25:エマ・ラザフォードの長い一日
◆ ◆ ◆
まだ太陽が顔を出したばかりの早朝。
侯爵令嬢エマ・ラザフォードはふと目を覚まし、長い睫毛を震わせた。
青緑色の瞳に映るのは豪華な天蓋だ。
手や首元に触れる毛布の感触は柔らかくて気持ち良く、眠気を促進する。
何かと口うるさい両親がいないのを良いことに二度寝を決行し、侍女のベネットに揺り起こされるのが別荘暮らしのエマの毎朝のお約束と化しつつあったのだが、今日は珍しくすっきりと目が覚めた。
昨日から両親が別荘にいるせいで気合が入ったのか。
それとも、昨日想い人と久しぶりに会えたことで脳が興奮状態にあるのかもしれない。
(……正装に身を包んだユリウス様、とってもとっても格好良かったー!!)
大きな寝台に仰向けに寝転んだまま、両手で顔を覆って身悶える。
初めて会ったとき――去年の秋に行われた夜会でも彼はクラヴァットを締め、首元に琥珀をつけていた。
昨日彼が首元につけていたのは琥珀ではなくサファイアだったが。
(……でも、昨日のユリウス様の態度は事務的だったわね)
冷静さを取り戻し、エマはぱたりと両手を寝台に落とした。
酔っ払った大公爵から助けて貰った後、パーティーや夜会でユリウスを見かける度に、エマは密かにその姿を目で追っていた。
彼がいま本気で笑っているのか愛想笑いなのかくらい区別はつく。
昨日の彼は内に秘めた感情を表に出すことなく、伯爵子息として、終始丁寧に誠実に対応していた。
お茶会の前にユリウスと挨拶を交わした両親は見目麗しく、社交術に長けた彼を非常に気に入ったようだった。
それは大変喜ばしいことではあるのだが――エマとしては、それで終わっては困るのだ。
(王家とも姻戚関係にある名門ラザフォードと繋がりができたことは、エンドリーネ伯爵家にとって大いに益になるはずよ。ユリウス様のお役に立てたのならこんなに嬉しいことはないわ。でも、私の役割はそれで終わりなの……?)
きゅっと唇を引き結ぶ。
貴族令嬢として生まれた以上、政略結婚は世の習い。
でも、できるならば結婚相手は彼がいい。
彼以外は考えられないほど、エマは彼に夢中なのだ。
――さあ、行って。
巧みな話術で酔っ払った大公爵の気を引きながら囁かれた優しい声と、震える自分の肩をそっと押した優しい手の感触を、エマはいつまでも忘れられず、輝く宝石のように胸に抱いている。
(ユリウス様は私のことをどう思っておられるのかしら。世の中には自分の子どもよりも年の離れた女性と再婚するような男性もいるんですもの、四歳差くらいどうってことはないわよね。私は小柄だったエリシアより背が高いわ。胸の大きさは……。負けるけれど……)
ユリウスを捨てて逃げたエリシアは小柄ながら胸が大きかった。
(ユリウス様は豊満な女性のほうがお好きかしら。胸の小さい女性はそもそも恋の対象外だったらどうしよう。薄茶髪に青緑色の目と、私とエリシアの髪色や目の色がよく似ているのも大きなマイナスポイントよね。どうしたってエリシアを連想させてしまう。目の色はどうしようもないけれど、思い切って髪を染めてみようかしら。ユリウス様はどんな髪色が好きかしら……って、何故朝から私はこんなことで悩んでいるの……)
気づけばいつもこんな調子で、エマは寝ても覚めても彼のことばかり考えている。
身体にかかる毛布をめくり、エマは起き上がった。
細やかな刺繍が施されたカーテンを開き、寝台から下りようとして――そこで固まる。
「おはようエマ・ラザフォード」
小花模様が描かれた水色の壁紙。花の模様のシャンデリア。見慣れた調度品。
間違いなくここは自分の部屋で、ここには部屋の主たる自分しかいないはずなのに、寝台の横の木製の椅子に見知らぬ魔女が座っていた。
腰に届く濡れ羽色の艶やかな髪。
白銀の《魔力環》が浮かぶ印象的な銀の瞳。
年の頃は二十歳を少し過ぎたくらいか。
すらりとした細身に纏うのは真っ黒なローブ。
胸元には金のプレート――『大魔導師』であることを示したペンダントを下げている。
彼女は真っ黒なとんがり帽子を頭に被り、典型的な――おとぎ話に出てくるような魔女の格好をしていた。さすがに箒は持っていないが。
彼女の右耳の傍には金色の魔法陣が浮かんでいる。
どうやら何らかの魔法を使っているようだ。
「まずは挨拶をしよう。私はドロシー・ユーグレース」
「ド、ドロシー・ユーグレース……?」
声が震えたのは、彼女の数々の伝説を知っているからだ。
気に入らない人間を醜い蛙に変えた。日照りが続く村に雨を降らせた。
戦争を終わらせた。はたまた国を滅ぼした。
真偽のほどは定かではないが、とにかく彼女に逆らったら終わりだというのは幼児でも知っている。
「先に言っておこう。滞在中の君の両親を含め、この屋敷の住人たちは全員私の魔法で眠っている。それでも叫びたいなら存分に叫べ。敵対行為も許そう。限られた時間を浪費するのは君の自由だ。気が済むまで暴れたら私の話を聞け」
悠然と長い足を組み、彼女はまるで世界を統べる女王のような口ぶりで言った。
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