42.内情
久しぶりの給料日というと、何だか未払いの扱いを受けているようだけれど、もちろんそんなことはない。けれどわたしにとっての給料日は、いつも『久しぶり』だ。
まあようするに、困るほどではないけれど、そんなには余裕がないということ。
文字通りのウインドウショッピングにも、悲しいかな、思えばずいぶん慣れっこになってしまった。プラスチックの衣装ケースで出番を待っているのは、ああ、そういえば・・・・・・という時期に買った、量販店のものが大半だ。
世の中には不思議というか、どうしてそうなっているんだろうと思うようなことがいろいろあって、ここのスーパーも例外ではない。夕方になっても鮮度が落ちていないような、鮮魚コーナーのぴっかぴかのお寿司が、大量に残っているのだ。
とはいえ、そのスーパーは、我が家から少しばかり遠い場所にある。なので、わたしはそこを、普段使いしているわけではない。それに、そこはそもそもが、どちらかといえば高級志向な場所なので、そういう意味でも、わたしが普段使いするには向いていない店だった。
とはいえ、まったく行かないというわけではない。
もともと、わたしは肉よりも魚のほうが好きなのである。
そこでわたしは、時間さえ合えば、そこの刺身や寿司が半額になる時間帯に、こうして自転車を飛ばして、たまのぜいたくに
半額とあなどることなかれ。そもそも元の値段がけっこうはるし、油断してあれもこれもとかごに入れてしまうと、わたしの一回の買い物よりも高くつくこともある。
半額タイムが近づいてきた。気配で分かる。寿司コーナーの周りでそわそわとカートを引きずる主婦、サラリーマン、ご老人、その他の群衆の中に、そういうわけで今日のわたしは紛れているのである。
狙いは一パックだけ余った、海鮮寿司(上12巻)だ。もちろん素の状態で買ってもいいのだけれど、情けないことに、そこまでの勇気がない。
そのかわり、ここで手に入れば、飛び切りのごちそうだ。ここのお寿司は、夕方になっても十分鮮度がいい。ほぼ同じ品物なら、安く買ったほうがいい。
無論、この場には同様のライバルが、既に大勢いる。今日の競争率は、高い。
以前のわたしなら、ひとえにそれをケチだと笑い飛ばしただろう。けれど実家を出てお金の重さを痛感した身としては、逆に過去のわたしに説教をしたい。
さて、
「あ・・・・・・」
なんとなんとだ。大勢の群衆が見守る中、一人のカッターシャツの男性が、あろうことかその最後の1パックを、ひょいと買い物かごに入れてしまったのだ。
しかも、その男性というのが・・・・・・。
(あれ、宮原さんじゃん!!)
周囲の非難の視線に一切気づかず、今度は総菜コーナーに向かっている彼の横顔を見て、わたしは驚いた。以前目にしたときよりも日に焼けて、心なしか疲れた様子だったが、編集者という職業柄か、その足取りは、どこか力強くて軽い。それとも学生時代に、何かスポーツでもやっていたのだろうか。
改めてみれば、長身というわけではないけれど、引き締まった体つきをしている。
年齢は、力強さより利発さを感じさせるその横顔は、わたしより少し上か、30歳くらいの年齢を連想させる。
そしてその宮原さんの、きりっとした眉と視線の先には、パックに入った焼き鳥がある。
特に親しいわけでもないし、別に無視しても良かったのだけれど、特に悪い印象を持っていたわけでもないので、声をかけてみることにした。
「あの、こんばんは」
「あ、はあ、こんばんは・・・・・・。あ、鈴原さん・・・・・・でしたっけ?」
「はい。いつもお疲れ様です」
ただの地味な派遣なのに、顔と名前を覚えてもらっていることに驚いてついそれを口にすると、「名前が珍しかったので」と口角を上げる。またそれか、と、内心苦笑する。
まあ、「鈴原」という姓もけっこう珍しいけれど。
「宮原さん、この辺りなんですか? 全然お見掛けしなかったですけど」
「ああ、いや。K市なんだけどね。担当の案件でこっちに行かなくちゃならなくて、夕飯食い損ねてさ」
「ああ、それで」
「鈴原さんは、この辺なの?」
「少し離れてます。ここは、たまに来る程度です」
まさか、半額のお寿司目当てだとは言えない。
宮原さんはそっかと言って、手元の総菜コーナーに向き直る。
潮時かな、と思っていると、宮原さんが口を開いた。
「鈴原さんも、大変みたいだね。本来の契約じゃないんでしょ? 校正」
どうやら、編集部内では知られている話らしい。まあ、当たり前か。
「契約外ですね。でも、文字は好きなほうだったし、都築さんや須藤さんのおかげで、今はけっこう楽しんで、というか、やりがいがあります」
そっか、と宮原さん。その脇から手が伸びて、残り4パックだったうちの焼き鳥の片方をスーツ姿のおじさんが手にして、一瞬宮原さんが渋い顔をした。
あ。ふと気づいて、時計を見ると、8時前だった。
「宮原さん」
「ん?」
「あと5分くらいで、お寿司半額になりますよ。あと、お惣菜も2割引きになりま・・・・・・」
ついつい言ってしまってから、猛烈に後悔した。
これじゃあまるで、(良いか悪いかではなく)年季の入った主婦みたいだ。
案の定宮原さんは、きょとんとしている。引かれたら最悪だと内心頭を抱え込みそうになっていたけれど、返ってきたのは「マジですか! それはいいなぁ!」という、明るい声だった。
「すみません、いきなり変な話で・・・・・・」
「いやいや、そんなことないよ。最近、独身貴族だからって趣味で使いすぎちゃってたからね。学生のときに逆戻りして、貧乏生活送るはめになっちゃ、
まあ、勝手に趣味に貢いで苦労しただけなんだけどねと、宮原さんは言い添えた。
焼き鳥を見やりながら、「あ」という顔をする。
「俺、もうこれ持ってきちゃったよ。 割引してくれるのかな、こういうの」
例の、2割引きシールの貼られたお寿司だ。
「正直、このタイミングだと周りにいい顔はされないでしょうけど、持っていけばしてはくれますよ。たまにそういう方もいらっしゃいますし」
少しだけ会社を意識して丁寧語を使っている自分に気がつきながら、誰のものかも分からない『内情』を紹介した。
「いい顔はされない」というのは、二重の意味でだ。
一つは、スーパー側の要因。誤差の範囲のようなものだろうけど、単純に、売り上げが減るからだ。気さくに割引してくれる人もいるけど、中には、あからさまに嫌そうな顔をする人もいる。
もう一つは、周りのお客さんの要因。こうした『取り置き』のような行為は、暗黙のルールというべきか、例えば本屋さんのようなところと違って、ほとんどの人がしない。なんとも日本人らしいとでもいうか、周りに集まってはいるけれど、建前上、周りを出し抜くということをしない。
宮原さんは、感心したように耳の裏を
「迷うねえ。仕事終わってまで、変な気使いたくないしなぁ」
「まあ、ですよね」
「惜しいことをしたけど、これはこのまま買うよ。まあ、こいつは、割り引いてもらうけどね」
焼き鳥パックを小さく指さして、いたずらっぽく笑う。どことなくクールな人だという印象だったので、意外な表情だった。
そうしているうちに、通用口から黄色いシールを手にした店員さんが現れた。
「あ、じゃあわたしはこれで。お疲れ様です」
「お疲れ様です。 明日からもよろしく」
会釈を返して、足早に鮮魚コーナーに急ぐ。
これでは半額目当てがバレバレじゃないかと気がついたのは、帰宅して「本日のオススメ(8巻)」を前にして、コップに麦茶を注いだときだった。
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