24:嵐の予感

(特に今日も異常ないみたいね)


 酔っぱらいの喧嘩や男女の口論程度の光景は日常茶飯事であって、事件とは呼べまい。


(魔獣の反応も無しっと。うん、今日もよく眠れそう――)


 最後にエンドリーネ伯爵家の周囲をざっと視て終わりにしようと思ったそのとき、丘の下の道で気になる人物を見つけた。


 黒いフードを被ったその人物は、体型からして小柄な女性のようだった。


 降りしきる雨の中、彼女は赤い傘を差し、外灯の下でエンドリーネ伯爵邸を見上げている。

 ――初夏の新緑のような、エメラルドの瞳で。


(……ちょ……っと。待てよ?)


 外套のフードから零れる髪は薄茶色。

 視点を切り替えて彼女の顔を確認し、ルーシェは驚愕した。


(……エリシア・レネル!!)


 右目の下の黒子。整った目鼻立ち、薔薇色の唇。

 絵が命を吹き込まれて動き出したのかと錯覚するほど、彼女はノエルの描いた絵そのままの姿でそこにいた。


 彼女は数秒、伯爵邸を見上げた後で歩き出した。


(どうしよう、行っちゃう――いや、大人しくこのまま去ってくれたほうがいいのかな?)


 観察していると、彼女は通りを歩き、貴族令嬢が泊まるには全く相応しくない安宿の扉の先へと消えた。


 宿泊先が突き止められたのなら十分だ。

 ルーシェは『遠視』の魔法を解除して飛び起きた。


(見なかったことにするべき? それとも誰かに報告するべき? でも誰に? ノエルは絶対に駄目よね、怒りで我を忘れそう。ユリウスは多分二度と彼女に会いたくないはず。ジオ……も、エリシアがこの街にいるなんて報告したら怒るわよねきっと。でも、黙ってたら黙ってたで、なんでオレに教えなかったって、後で果てしなく面倒なことになりそうな気が……絶対不機嫌になる……数日は口利いてくれなくなるよなあ……)


 片手で頭を抱える。


(うーん、仕方ない、ジオにも話そう。セラとリュオンにも)


 ルーシェは部屋着のまま靴を履き、廊下を歩いてセラの部屋の扉をノックした。


 エリシアを見かけたことを話し、セラと共にジオやリュオンの部屋に行ってみたが返事はなかった。


「……まだサロンで話をしてるのかしら……」

「ユリウスとノエルもいるのかな。出来れば彼らには話したくないんだけどなあ……」

 サロンに行くと、男性陣は全員が起きて談笑していた。扉越しに声がする。


「どうしよう? とりあえず部屋に戻って三十分後くらいに……」

 廊下でセラと相談していると、急に扉が開いた。


 中から現れたのはジオとノエルだ。

 この二人は軍人だからか、異様に勘が鋭い。扉を隔てていようと人の気配にすぐ気づく。


「どうしたんだ? 二人して。眠れないのか?」

「いや、あの、まあちょっと――でも寝るわ、お休み」


「――何があった?」

 ジオは立ち去ろうとしたルーシェの腕を掴んだ。


 表情に出したつもりはなかったのだが、ジオはルーシェが問題を抱えていることを一目で察知したらしい。


「いや、なんでも」

 隣にノエルがいる状態ではとても話せない。


「なんだよ。言えよ」

「――こっちに来て」

 仕方なく、ルーシェはジオだけを連れて廊下の端に移動した。


 事情を打ち明けると、ジオは怒りを通り越して呆れたような顔になった。


「見間違いじゃねーんだな?」

「多分……ノエルの描いた絵にそっくりだったもん」

「そうか。まあ、意味ありげにこの家を見てたって時点でエリシアだよな……」


「――いまの話は本当?」

 音もなく、気配もなく。


 いつの間にかノエルがすぐ傍にいて、ルーシェはぎょっとして一歩足を横に踏み出した。


 てっきり怒り狂うかと思いきや、ノエルは何の感情も浮かべていない。全くの無。だからこそ不気味だった。


「えっ。な、なんで。聞こえる距離じゃ――」

 狼狽して言う。


「ぼくはセラより目がいいし、セラよりよほど正確に唇の動きを読めるんだよ。それより詳しく教えて」

 平坦なトーンで彼は淡々とそう言った。

 

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