47.疑問
校正業務の水曜日。
この日のわたしは、数値ではなく文字とひたすら、にらめっこをしている。
傍らには、各種辞書(スペースがないので、申し訳ないけれど床に置いている)、文字の大きさを図る「Q数表」、記者ハンドブック、付箋、ルーペ、各種ペン、修正テープ、そして指には指サック・・・・・・。
散らかってはいないとは思うけど、原稿を含めて物の量自体はどうしても多いので、デスクの幅をもう少しもらえないかと思ったりもする。
教材ページの中の『頼しい』という記述に、『頼』と『しい』の間に、『<も?』の記述を入れたり、改行やレイアウトのずれを指摘したりと、いつもどおりの業務に邁進していた。いつもの、データ入力業務の傍らにやっている、隔週の校正業務。
これは本来、先輩の校正士である須藤さんが生業としている業務だけど、前任の都築さんが退職され、契約外ではあるものの、暫定的に私にこの業務が回ってきている。
立ち位置的には、わたしは実質、須藤さんの補助、ということになる。
以前も言ったとおり、「校正」またはもう一歩進んで「校閲」の仕事は、単に「間違い探し」と捉えられることも多い。この職場では聞かないのだけれど、同業者の中ですら「あら探し」だけの軽い職業と捉えたり、「作る」側と比較して何も生み出さないと、偏見を向ける人もいるらしい。
まあ、正直わたしも、初めてこの作業に関わったときには、「なんて地味な作業なんだろう」と、自分で講座を受けておきながら、頭が痛くなる思いがした。
そしてこれも以前に須藤さんに言われたことだけど、文章や構図をそのまま眺めていると、当たり前のようにそこにある間違いに気づけない。
さっきのような送り仮名のミスや、簡単な接続後のミス、ぱっと見では通用する人名の間違いでもそうだ。通しで読んでいると、文字通り流し読みしてしまうのだ。
文章全体、あるいは単語全体ではなく、そのさらに一文字一文字。あるいは、構図の部分部分の微細なズレ。
校正業務では、全体ではなく、それを構成するひとつひとつを見る目を養う必要がある。そしてそれを使いこなす集中力がなければ、この仕事は成立しない。
かかる時間も、けして短いものではない。
何より、たくさんの人が関わった出版物を、正しいかたちで外に送り出す際に、わたしたちの目は重要な役割を任されている。
その自負がわたしにも芽生えてきてからは、この作業に向き合うのにもやりがいを感じるようになっていた。
例えそれが、降ってわいたような任期付きのものであるとしても。
もともとこの仕事は、わたしがこの職場に来る前に「校正実務講座」をたまたま受講していたことから始まったものだけれど、正直わたしは当時まったく乗り気ではなかった。それというのも、そもそもわたしは「校正」業務に特に興味があったからその講座を受講した、というわけではなかった。
けして楽ではない講座の「修了」についても、何かわたしにも稼げる方法はないかという打算で取得した肩書きであり、特に思い入れがあったわけではない。それが今回は、なりゆきで周りの目に留まっただけのことだ。今回のような機会がなければ、日の目を見ずに資格ごとお蔵入りしていた可能性もあった。
校正業務に携わるための資格には「校正実務講座修了」であったり、それに伴い受験できる「校正士」の資格だったり、「校正技能検定」という別の資格もある。一般的には、後者のほうがより専門性が高い。そして須藤さんは、この「校正技能検定」という資格のうち、「上級」資格保持者だ。
前に調べてみたら、わたしの受講した「校正実務講座」に比べて学習内容も多岐にわたり、その試験の合格率も20%代だというから、かなり狭き門だ。
ということもあるのか、退職した都築さんはともかく、現職の校正士である須藤さんは、わたしがいわば仕事を押し付けられた立場なのにも関わらず指導に容赦がなかった。しかも、あちらがもともとクールな性格なので、嫌われているのかと勝手に誤解して、苦しい時期もあった。
けれど、数カ月、半年と続けていくうちに、その溝はだんだんと埋まっていった。
愛想がいい、というわけでもないけど、水曜日に同じ作業スペースに入ると、業務の合間に何かと声をかけてくれることも多くなった。
口数は少ないし、完璧主義なところもあるけれど、まあ、こういう人なんだなと。
そう分かってしまえば、変な不安なんてほとんどない。
まあ、いまだに注意されることはあるのだけれど。
そういう意味で、仕事に対しては、相変わらず厳しい人ではある。けれどよく聞いてみれば、無駄な嫌味はないというか、あと腐れがない最低限の注意で、さらによく聞いてみれば、その後でささやかなフォローが入っていたりする。といっても、そのフォローに気づく余裕が出るまでに、それこそ数カ月かかったのだけれど。案外、不器用な人なのかもしれない。最近は、そう思っている。
「鈴原さん。今、いい?」
作業スペース用にあてがわれたデスクを立ち、初校の終わった原稿を段ボールに詰めて戻ってくると、須藤さんから声をかけられた。
手元の赤ペンは、ちょうど今しがた止まったようだ。
「はい。こちらは、かまいませんけど」
「そう。じゃあ忙しいところ悪いんだけど、ちょっと時間もらえる?」
「はぁ・・・・・・」
思わずまぬけな返事が出てしまったけど、別に嫌なわけではない。というか、「何かやらかしたか、わたし!?」という疑念が起こって、そんな曖昧な返答にしかならなかったのだ。皆勤賞ではないけれど、このところ大きなミスはなかったのに、油断したのか。そんなつもりは、なかったのだけれど・・・・・・。
「部屋、取ってあるから。そこで話そっか」
こちらの疑問符をよそに、そう言って、須藤さんはキーボックスからキーを取り出して歩き出す。
手には、ファイルに入った書類。正直、ますます嫌な予感しかしない。
小規模な事業所とはいえ、騒がしい編集部を横目に、廊下を出て奥まった空き部屋に通された。席を勧められ、さりげなく上座の位置であることに内心恐縮しながら、着席する。
「これ、目を通してほしいの」
前置きなく言われて手渡されたのは、観光案内のパンフレットの原稿だった。
ちなみに、見覚えはない。
「鈴原さんに、お願いしたいの。悪いけど、終わったら声かけてくれる? 別に、急ぎじゃないんだけど」
「あ、はい。分かりました」
正直、何かやらかしたと思っていたので、拍子抜けしてしまった。
パンフレット自体は、ぱっと見ではごくありきたりなものだった。パラパラめくってみると、郷土史といった内容が多めではあるが、文章量もそこまで多いものではない。もちろん、あくまで『ぱっと見では』のことではあるので、いつも通りの慎重な校正作業が求められるのは、言うまでもない。
とはいえ、まだ午前中である。雑務は他にあるけど、それも急ぎではない。そして、このパンフのことも急ぎではないとは言われているけれど、須藤さんがわざわざこんな持ち掛け方をするのなら、何か理由があるのだろう。時間配分を上手くやりくりすれば、今日中に仕上げて、須藤さんの元に返すことができるんじゃないだろうか。
「ありがとう。じゃ、戻ろっか」
「あ、はい」
それにしても、何でわざわざこんな部屋まで用意して、こんなことを頼むんだろう。
続く小さな疑問を覚えながらも、わたしはヒールを鳴らす須藤さんの背中に続いた。
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