52.存在
「考えたことがある」と前置きして、明日香は言った。
「何で自分が選択したものを、頭ごなしに否定されなくちゃいけないんだって」
「否定・・・・・・」
「まあ、わたしの話なんですけどね」
画面の向こうで、明日香が苦笑したのが分かった。
「わたし、これでも特待生なんですよ」
「あ、うん。だと思った。あ、雰囲気で」
「嘘。見えないって、よく言われるんですけどね」
照れ隠しに、いたずらっぽく笑ってみせる顔が、最近では自然と浮かぶ。
歳の近い友達。社会人になってすっかり縁遠くなった存在のその中心。そこに今、明日香という子がいるんだなと、改めて思う。不思議な縁だ。
「あ、ごめん。話の腰、折っちゃったね」
「いいんです。むしろわたしが折ったんですから。それにしても・・・・・・」
「ん?」
「登理さん、やさしすぎですよ」と、明日香は言った。
思わぬ方向から球が飛んできた気分で、面食らってしまう。
「え。そんなこと、全然ないと思うけど・・・・・・」
「いや、ホントに。ときどき、大丈夫かなって思いますもん」
今度はこちらが苦笑する番だった。そういえば、ずいぶん前に誰かから、似たようなことを言われた気がする。そんなふうに、わたしは見えるのか。気は遣うほうだとは思うけど、「優しすぎる」は、さすがに買いかぶりじゃないかな・・・・・・。
「まあ、人並みに気遣いしてるだけだよ。それより明日香、さっきの話は」
「ああ、すみません。実家の話なんですけど、わたしがPSW(精神保健福祉士)になることに、じつは大反対だったんです。そして、今でもそうです」
「そうなの!?」と、思わず声が大きくなる。なんとなく、意外だった。
明日香の伸び伸びとした姿勢を見ていて、優秀な娘を応援する、善良な親という像を勝手に結んでいたからだ。そしてその理由を聞いて、ますます驚いた。
「女が変に専門職なんかになると、それも精神病の人に関わるようなことをしているなんて、嫌がられるって。いつの時代だよ、って話なんですけど」
「それはまた・・・・・・。ずいぶん、保守的というか・・・・・・」
「お気遣いありがとうございます。けど、学費も含めて、できる限り資格は自分で取る。今は生活面でたまにお世話になってしまっている部分もあるけど、もらった分は全部記録して、将来返すことにしてます。お互い、それで折り合いをつけました。まあ、就職できても、お給料は高くはないですけど、今はできることをできる範囲で、あれこれしようと思って。そのためならって、ちょっと頑張りました」
明日香の口調の中に、「ちょっと」どころか、相当の努力があったことをうかがわせる響きがあった。もともと、頭の良い子だと思う。けど、上には上がいる中で、特待生を勝ち取るのには、並大抵の努力、それ以上のものが求められたことだろう。
そして、覚悟。親御さんの反対を押し切ってもなおそれは続くそれは、今も彼女の中で熱く燃え続けている。
明日香のエネルギーの元を、垣間見たような気がした。
「でも、大丈夫なの? 生活費とか、じゃあ自力なんでしょ。けっこうわたしも、一緒に出掛けたりしてるし・・・・・・」
「あれは、わたしがお誘いしてることですから。一応、範囲内ですよ。それに、わたし自分ひとりだと、課題とかバイトとかで、食べるの忘れちゃうことが多くて。確かにタダではないですけど、登理さんといると安らぐというか。だからわたし、お誘いするときって、煮詰まってるときがほとんどなんですよ。なんかそもそもいないんですけど、登理さんってお姉さんみたいで、甘えちゃって」
ひねくれているわたしが、「仕事二回も辞めて吐きまくってたお姉さんって、どうよ」と思ってしまったけれど、もちろんそんなことは言えない。
というか、ここまで言われると少しは素直に受け取らないと、逆に申し訳ない。
「うーん・・・・・・とりあえず、ありがとう、なのかな。で、何の話だったっけ」
無理やり話題を逸らす。たぶん気づかれているだろうけど。
「ああ、それなんです。何かって言うと、自分の選んだことを頭ごなしに否定される。しかも、自分じゃどうにもならないことで。性別だって、そうじゃないですか。別に選んだわけでもないし、今はそんなのを理由に役割を押し付けられていい時代でもない。何でもありだといいたいわけじゃないですけど、資格だって、折り紙だって、人を傷つけるものでも何でもない。むしろわたしは誇っていいものだと思ってます。というか、思いました。あの折り紙、すっごく綺麗でした。丁寧なのも分かるんですけど、きっちりと折り目がついているのに、ふんわりしているというか」
「ああ、それはちょっと分かる。雰囲気が、優しいよね。どこがどうっていうより」
デスク上に立てかけたフォトフレームに飾ったイルカたちは、押し花のようなけなげさと、淡い生命力を感じさせる。人の手のぬくもりを感じさせる。そういう感覚が、たぶん一番近い。
けれどその分、だからこそ佑都くんという子は理解されず、一人きりになってしまっているのかもしれない。皮肉だというより、やるせない。
「ねえ、明日香」
「はい」
「わたし、何か言えたら良かったのかな。なんていうか、大人として・・・・・・」
言いながら、「ないか」と内心思っていた。明日香のように何かに挑む覚悟も挑戦もしていない。したかもしれないけれど、けどわたしは負けてしまったわけで、未来を想像できていないのは、そういう意味では佑都くんに近い。大人になりきれない大人。そんなわたしが、あの子に何を言ってやれたというのだろう。
「大人としてというか。わたしは、登理さんのままでいいと思います」
「そうなの?」
「ごめんなさい、ほぼ推測です。でも、わたしがそうなんですよね。いてもらえるだけで、ありがたいというか。わたしじゃ登理さんには、なれない。それは優劣とかじゃなくて、帰って来れる場所、みたいな感じなんですよね。ちゃんと帰れば、自分の味方がいるっていうか。それに登理さんはカウンセラーでも、PSWでもないんですから。むしろ専門家の立場の人より、逆に素で折り紙渡してくれるような人に、わたしだったら会いたいです」
金にならないんだよ、お前の考え方は。
かつての先輩に何度も言われた言葉を、思い出した。
ずっと、だからダメなんだと思ってた。わたしは、冴香みたいなスキルも、友美たちのような頭の良さもなければ、努力も足りなかった。それでもようやく拾ってもらえたのに、社会人失格だな、なんて。
なぜだろう。その話を、するっと明日香にしてしまった。「うーん・・・・・・」とめずらしくうなってから、彼女は続けた。
「確かに、お金は大事ですよ。うちの教授がよく言ってるのは、『貧すれば鈍する』を甘く見るなと。君たちが支えられる範囲を過信すると、きっと利用者さんにもわたしたちにも、不幸な展開が訪れるって。前にわたし、本で読んだんです。当事者の方の手記だったんですけど、医療的な治療のこともだけれど、単純にお金がないことが何より不安だったって」
「ああ・・・・・・」
分かる気がする。傷病手当、失業保険。
猶予付きのそれらの手当てが途切れる間際、あるいはそれもなかった頃。
明日があるのかどうか。それすらも恐かった。
「でも」と、明日香は続けた。
「それがすべてではないですよね。一面で、すべてが成り立っているわけじゃない。さっきの話で言えば、お金でも、専門家でも、誰でもないところに、登理さんがいるんです。それで、良かったと思ってる、わたしみたいな人もいると思います。佑都くんだって、そうだったと思うんです。佑都くんが『待ってる』のかは、さっきも言ったようにわたしの推測でしかないんですけど。嫌いだったら、嫌だったなら、毎回そんなこと、しないと思うんです」
「そっか・・・・・・」
そうだったら、良かったな。ちょっとだけそう思って、いいのかな。
ずっと、自分なんてという思いがあった。何にも、誰にもなれないわたし。そんな思いが。社会に、大人に擬態できない。そんなわたしの。
ライン越しで、良かった。
片目からつたった涙に、気づかれないでいられるから。
このことは、誰にも秘密にしようと思った。ありがとう、明日香。
その夜、夢を見た。
土壁の部屋。暗く囚われた通路で、二人きりのわたしは相変わらず向き合っている。言葉はない。けれどわたしが初めて正面から見据えたわたしは、初めてこくんと頷いたように見えた。
目が覚めたとき、朝が来ていた。
なんだか久しぶりに、朝を見た気がした。
緩やかに太陽が地面を温め、窓を開ければ草木の息吹が香りになって届いてくる。
わたしの前に広がるのは、安アパートの、なんてことない狭い敷地。
でも朝って、こんな色でも、あったんだね。
佑都くん。君ならこの色、どうやって折るんだろうね。
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