9.鍵
「あの・・・・・・。本・・・袋、ないんですか?」
「・・・はい・・・」
とっさのことというより、のぞき見した後ろめたさで、なぜか敬語になってしまう。そんなわたしの心中などつゆ知らず、男の子がバッグから何かを取り出す。
あ、袋。なんか大きいビニール。あれって、指定ごみ袋じゃないか。
「えと、その袋・・・」
べつにこちらに悪意はないのだけど、言わんとするところはだれでもわかる。
男の子の頬があかに染まり、視線はうつむいてしまった。
「ボク、いきなり雨降る日もあるから、入れてるんです。今日、前のやつ破いちゃって・・・・・・」
ああ、それで。
たぶん、出かけるときに、今回だけと、適当に持ってきたのだろう。
それでもって、雨が降ったら本を袋に入れてバッグに入れるか、バッグごと本を袋に入れて帰るのだろう。
なるほどね。ごみ袋にするかはともかく、参考にしよう。
「・・・ありがとうね。でも、それ、お金払って買う袋だよね? うれしいけど、受け取れないかな・・・」
「あ。これ、前に住んでた町で使ってたやつの余りなんです。ここじゃ使えないから」
子どもに対してかがんで話すと、大人のような返しがかえってきた。
なにこの子、わたしよりしっかりしてないか。
例によってあっけにとられていると、いつの間にかわたしの手には、袋が置かれていた。というか、ちゃっかり受け取っていた。このままで終わってはいけないと、わたしの中の大人の部分が声を上げる。
「ちょっと待って! ねえ、きみ!」
駐輪場で、自転車の鍵を外していた男の子が、きょとんと振り返る。
頭をかすめた考えをいったん追いやって、わたしは言った。
「返却・・・本、返す日、一緒でしょ? 今度、お礼するよ!これも返すから!」
しまった、とは思った。困るよね、こういうの。実際、男の子の顔には、はっきりと
ああ、こういうとっさの間の悪さ。律儀なのか、珍妙なのか。
すぐ
いろんな意味でため息を吐いたとき、図書館から出てきた親子と視線が合った。
意味もなく会釈して、そそくさと出てい・・・きたいところだけれど、わたしの自転車も鍵がかかっていて、こちらは二重ロックだ。焦っているから、鍵穴に鍵が入らない。無駄にガチャガチャいわせて、これじゃ、自転車泥棒だ。
と思ったら、わたしが差し込もうとしていたのは、同じキーホルダーに下げた、家の鍵だった。けっきょくいつもどおりに鍵が外れたとき、立ち上がったわたしは、さっきの子のことを思い返していた。
図書館の入り口は左右に開かれていて、歩道と図書館を区切っているのは、自動車2台分くらいの長さの花壇だ。なので、あの子が自転車でどちらに曲がったかもわかる。左だった。
その左に曲がるとき、減速しているあの子の横顔は・・・
気のせいかもしれないけど、うれしそうだった。でも、なんか単純な、「お姉さんと話せてうれしい」とか、そういうのじゃなくて。
なんか、ちがう感じがした。
ほんっと、うまく言えないし、ほんとに気のせいかもしれないし、そもそもあのお辞儀が「はい」なのか「ごめんなさい、遠慮します」なのかもわからないんだけど。
けど、「お礼」の支度は、何かしらしておこうと思う。子どもうんぬんの前に、ひとさまに借りたものは返すのは礼儀だろう。
正直、指定袋に本を入れて自転車をこぐのもけっこう恥ずかしかった。いつものジャージ姿ならまだしも、さっさと済ませるつもりだったから、今日はいちおうそれなりの「仕事着」だ。
はっきり言って、ちぐはぐだ。そもそも自転車とスーツからしてどうなのかとも思うけど、輪をかけてちぐはぐ度が増している。実際、信号待ちのたびに、隣のひとの視線が痛かった。それでも、嬉しかったんだ。
紛らわしい鍵を差し込んで、帰宅。
予定外のことが多くて、もう夕方に近い時間だ。
自由時間は少し減ってしまうけど、べつに普段たいしたことをしているわけでもない。お昼に行った「ジェルモーリオ」の記事は、今日中に書いて送って、いつもどおりの時間に眠ろう。
自分にとって満足度の高い店は、わたしからしても書きやすい。
そこまで考えて、慌てて昼間のことを思い出す。いろいろありすぎて、こんなことまで忘れそうになっていた。
三種の焼き菓子はプレーンと、ピスタチオのクッキー、そして小ぶりのマドレーヌ。クッキーはサクッとして、プレーンは小麦の香りが香ばしかった。ピスタチオも香りが香ばしくておいしかったけど、わたしとしてはプレーンを推したい。
アイスコーヒーと迷ったフレッシュオレンジジュースも、これまた推しだ。
すっきりしているのに味がとても明確で、身体全体にオレンジ色が飛び込んでくるようだった。
小麦と果実。太陽も悪くないと思える味。
これからこの記憶に、言葉という、わたしの味付けをする。
出遅れたとはいえ、今日の睡眠時間は、べつに削れはしないだろう。
今日は去年とちがって、寒いのか温かいのか、よくわからない。
でも、「よくわからない」って思えるのは、健康な証拠だ。
少なくとも今は、あの頃のわたしじゃない。その証拠だ。
ラップにくるんで冷凍していたご飯を温めようとして、あの子の声を思い出した。
まだ小さく、まだ高い、あの声。あの子のちいさなやさしさに、とても響き合う声だった。
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