子でこぼした。
「にしてもサコン、一生一緒に暮らして養ってくれるだなんて、まるで嫁入りだな」
「うん、そうだよー」
サコンはこれまた軽い調子でしれっと返した。
尻尾を不安げに小刻みにゆっくりと揺らして、こちらを振り返ることなく。
「ウコンさ、あたしのお嫁さんになってよ?」
戸口を開けると、まばゆいほどの朝日が差し込んできた。
銀毛がきらきらと瞬いていた。
「一考に値する」
いつみても羨ましい毛並みの色艶に見惚れつつ、ウコンは深く考えずにそう答えていた。
サコンはやはり、幸せになれる気がする。
士分を貰うということは、なにか良家との縁談を融通してもらい、嫁入りでもするのだろう。
サコンは己と違って、良い嫁の貰い手がきっと見つかることだろう。そうウコンは考えていた。
「えへへ。そんじゃ、いこか」
サコンは振り返って、手を差し伸べてきた。
少し、ぎこちない笑顔に見えたのはなぜなのだろうか。
朝日を乱反射する銀光のまぶしさに、少々、ウコンは目が眩んでしまった。
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