10.願い

「何やってんだろ、わたし」


 というせりふを、この十日、一日十回は言っている。

いや、正直に言うと、一日三十回くらい、言っているかもしれない。


 中途半端に身をなくしたほっけの湯気が、だんだん小さくなっている。


 脂湧き出るまっ白い彼の目は、食うなら食うで、さっさとしろよと言いたげである。というか、みそ汁も米も同じことを思っているはずだ。擬人化すれば。


「どうするんだよおう・・・・・・」


 そう。わたしはあれから、悩みに悩んでいる。

あの男の子に、何を「お礼する」のかを・・・・・・。


 残り時間があと五分なら、むだに悩む時間が少ない分、むしろそっちのほうがいい。あの子と会う日まで、あと三日ちょっと。下手すればその三日間のぎりぎりまで、わたしは頭を抱えなくてはいけないのだ。


 赤〇をつけた卓上カレンダーには、「12日」と並んで「先負」の文字。

職業柄か培った勘か、ふと気になって辞書をめくってみる。「先んずれば即ち負けるの意」、つまり、あまり急いではかえって失敗する日だという。


 じゃあ、どうしろと?どちらかと言わずとも、万年、心配性。明日は明日の風が吹くなんて言葉とは、まったく縁のないわたしだ。


 昨日は雨だったけど、今日はからっと晴れていた。

洗濯物も、あとで取り込まないと。たぶん、乾いているはず。


 少し肌寒い風の中で、だんだんと日の光の色が濃くなっている。

温かさはこのまま続き、一か月かそこらすれば、雨の季節だろう。

 わたしの心は現在、早くも曇り時々雨模様だ。


 プレゼントというものを渡すのは、大学生のとき以来だ。

例によって、少ない機会のどれにしても、あんまりいい思い出がない。

 そして、社会人になってからは、そんな時間も、機会もなかった。


 だから、この緊張感は久々だ。

 中高生や二十歳はたち過ぎならともかく、疲れている一人暮らしの社会人には、ちょっとしたオーバーワークだ。


 とはいえ、仕事はさすがに終わらせている。

突然の入稿の電話でもない限り、よくもわるくも自由時間だ。

決めるしかない。けれど。


「どうするんだよおう」


 またしても、情けない声がでる。


 ふぬけという言葉があるけど、今のわたしはまるで、水を吸い過ぎてずくずくになったおが、ぐずぐず、おんおんとわめいているかのようだ。


 たぶんわたしは、たくさん見てきた、距離を置いた笑顔を吸い込んだまま、まだ、おろおろしたままなんだろうな。


「初心、忘るべからず、か・・・・・・」


 緑茶の紙パックをつぶして、つぶやく。


 なんだかんだ、わたしはけっきょくこの言葉に行きついている気がする。


「努力は必ず報われる」なんて、今更信じていない。


 その言葉が正しいなら、じゃあ、吐いて倒れて這って、けっきょくどこにも報われなかったわたしは、「努力」していないことになるから。


 違う。わたしは、期待することをやめた。

期待することは、とてもこわいことだと、知ってしまったから。


 夜が、わたしがあの時間が好きなのは、ひとりでいるわたしが、ぷかぷか浮かんでいられるから、かもしれない。


 でも。また、思い出す。


 ふわりと、図書館の紙の匂い、色とりどりの折り紙の色を思い出す。

そして、あの男の子の、あの横顔も。


 べつにあれこれ悩むことに対しては、自分のことながら否定する気はない。

 でも、あの子に対して、こんな悩み方をいつまでも続けているのは、ちがう気がした。いろいろ登れない、上手くできないわたしでも、それはたぶん本当のことだ。


 時刻は、もうすぐ十八時半。ググってみたら、そう遠くない距離に、たぶん大丈夫そうなお店が見つかった。


 よしっ、と活を入れて立ち上がる。


 大丈夫だ、わたしは死刑執行人(の夢)くらいじゃ、もはやどうじない女だ。

それに何より、最近は集団の中で、前のような思いをしていない。


 少しだけ「活」の方向性が、明後日の方向になっている気がするけれど。


 でも、考え過ぎて、一昨日みたいにタバコで指を焦がしてしまうよりはマシだ。

さすがに夜のあの時間くらい、ゆっくりしていたい。


「まあ、ダメだったら売るか・・・・・・」


 なにせ、「先負」だからね・・・・・・。

知らなければよかったことほど、だれも教えてくれない。不可抗力で自分でみつけて、ぎょっとするんだよ。


 それに、以前もそうだし、ましてや最近の男の子の考えることなんて、ぜんぜんわからない。


 それでも、わたしにしては早めの決着をつけて、夕飯を済ませ、スニーカーを履く。


 自転車は、じつはめずらしく気が向いて、きしんでいた部分を修理してもらった。

空気もぱんぱんに入れてもらったので、ペダルは軽い。


 ふと見上げた夕方の空気は、いつもより澄んでいる気がした。

そしてわたしは、はじめていくお店に向かった。


 あの子に出会わなければ、行かなかった場所。

ふとそんなことを思って、ちょっとだけ微笑わらった。


なんだか変わった一日だった。何かの予兆だったりして。でも、何の。

まあ、いいや。もうすぐ、わたしの相棒、「夜」だしね。













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