48.提案
須藤さんから渡された仕事は、他の優先業務を終えてからではあったものの、終業数十分手前に片付いた。
黙々と手を動かす須藤さんの背中に声をかけるのはためらわれたけど、本人から「いつでもいい」と言われていたことだ。それに須藤さんは、厳しくはあるけれど、前の職場にいたような、理不尽に怒るようなタイプでもない。
「須藤さん、お仕事中すみません。先ほどの件、終わりました」
「あら、ありがとう。次の週でも良かったのに。」
こちらを向いた須藤さんの机の上には、いわゆるゲラと呼ばれる校了前の原稿が広げられている。「トル」や「∧《ツメ》」をはじめ、「」やフォントの指定など、緻密な校正記号がほどこされたそれを見ていると、いつ見ても物事が完成するまでの、美しいプロセスを目の当たりにしている気持ちになる。
わたしがやっていることも、一応似たようなことであるはずなのに。
須藤さんが「校正」より踏み込んだ「校閲」にも取り組んでいることを加味しても、スピード、精度、気迫、どれをとっても、とても太刀打ちできる気がしない。
端的に言えば、格好いいのだ。その背中が。姿勢が。
時々ふと、いつかわたしも、こんなふうになれるのかなと思うほどには。
その須藤さんは、しばらくわたしから受け取ったパンフをめくっている。そして最後のページまで目を通すと、こちらを見上げて、にっと笑ってみせた。
「ありがとね。早速で悪いんだけど、またちょっと時間もらえる?」
「あ、わたしはいいんですけど。須藤さんは?」
「再校だけど、別にこのくらいの時間ならいいから。ていうか、ちょっと頭切り替えたい。ちょっと鈴原さんに、相談したいことがあるしね。でもごめん、この項だけ」
と言って、須藤さんが原稿に向き直る。
一文字一文字を吟味する赤ペンの動きは文字に溶け合った精密機械のようで、何度見ていても飽きることがない。
再校。一度校正士から校正箇所の指摘を受けて、修正された原稿が返ってきたということだ。つまり今須藤さんが取り組んでいるのは、原稿の再チェックということになる。進捗状況は知らないけれど、優先順位はけして下になる業務ではないはずなのだけれど・・・・・・。
ぼんやりと浮かんだ疑問符をよそに、須藤さんはペンを手放した。
「お待たせ。こんな時間か。手短に済ますから、ちょっと来てもらえる?」
「あ、はい。分かりました」
須藤さんが手にしたのは、先ほどと同じ部屋のカギだった。ホワイトボードに、「使用中」と手早く記す。意図が分からないままついていくわたしは、これからいったい何の話があるのかと、まったく見当がつかない。あまつさえ、どちらかというとネガティブな想像を膨らませ始めていた。
特に心当たりはない。ないだけで、わたしは何か、またやらかしてしまったのだろうか。
部屋に先に通してもらい、さらに再び、さりげなく上座の席を譲ってもらってしまった。隅に置かれたパキラの葉が、公証人のようにわたしたちを見守っている。
須藤さんが口を開いた。
「前置きなしで言うけど。鈴原さん、このゲラ、どう思った?」
「は・・・・・・?」
とっさの返事がふぬけてしまう自分のくせ。ようするに、根っこがぼんやりしているんだろうけど、そういうのいい加減にしたいなぁと思いながらも、わたしはすぐに態勢を立て直しにかかる。
「あの、レイアウトのほうは指定の内容が手元にないので分かりませんが、文のほうはほぼ問題ないかと思います。ただ・・・・・・」
少し自信がなかったので言いよどむと、「ただ?」と、須藤さんが先を促す。
「細かいミスがあったように思うのと、このままでいいのか少し疑問だったものが、混じってました」
「ここと、ここね」
須藤さんがページをめくって指さしたのは、とある人物の名前と、送り仮名の選定で意見が割れる語句の箇所だった。指示はなかったけれど、それぞれ、訂正用と、疑問を呈する意味の校正記号を書き込んである。
「はい。名前についてはこの方は当て字を使われていますし、こちらの文法は使用しても構わない範囲かもしれませんが、本来からは外れていると、以前都築さんに教えていただいたものと、同様のものだったように思ったので・・・・・・」
「そっか」
それきり、少しの間須藤さんは、やや眉根を寄せて考えていた。
苦手意識はだいぶ薄れているとはいえ、別室で二人きりで原稿を前にするなんて、前に単純な誤字を見逃して危うく大事になりかけたとき以来なので、緊張度が跳ね上がっていく。正直、理由がなんであれ、いっそそろそろ叱ってほしいと思っていると、不意に須藤さんが笑った。
「ああ、ごめんごめん。そんな怖がらなくてもいいって。そんな話じゃないし」
「あ、いや。そういうわけじゃ・・・・・・」
「私の指導、厳しかったなって思うときあるもの。鈴原さんなんて、言ってしまえば善意で協力してくれているのに。ごめんね。あのときは、つい本気になっちゃって。仕事モードに入ると、加減が効かなくて」
意外なことで急に謝られて、ますます話の方向性が分からなくなる。
「いえいえ、こちらこそ」とか、意味もなく言葉を濁していると、須藤さんが続けた。
「彼女のこと、聞いた? 鈴原さんの、後任予定の」
「
現在、本業の派遣業務に加えて、成り行きで校正業務の増援に加わっているわたしだけれど、契約更新はともかく、その増援業務は来年以降更新されないことになっている。その理由は、佐藤編集長の先輩の娘さんにあたる、斎藤清香さんがこの部署に赴任するからだ。もっとも、同じく派遣の長瀬さんに言わせれば、印象は最悪だったようなのだけれど。
「その方が、どうかされたんですか?」
何かトラブルでもあったのかと思って聞いてみると、返ってきた返事は予想の上をいくものだった。
「私はね。正直、あの人とは仕事はしたくない」
机の下で足を組み替えたのか、須藤さんのヒールの音がかすかに響いた。
問題が起こったとき、時々須藤さんはこういう癖が出る。
「このパンフは、勝手に試して悪かったけど、試金石だったの。鈴原さんに対しても、ね。そして彼女は、この2カ所を、完全に見落とした」
「それは・・・・・・」
須藤さんらしくない。そんなことを言えば、わたしの失敗談なんて、今はともかく、昔は目も当てられないほどだった。一応相手は経験者らしいけれど、失敗なら誰にだってある。一度か二度かの失敗かは知らないけれど、それに加えて人に対する単なる好き嫌いで、須藤さんがこんな言葉を言うとは思えなかった。
わたしのそんな思いを読み取ったのだろう。須藤さんが続けた。
「もちろん、私もミスしたこと自体で好き嫌いを言っているわけじゃない。何の失敗もしない人なんて、いないもの。だいたい私だって、今じゃこんな顔して座ってるけど、なりたくても完璧じゃないのは百も承知だし。けどね」
そっと原稿を置いて、須藤さんが言った。
「笑ってるのよ。ろくに謝りもせず。『たかが小さいパンフですよね? 別に本じゃないんだし』って」
須藤さんの細い指は、薄いパンフの先端をなぞっている。
「私が年下だから、ぽろっとそういう物言いになったのかもしれないけど。それでもね、そんな人相手に、自分の隣を任せるのは嫌だなって。そういう理不尽も社会人の定めだとは思うし、だいたい社会人やって、何年目だよって話なんだけどさ」
「そうですか・・・・・・」としか、言えなかった。
斎藤さんに直接会ったことはないけれど、長瀬さんからも「派遣を見下している」と、その評判は良くない。そのうえ、同じ業務を担当するはずの須藤さんにまで、そう思われているとは。
胸の奥で、何かがぴりりと破れたような気がした。
「で、本題なんだけど」
再び、須藤さんがこちらを見据える。
「鈴原さん、この仕事、残りたいって思う?」
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