第四章

31.前かご

佑都くんと会うことなく、自転車を押す。

車輪のからから音。空っぽの前かご。

地面の出っ張りに乗り上げたとき、少しごわついた気がしてタイヤに触れたけれど、空気はまだ入っている。顔が地面に近づいて、草のにおいが少し強くなる。

額を上げれば、汗がひと流れ。


紙には良くないだろう梅雨の時期を、昔の人も嫌ったのかもしれない。

今日のところは、大丈夫そうだけど。


群生しているクローバーを元気よく踏みつけて、

わたしの斜め前を、柴犬が散歩している。


飼い主さんからもらった自由時間を満喫して、地面に夢中。

あんなに匂って、鼻に土が入ってしまわないんだろうか。

ついと目が合った気がして、がらにもなくひらひら手を振ってしまった。

結果、チラ見はしてくれた。うん、元気だね。


とはいえもうちょっと気に留めてほしい気になっていると、兄弟らしい子どもが、前から走って、すごい勢いで横を通り過ぎて行った。

よそ見は危ない。前を向こう、前。せめて、物理的にくらい。


良く晴れた公園。人口だけど、まあまあきれいな池。

地面にはハト。ベンチの上にもハト。まるでハト用だ。

視線を移せば、ブロックの上でカメが甲羅干し。

日焼けを気にしなくていいなら、ベンチで図書館の本でも広げたくなる。


わたしはけっこう、こういう風景が好きだ。何もないところに何かがあります、みたいなことをちょっとまじめに言いたくなるような、こういう穏やかさが。


「んー・・・・・・」


なんだか、降参だ。自転車を止め、空いていた木のベンチに座る。

半袖Gパンという絵に描いたような休日の格好だけど、こういうときは楽でいい。


並んで真正面を見据えるカメたち。何を見ているのやら。

前だ、前。おお、わたしより偉い。


とまではさすがに思わないけれど、変なチェーンスモークをしたときのような、身体がどろっと重いような感じが増した。

失敗したときの、血が引っ張られていく感じとはちがう。こぼしたものが布地に落ちてしみ込んで、じわじわ広がってくるというか。

自分相手でも、ブラックジョークが過ぎたというところか。


「7割・・・」


いいや、8割以上か。もう来ないだろうなと、思ってはいた。

わたしが何か役に立つというわけでもないし、わたしが引き出した話題なのに、お互いに気まずい時間が長引くだけだし。

まあ仕方ないよねとか、そんなもんだという思いの裏で、何かが軽くざわついている。わたしについていえば、さっき返した紙の本が、本当にただの紙の本になった気分。


「自分のことに集中しなよ」


姉の冴香さえかから、中学生の時に言われた言葉。


「なにそれ。どういう意味よ?」


わかった顔されるのが大嫌いなくせに、そのくせ一番わかりやすかった頃。

わたしが勝手にすねてみせると、高校生の冴香は真面目な顔で言った。


「他人のことは他人のことってこと。身の程を知ること。あんた、ぼんやりしたまま、勝手にいろいろ持って帰るとこあるから、忠告」


「わたし、犬じゃないんですけど・・・」


高校生でこんなことを言い切るあたり、冴香らしい。言い切ってさっさと階段を上がっていく姉の後ろ姿に文句を言うと、ひらひらと後ろ手を振られて、ぱたんと扉が閉じた。そういえば当時、わたしは進路に悩む、受験生だった。


「・・・・・・成長してない」


柱時計の針は、もう4時を過ぎている。長居してしまった。

つまりはそういうことで、ようは、姉はあの頃から聡明そうめいで、わたしは姉のいうところの「ぼんやりん」だったわけだ。



「せっかくの、休みが・・・・・・」


スマホを切って、思わずため息が出た。


憂さ晴らしというほどでもないけど、くさくさした気分をなんとかしておこう。

とはいえ、お金の動きは夏場に備えて、控えめにしたい。

自転車は戻して来てもいいけど、そのまま家に帰って自炊ものという気分でもない。

適当な目当てを見つけて少し遠出していれば、そのうち早い夕食の時間帯くらいにはなるだろう。


ベンチで久しぶりに、「ミステリーショッパー」もとい、覆面調査員の募集サイトをチェックした。普段使いというものではないけど、ちょっと外で食べたいというような、こういう、思い出した頃に役に立つ。

いちおう文章に関係する仕事の経験はしているので、簡単な評価レポートを書くだけで何割かの代金を実質負担してもらえるなんて、文字通り美味しい仕事だ。


ただし。

世界はわたしのためにあるのではない。当然、当選枠もわたしのためにあるのではない。

応募していた案件はことごとく落選。近場どころか、電車で2駅3駅の範囲内でも、新規受付中の案件がない。


立地的にはほとんど目の前に、行けば何度目かの、ジェルモーリオが立っている。

まだ明るい陽を浴びた赤色の屋根。真っ白な壁は開店1カ月以上過ぎた今、時間はたしかに経った感はするけれど、ほとんど変わらず白いままだ。

風に乗ったビニール袋のように、ぼんやりゆるゆる自転車を漕いで、近づいてみる。

いつの間にかできたのか、それともわたしが見落としていたのか。

入口の傍ら。茶色の鉢に、アジサイや百合ゆりの花が咲いている。


6月。去年のわたしを思い出そうとしたけれど、特に何も思い浮かばない。

たぶん、慣れないことばかりで右往左往していたんだろう。


ホワイトボードの内容(今日のお勧めは、ベリーのタルトだった)にも、正直ちょっとかれる。とはいえそもそもが、夕食を外で済ませたいという話だったのだから、こんな時間に中途半端に入店しても仕方がない。だいたいここのディナータイムは17時からだし、そんな時間に食べたいというわけでもない。


まあ、コーヒーくらいはいいか。

そう思っていると、横から大学生風の女の子の集団が通り過ぎて、さっさと入店してしまった。店内に空きはあるけれど、明るさ満点の彼女たちのテンションは、今のわたしにはちょっとそぐわない。というか、合わない。まぶしすぎる。


あきらめて帰ろうと自転車にまたがると、鼻の頭にぽつっと一滴。

嘘、と見上げれば、半分本当だった。どうやら、まさかの天気雨らしい。


まあ、いいや。

前回の帰り道、じつは家までの近道を見つけていた。

民家の裏側。川の横を通る道で、広くはないけれど、軒先に玉ねぎが干してあったりもして、意外に楽しい道だった(ちなみに、すごく眼がきれいなネコがいた)。


こういう小さな変化は、楽しい。

思えば自分のご機嫌取りには、わたしにはこのくらいのことでもちょうどいいのかもしれない。同意するように、どこからかカモの鳴き声がした。


小雨の中でちょっと目を凝らすと、熱心に草を食んでいる茶色の雌カモと、それを後ろで待っているかのような、緑の頭の雄カモ。なんだか奥さんの買い物に付き合って待っている人間の旦那さんのようで、いじましくて、ちょっと笑ってしまった。


けれどその癒し効果は、1分後には帳消しになってしまった。





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