44.謝罪
天気予報の時間帯よりも早めに降り出した雨は、夜になっても止む気配がない。
この時期にやってくる雨。いざこうして降ると不便さを感じるものだけど、一昨年はから梅雨で、水不足一歩手前にまで追い込まれた。そのときの恐々とした生活を思えば、今この闇を濡らす水音に、どこか安心している自分がいる。
かちっと音を立てる、手の中のライター。
火をつければメンソールの香りが、わたしの口中と
この前買った百均のグラスは、水をはって、今は灰皿替わりになって床に転がっている。
煙草を吸うのも、そういえば久しぶりな気がする。
基本何も考えていないわたしだけど、こういうときは、あとから思い出すと何かしらひっかかっていたり、考え込んでいたりすることが多い。
そして今回は、そのことに今の時点で気がついている。
『契約更新なし』『校正業務の後任』『嫌な人』・・・・・・。
長瀬さんから聞いた話で、わたしが本人に会ったわけではないから、その点はあくまで、長瀬さんの感想だ。社会人になって少しわかったことだけど、人は良くも悪くも、分からない。
表は笑顔で丁寧、けれど陰で嘲笑っている人、いつも無関心でいるようでいて、いざというときに声をかけてくれる人。これまでの2度の退社で、わたしは幸か不幸か、その両方を経験してきた。前者が多く、後者は圧倒的に少ないという差はありつつも。そしてわたしは、後者の声に応えることができなかった。
『大丈夫なんか?』
記憶の中の声が、蘇る。
デスクを片付けているときに、声をかけられた。同じ課の、あれは
『すまんな。気がつかんかった』
いいんですと、わたしはあきらめて笑っていた。
当時製造業の営業課に配属されていたわたしの成績は、はっきりいってふるわなかった。最下位とまでは言わないまでも、常にその周辺をうろうろしていた。
教育担当だった
内気なことは、自分が知っている。それでも精一杯に笑顔を浮かべて、ハウツー本やセミナーで得たノウハウをいくつも試すのだけれど、契約に結び付かない。焦れば焦るほど所作はぎこちなくなり、「説明が分かりにくい」と、お客さんに面と向かって言われたこともあった。
よくある社会人の悩みなのかもしれない。けれどわたしはそれを、乗り越えられなかった。そしてそれを、わたしは誰のせいにもしたくなかった。持っていても仕方のない、それはつまらない意地だったのかもしれない。けれどわたしに巣食った劣等感は、自分の行いの原因を、周りに帰属させることを許さなかった。
デスクの中身を詰め込んだ段ボールを抱えようとすると、不意に市屋さんが横から手を伸ばした。びっくりしていると一言、「車か?」とだけ訊かれた。
「いえ、バスで帰ろうかなって」
「こんな段ボール持ってか?」
「家、離れてるので。タクシー代、けっこうかかりそうで」
恥ずかしい話だけど本音を言うと、市谷さんはひょいと段ボールを抱えて、ずんずんフロアを進んでいった。わたしの呼び声に、耳を貸さずに。
慌てて上司の机に向かい、お世話になった旨を伝えた。挨拶もそこそこに、市谷さんの後を追う。
フロアの人たちの好奇心のまざった視線が、わたしたちを追いかけていた。
社外に出ると、市谷さんは国道の片隅で、段ボールを抱えて立っていた。
追いついたわたしは、横に並ぶことになる。市谷さんは、無言で道行く車を
「あの、ありがとうございます。わたしはここまでで十分―――」
「他人のせいにせんとこは、いいことだと俺は思う」
わたしの声に被せて、市谷さんが言った。
その目は相変わらず、わたしではなく道路を見据えている。
「けどな、それと周りを頼らんことは、別物だと俺は思う」
「・・・・・・はい」
そうなのかもしれない。けれど気がついたら、わたしの周りには壁が出来上がっていた。入社当時は近しかった周りの人たち。わたしがもたもたしている間に、遠くに行ってしまった人たち。いつの間にか、話のネタにされるようになったわたし。
どこかで。どこかで誰かに相談すればよかった。きっとそうだろう。けれどわたしは、そのタイミングを逃してしまった。誰にどう話せばいいのか、分からなかった。
「すみません。最後までご迷惑をおかけして・・・・・・」
市屋さんは、何も言わなかった。轟音を上げて改造バイクが目の前を通り過ぎていく。顔をしかめていると、市屋さんが手を挙げた。
黄色い車体の、よく見かけるタクシーが、ウインカーを灯しながらこちらに向かって減速していた。
やっぱりか。
市谷さんなりに、気を遣ってくれたのだろう。わたしもバスで帰るのは本当はしんどかったから、出費のことはもういいとして、この気遣いはありがたい。
停車したタクシーがドアを開けると、市谷さんは段ボールを後部座席の奥に乗せた。
日に焼けた、褐色色の大きな手だった。お礼を言う前に、「乗れ」と言うように指を差すので、わたしは慌てて後部座席に乗り込んだ。
「これ、使ってくれ」
不意に手が伸びてきて、手のひらの中にあったのは、くしゃくしゃの一万円札だった。
「すまんかった」。小声だったが、太い市谷さんの声が、はっきりと耳に届いた。
驚いている間に、市谷さんはバタンとドアを閉めて、背中を向けて行ってしまった。
「お客さん、どちらまで行きましょうか?」
なかなか移動先を言い出さないわたしに、気を遣うように尋ねた白髪混じりの運転手さんに、わたしは今思い出したかのように、おずおずと自分の住所を告げた。
そういえば、あの頃は煙草なんて吸っていなかった。
日々の生活を立て直すのに精一杯で、けれど気がついたら、いつの間にか吸うようになっていた。まあ、いつまで経っても軽いものしか吸わないのだけど。
最後に市谷さんの言っていたことを、それからも今までも、何度か思い出していた。
他人のせいにしないこと、相談すること、不意に言われた「すまんかった」の一言。
ただの感傷で終わらせるべきじゃない。
それは分かっているのに、いつもそこで終わってしまう。
あのときわたしは、わたしの何かにきっと近づけていたんだ。
雨は変わらず、振り続けている。コンクリートを打つ音が、こころなしかさっきよりも強まってきている気がする。
雨粒が入り込まないように少しだけ開けた窓から、細い煙が
ずっと、わたしは何かを置き忘れてきたような気がする。
それが何かが分からない。いや、もう分かっているのかもしれない。
けれど、どうしたらいいのか、分からない。フツウになれない、わたし。
そんなとき、いつも思ってしまうのだ。
『擬態したまま、とけてしまえばいいのに』と。
市屋さんとは、それきり会うことはなかった。
その夜、また夢を見た。
いつもの、地下通路の夢。
土壁の中の、わたしとわたし。
わたしを見るわたしは、薄暗闇の中、少しだけ哀し気な表情を浮かべていた。
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