53.季節外れ
7月の半ばになると、草木の装いもはっきりと初夏のそれに変わり、通り過ぎる道端にアサガオやハス、家屋によっては庭からハイビスカスの花がこぼれおちていて、ふわりとその香りをまとうたびに、夏の匂いを身体に感じた。
けっきょく木曜日も、休日の人の多い時間も避けて中途半端な午後の時間にやってきた図書館には、4、5人の利用者がいるばかりで、佑都くんらしき姿はなかった。
そのことに半分以上安堵している自分がいて、けっきょく自分は何をしているんだろうと苦笑したいような気持ちになった。
ボードに飾られたその折り紙は、確かに綺麗だった。
以前もらった3つの折り紙と同じ、『藍色のイルカ』、『唐草の鶴』、『花びらの皿』。
ああ。これは、あの子が折ったものだ。改めて自分の目で見て、そう思った。
(元気に、してるのかな)
気がかりというほどではないけれど、やっぱりそこは気にかかる。
もしかしたら、学校に復帰しているかもしれないし、そうでないのかもしれない。
どちらにせよ、彼の個性が苦しい目に遭わないでいることを願うばかりだ。
「それ、綺麗でしょう」
振り返ると、本を持った年配の女性が立っていた。エプロン姿ではなく、銀色に近い綺麗な白髪に、白いカットソー姿の、上品な印象の方だった。利用者さんだろう。
「ええ。そうですね」
「お友達のお孫さんがね。男の子なのに、折り紙が好きでね。よく持ってくるんですよ」
不意をつかれて、「え」と声に出してしまった。
それを「男の子なのに」という部分への反応と受け取ったのか、女性が続けた。
「変わってますでしょう。まあ、今は昔みたいにうるさくない時代だから、男の子女の子なんて言わず、何をしてもいいんでしょうけど」
そう言って、女性はおおらかな笑みを浮かべた。
「その子は、元気にしていますか」と、口にしかけた言葉を飲み込む。
「綺麗ですね」
さっき発したばかりの言葉を、わたしはもう一度繰り返した。
その女性はひとつ頷いて、「お引止めして、ごめんなさいね」と会釈して、去っていった。それ以上声をかけることができず、わたしはぎこちなく会釈を返した。
書架の間をうろついていると、佑都くんがいた折り紙コーナーに行き着いた。
本棚に、少しだけ隙間が空いている。何気なく開いたページには紙の向日葵が咲いていて、ふと、向日葵のような明日香の顔が浮かんだ。
図書館からの帰り道。わたしは、図書館と地続きの公園にいた。
目的があるわけじゃない。たまたま空いていたベンチに座って、池の水面を泳ぐカモを眺めていた。
すっかり餌付けされているのか、こちらへの警戒心がまったくない。どころか、何かくれるのかと期待しているのだろう。つがいの二羽がこちらに進んできて、急かすように見上げている。何も持ってないよと手をひらひらさせると、あきらめたのか、ぐわっと一声鳴いて、池の中央へと泳いで行ってしまった。
※
「すみません、清算が合わない子がいて。お待たせしました」
新人さんに手がかからなくなったという明日香の早上がりの日とちょうどかぶっていて、お互いちょっと会って話がしたかったということもあり、今日この公園で待ち合わせをしていた。
「いいよ。それより明日香も、大学大変じゃないの? 休日に、大丈夫?」
「全然。今はそんなに立て込んでないから、大丈夫ですよ。それより、どうでした? あれ、見れましたか?」
「うん。見た。たぶん、あの子だと思う」
さっき会ったご婦人のことは、言わないでおいた。そっとしておこう。そう決めたのは、思い返せばわたしだったのだから。
「それより、どこか行く? わたしは別に、どこでもいいけど」
少し強引に話を逸らすと、気にした様子もなく、明日香が言った。
「あ、それなんですけど。登理さん、まだだったらお昼、うちでどうですか? 大したもので良ければ、ご一緒しません?」
「え、いいの?」
友達の家なんて、いつ以来だろう。大学のときに、何回かあったような気がするけれど、どういういきさつだったのかはほとんど覚えていない。たぶん、試験前とか、そういうことだったと思うけれど。
「いいんですよ。というか、むしろ来てもらえると助かるんです。実家から野菜がいっぱい届いて。おじいちゃんおばあちゃんがやってる、小さい畑のやつなんですけど」
「へえ、いいじゃん」
最近野菜も高いもんねと言うと、「そうなんですけど、多すぎるんです」と明日香は苦笑いした。
「切って冷凍しとけば、っていうんですけど、うちの冷蔵庫、一人用だからそもそも全体が小さいんですよ。写真送ったんですけど、なんかそこのところが、未だにいまいち伝わってなくて」
「もう、夏だしね」
「そうなんですよ。葉物が余ってて。って、ようは余りものなんですけど、それで良かったら、ちょっと手伝っていただけると、ありがたいかなと」
「別にいいけど。他にも材料いるでしょう。半分出すよ」
「あ、それはいいんです。前に冷凍してた肉がありますし。あ、別に古い奴じゃないんで、心配はしなくていいと思いますけど」
「それにしたって、タダじゃないんだから」
といいつつ、けっきょくは明日香の言い分に押し切られて、手ぶらでお邪魔することになった。明日香の家は、バイト先であるジェルモ―リオからバス亭5つ分離れた場所から少し歩いたところにある、木造のアパート2階だった。
「ちょっと散らかってますけど、気にしないでくださいね」とは言っていたけれど、部屋は綺麗だった。ベージュを基調とした家具や、壁際のラックに並んだ専門書の数々。ところどころに並んだ、キャラクターマスコット。予定がところどころに埋まっている、犬のカレンダー。机の上には、付箋だらけのノートと書籍が、何冊も閉じて置かれていた。
「登理さん、お昼まだですよね? さっそくですけど、昼鍋でいいですか?」
振り返ると、明日香がグレージュの土鍋を棚から取り出したところだった。
あれ。一人用には見えない大きさ。
「明日香」
「はい?」
「それ、彼氏さんとかじゃ・・・・・・」
一瞬何のことか分からなかったようだけど、「違いますよ!」ときっぱり否定された。
「後輩の子が勝手に持ち込んだんですよ! なんか懐いちゃって、冬の間はよく来てて、いつの間にかこんなのが置いてあって。代金払いますからって、わたし冬の間、勉強まで教えて、おまけに野菜ばっかり刻んでたんですよ。その子、料理全般、ぜんぜん話にならないから」
いまだに憤慨した様子の明日香に意地悪な質問をしようとすると、「あと、女子ですからね」と、先回りされてしまった。浮かべたしかめっ面に嘘はなさそうなので、それ以上訊くのはやめておいた。なるほど、面倒見のいい明日香らしい話だ。何だかんだ、甘えられてしまったのだろう。
「ごめんごめん。で、鍋なの? 7月なのに」
「7月だからこそ、ですよ。暑い時にじゃんじゃん汗かいて、きりっと冷えたウーロン茶。デトックスできますよ。あ、ちなみにキャベツと豚肉のキムチ鍋です」
「徹底してるね」
「いつでも本気が、わたしのモットーですから。あ、別にメニュー変更もできますけど、どうします?」
「いいや。乗っかってみる。キャベツ、それで全部? 刻もうか?」
正直ちょっと迷ったけれど、ここは好奇心を優先することにした。
「じゃあ、千切りをお願いしていいですか?」と訊かれたので、いいよと頷く。
鍋の準備をする明日香と、並んでキッチンに立つ。
開けた小窓から、風が通り過ぎていく。
引き受けたものの、自分で千切りをするなんて久しぶりなので、手つきも慎重になりすぎて、少しずつしか進まない。隣の明日香はあらかた準備を終えてしまったようなので、大人しく交代してもらうことにした。冬の間「切ってばっかりいた」というだけあって、明日香の手つきは慣れたものだった。
キャベツ、豚肉、もやし、鍋の素でふたをし、煮えるのを待つ。
冷たいお茶を飲みながら、一息ついた。
7月の鍋は確かに、美味しかった。その代わり、二人して汗まみれだ。
最大風量にした扇風機の風がこちらを向くたび、身体を冷やしていく。「アイス、買っとけば良かったですねー」「そうだねー」と、のんびりした時間が流れていく。
夏休み。高校生の時、懐かしい面々で家に集まって、けっきょくごろ寝したことを思い出した。あの頃のわたしが思うわたしに、これからでもわたしは、近づけるんだろうか。
なりたかったわたしに。自分を受け入れられる、そんなわたしに。
口に合わない望みは食えない。
ふと、そんな脈絡のない言葉が、浮かんで消えた。
何も意味を成さない遊びのようなこの言葉を、わたしは遠くない未来に、思い出すことになる。
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