45.情報

濡れた髪を乾かしてから、そろそろ髪でも切りに行こうかと考えていると、ラインの着信音がした。

木曜日の20時過ぎ。いったい誰かと思って見れば、「中村明日香」の文字が表示されていて、山を背景にV字サインをした明日香さんのアイコンが目に入る。


『登理さん、お疲れ様です! 今、お時間ありますか?』


ゆるキャラの『YES!』のスタンプを送って、充電器のコードにスマホを繋ぐ。

彼女との通話は、いつもこうして始まる。

たいていはお茶のお誘いなのだけれど、忙しいのか、それとも気を遣ってなのか、そういった連絡は土日に来ることがほとんどだった(ちなみに、中村さんのモットーは、『安くて楽しむ』だ。この前は、変わったお店を紹介してもらった)。


めずらしいなと思っていると、早速着信があった。

スピーカーモードにして、通話ボタンを押す。


「こんばんは、明日香さん」


「登理さん、また『さん』付け、戻ってるし・・・・・・」


いつも言われることで、毎度わたしは苦笑してしまう。

自分が人との距離を慎重にとるタイプの人間だとは分かっているし、それがときには垣根になってしまうことも分かっているのだけど、いつの間にかついたこの癖は、なかなか直りそうにない。


「あ、ごめんね。 それより、どうかした?」


「それが、ちょっとびっくりした・・・・・・っていうか」


だいぶ明日香さ・・・・・・いや、明日香・・・とも打ち解けた関係になっていた。『社会人になると友達はできない』とたまに聞くけど、確かに名前呼びなんてする関係が始まるのなんて、久しぶりだ。


とはいえ、人懐っこい明日香はとっくに打ち解けていて、臆病なわたしだけがどこかで彼女に距離を置いていただけなのだけれど。べつにべたべたと強制されたわけじゃない。明らかに年下だから、気を遣わないでそう呼んでください、という話だ。


とはいえ、相手は国家資格取得を目指す、優秀な大学生。自分なんかが偉そうになんて、いろいろ考えた時期もあったけれど。本人もなんだか寂しそうだし、いいかげん厚意に甘えて、そろそろその名前を呼ばせてもらうことにしよう。


そう思うと、また少しすっきりした。

もう一度、鏡をのぞく。

持て余しはじめた髪に再度ブラシをかけていると、一呼吸おいて明日香が続けた。


「見つけちゃったかもしれません。 その・・・・・・ユウトくんっていう子」


「え!?」


びっくりした拍子に、ブラシに力が入って髪を巻き込んでしまった。ぶちぶちっと、痛みを誘う音が続く。

思わず「いたたたたっ!」と声を上げると、明日香の慌てふためいた声がした。


「登理さん、どうしました!? 大丈夫ですか!?」


「うん、ブラシが髪に絡まっただけ・・・・・・」


半分涙目になりながら答えると、地味に痛いやつじゃないですか・・・・・・と、水たまりで転んだ犬を見たときのような声がした。


「ごめんごめん、もう大丈夫。で、その、佑都くんを見つけたっていうのは・・・・・・?」


「それなんですけどね・・・・・・」


頭を撫でつつ、明日香からスピーカー越しに聞いた話は、こうだ。


わたしとの付き合いができて、佑都くんの話を聞いたとき、明日香には別に思いつくことがあった。図書館だ。


精神保健福祉士を目指す彼女の課題は、レポート、テスト、実技など、多岐にわたる。もちろん課題を提出する際には、ただ感じたことを書けばいいというわけではない。過去の研究やデータ、ときには当事者の手記にまで目を通し、多方面から問題に取り組んで、その本質を掘り下げていく(と、言っていた)。

そうした資料は、貴重なのだ。


とはいえ、それは他の学生たちにとっても同じことで、大学付属の図書館では、資料の争奪戦が行われていることも珍しくない。といっても、予約順に借りることはできるのだけれど、「これならまだあるだろう」と思っていた資料が僅差で借りられていて、けれどレポートの期限には返却期日は間に合いそうにない。


そういうときは悔しい思いをしながら泣く泣くあきらめるか、最終手段は自費で個人的に買うかするのだけれど、そういった学術書は、冗談抜きで「食費が飛ぶ」値段なのだそうだ。


バイト先である「ジェルモ―リオ」付近の図書館の存在は、知ってはいた。

けれど、日々の学生としての忙しさと、バイト先での忙しさに揺られるうち、店からは目立たないその存在を、いつのまにか忘れていたのだという。


「それで、この前レポートにどうしても必要な文献があって。急ぎじゃないんですけど、予約だらけだったんです」


そこで明日香が思い出したのが、わたしが佑都くんと出会った、あの図書館のことだった。


「でも・・・・・・どうして?」


「いや、それがホントに偶然なんですけど・・・・・・」


わたしと佑都くんが出会った図書館自体は、町中の、公民館の1階ほどのスペースの小さな図書館だ。なので、扱っている図書の数も少ない。


けれど、各地の図書館同士は「相互貸借システム」というもので、結ばれている。

利用者からリクエストがあった場合、同じ市内であれば、離れていても、他所の図書館の蔵書を無料で利用者の近くの図書館まで送り、そのまま貸出してくれる。

明日香が目をつけたのも、そこだった。


相互貸借でリクエストした本が届くのには、休館日を挟まなければ2,3日程度だという。それを聞いた明日香は、その場で図書カードを作り、さっそく課題用に読みたかった本をリクエストした。

そして、いつかのわたしのように、特に用もなく館内をうろついていたのだという。


「大学に入って覚醒した」という彼女の関心領域は、広い。これまで目が向かなかった様々な事柄を知るにつけ、自分の視野の狭さ、知識のなさを思い知らされたという。その彼女が、「手芸」のコーナーを通り過ぎたのは、だから本当に「偶然」だ。

そしてその偶然の中に、佑都くんらしき男の子がいた。


「それ・・・・・・本当に佑都くんかな・・・・・・・」


「んー。わたしもそのときはちらっとしか見てなくて、あとで登理さんの話を思い出したので、なんともなんですけど。でも、年恰好は似ていたと思います」


明日香が佑都くんらしき子を見かけたのも、今日、つまり木曜日の昼間のことだったという。その子が佑都くんだったとして、もしかしたらまだ「学校に行っていない」状態は、続いているのかもしれない。


「今日は登理さん、お仕事の日でしたよね。だから、こんな時間差で連絡しちゃったんですけど・・・・・・」


「ううん。それは気にしないで。むしろ、ありがとう。とりあえず、元気にしてる・・・・・・かもね。なら、良かった」


元気でいてくれたというより、佑都くんがまたあの図書館で本を借りる、おそらくは折り紙の本を借りているであろうことを思うと、安心した。


「学校に行っていない」。

そのことをめぐって気まずい空気を作ってしまい、わたしのせいで、あの場所まであの子から奪ってしまったのではないかと、ずっと思っていた。その思いを沈黙から感じ取ったのか、明日香が言った。


「やっぱり、気になります?」


「まあ、それはね・・・・・・」


明日香が口を開く前に、「でもさ」と、わたしは言葉を続ける。


「わたしが気にかけてるってだけで、それってあの子には何の役にも立たないし。ていうか、たぶん嫌な思いさせちゃったと思う。だから無事でいるなら、それでいいかなって、そういう感じかな」


握ったままだった、ブラシを置く。

明日香、と思い切って呼んでみると、「はい」とすんなり返事が返ってきた。

拍子抜けした。そっか。こんな感じでいいんだ。忘れてた。


久々だな、この感じ。なんでも話せるような、そんな予感。

だから久々に、この新しい、信頼できる友達に頼んでおこう。


「その子には、何も言わないでね。そっとしておいてあげよう。わたしはもう、あそこには行かないから」

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