梱包材と肌の色

鍍金 紫陽花(めっき あじさい)

第1話

 私は空になった食器を台所まで持っていく。母親は私の食器を洗うことに意識を向けていて、気が付かない様子だった。

 存在に気づかれるよう、隣に置いた。

 母親は顔を上げ、私に聞いてくる。


「優斗、バイトは何時から?」

「もう出るよ」

「送っていこうか? マサキの通院もあるし」

「兄ちゃんの病院ってそんな遅くまでやってるの」

「その時間しか予約できなかったの」


 カバンのプリントをテーブルに投げる。紙が滑っていき、兄の飲み残した薬で止まった。私はその数を目で数えていき、彼がどれだけ正常になるのを放棄したのか見て取れた。


「いい。自転車で行くよ」


 私の自転車は兄のお下がりだ。以前は、高校通学に使っていたらしいが、上京してからは私の物になっていた。

 私は身支度をして家を出る。



 バイトは居心地が良かった。私という存在が希薄になる。店員というキャラクターに徹しているだけで、人の求めるサービスを提供できた。バイト以外の私は正確な答えが分からない。将来をどう進めるのか、兄とどう接したらいいのか分からなかった。同じ道をずっと歩いているような終わらなさが息苦しい。バイトの時間だけは呼吸しているような気がする。

 そうして、バイトの時間は終わった。チーフがレジで売上を記入している。着替えに向かう途中、先輩が呼び止めてきた。


「マサキ弟。おつかれ」

「ゆうとです」

「事実、お前のアニキだろ」


 私は聞こえないふりをして、ロッカー室に来た。それでも、先輩は私に対して声がけをやめない。


「マサキさんはどんな感じ? 元気にしてるかな」

「まあ普通ですよ。帰ってきた頃と変わらないです」

「それって悪化してるんじゃない? 俺、噂で聞いたんだけど、鬱の人に頑張れとか言っちゃダメらしいよ。マサキ弟言ってるんじゃない?」


 私は兄の近況を教えてくれと周りから聞かされる。心配してくれる人もいるとは思うが、先輩のような好奇心を隠さない人もいた。田舎は噂話が一瞬で拡散される。こういったやり取りを聞いているたびに、どこか行きたいと強く願ってしまう。


「あまり会話とかしないですよ。なんか、察してくれオーラ出てて、誰も近寄ってないです」

「うーん。あのマサキさんが、鬱ねぇ。まだ信じられねぇよ」

「先輩の知ってるアニキはもういないです」

「俺の知ってるマサキさんは格好よかったんだよ。なんて言うか、男の中の男だったね。女にもよくモテてたよ」


 皆が、兄の過去に縋っていた。良かれと思って、女性を紹介しようと訪ねてきたり、宗教の勧誘が現れる。俺と親父は門前払いするけれど、母親は人が良いから家に招いてしまう。そういったストレスが積み重なっていて、私たちの家は兄の鬱という重みを抱え込めなくなっていた。


「お疲れ様でーす」


 私はバイトから帰っていく。自転車の鍵を回し、ハンドルを握った。跨って、ペダルを回す。風が肌にあたって、ぬるま湯のような暑さを感じさせた。もう鼻先まで夏が来ている。視界の先に、散った桜の道がある。兄は窓を見ないから、季節も掴めていないのかもしれない。

 先輩の世間話が、私の心を予想よりのしかかっていた。一言が頭の中で復唱されて、嫌な気持ちを再現していく。

 私と兄は関係が悪かった。兄は、古典的な田舎の男性。彼女を作ることに邁進し、他の男性と優劣をはかる。仲間と認めた男は優しく接した。彼は人の話をよく聞けたから、周りに人が集まっていたのだろう。彼は地頭も良かったから、東京の大学に進学。そこで就職し、今に至る。

 兄は私のことをどう思っているのかは、知らない。私にわかるのは、兄が家を出ていったとき、静かになったという安堵感だ。騒がしい音が苦手だったから、よく眠れるようになった。

 考え事しながら、私は自転車をこぐ。すると、前方のライト先に人影が見えた。慌ててブレーキを押す。手元のハンドルを右に切った。突然動かしたから、体は右折についていけない。


「やばいやばいこけるこけるこける!」


自転車から身体が投げ飛ばされてしまった。肘から落ちて、私の肌は擦りむけた。熱湯を当てたような痛みが身体に広まっている。自転車のライトが足元を照らしている。そこにレジ袋が風に乗ってきた。人影ではなく、ゴミが私を嘲笑うように過ぎていく。


「何してるんだろうな」


 体が痛くて泣きそうなのに、心は冷えきっていた。


「はー……コンビニ寄ろ」


 そのまま自転車を漕いで、私はコンビニでアイスを買った。自分の機嫌を取るために、お菓子が必要だ。

 片手にぶら下げながら帰宅する。明日の授業はオンライン授業だから家で過ごさないといけない。

 私は鍵を回して家に入る。すると、兄がトイレから出てきた。


「あ、兄貴」

「ゆう……」


 久しぶりの兄貴は、廊下のライトに照らされて、顔の影が濃ゆくなっていた。髭が伸びて、怒っているようにも見える。


「おかえり」

「ただいま」


 私はなるべく平穏を装う。昔のいらだちが振り返す前に、退散したい。

靴を脱いでリビングに進む。扉を開けて、買い物をテーブルに並べていくと、袖を引かれた。


「そで、汚れてる」


 兄が私のコート上から滲んだ血を発見した。すかさず、手を振りほどく。


「手洗ってこいよ。汚ねえな」

「そんな言うことないだろ」


 心配してやったのになんだその言い方は、聞こえるように愚痴りながら手洗い場に行く。コートを脱ぐと、私の肩は血が固まっていた。横転し、肩から着地したせいで、皮膚がめくれたらしい。そこから血が垂れていき、袖に着いたのだろう。


「お前すげえ血出てんじゃん」


 兄の手には応急セットがあった。仲を開けて、消毒液とガーゼを用意してくる。それを受け取りながら、私は服を椅子に立てかけた。


「うるせえよアホ兄貴」

「お前ほんと口悪いな」


 私のコートを兄は手にした。そのまま立ち去ろうとする。


「おいどうするんだよそれ」

「どうって、洗うんだよ」


 冗談だと思って鼻で笑う。でも、兄は至って真面目な顔付きだった。


「あ、洗う? 兄貴が?」


 彼は気が済んだのかともう私の顔を見ずに、洗面台へ来る。


「お前一人暮らしなめんなよ。血ぐらい洗い落とせるわ」

「クリーニング屋に出すからいいよ」

「オマエ自分で出来ることは自分でやれよ」

「……」


 彼はぬるま湯を用意して血を取り除こうとしていた。


「ごめん言い過ぎた」

「別に。そのトゲある言い方が兄だし」

「……」


 コートを彼に握られているから、目を離せなかった。捨てられては困るからだ。

 兄の後ろ姿を眺める。彼が私を意識しながら喋らないのも珍しい。首筋の日焼け後がなくなっている。そういえば、兄の肌色が白くなっていた。いつも外出するから色黒のイメージが強い。その白さは、血の繋がりを感じて不快だ。


「兄貴。前に俺を殴ったこと覚えてる?」

「そんなことあったか」

「ゲーム機を貸さないと殴るって言ってきて。そんで殴ってきた」

「昔の俺ならしてそうだな」

「それが、なんで今は俺のケアしてるの?」


 こう話していると、兄は正常な人間で、私たちに世話を焼かせているんじゃないかと錯覚する。こう会話できるのは、薬の効き目がいいだけだ。


「東京に行って、色んなものを見たから」


 答えになっていなかった。それでも、兄が東京の思い出を振り返ろうとすることに驚く。今までは、口にすることも阻まれた。


「悪いところだったんだろ?」

「今は、悪いことばかりじゃないと言える。これは、カウンセリングのおかげかな。そういう温かみを忘れたくなくて、その忘れない手段的なのが、こういうケアって言うか。まあ、何言ってるんだろうな俺。深夜だから聞き流してくれ」

「質問うるせえって殴ってくるかと思った」

「それはしたことねえよ。そこまで、粗暴じゃなかったよな? 流石に脚色してる」

「うん。話盛った」


 勝手に達観してる。私に付けた傷でさえ、いいもののように捉えていた。私は、過去を許すことが出来るのだろうか。弱った兄を見て、心がスッキリした部分もあった。その後ろめたささえ全て受け入れるだろうか。兄は、変わった。そんなことはわかっていたはずなのに。


「場所が悪いんじゃないんだ。俺、自分でさえ大事じゃなかったんだ。ゆうは、何か大事なものあるか?」

「お菓子を食べること」

「良いじゃん。大事にしろよ」


 私は兄に言いたかった。貴方が家にいるおかげで、周りは私を兄を知るためのツールとして見られていないこと。両親も、全て関心が兄を立ち直らせることにしているということ。その物語に私が取り込まれていることも、不愉快だった。それをいつか言えるだろうか。そうしたら、過去を振り切れるかもしれない。


「俺のようになるなよ」

「兄のようにならない」

「誰でも可能性はある」

「説得力あるな」

「だろ」


 彼はコートを洗い終えていた。そのまま、洗濯する為に衣類を突っ込んだ。


「傷は痛むのか」

「痛い。ずっと前から」

「そうか」


 兄は自分の髭を撫でながら立ち去り方を探しているようだった。


「今日、兄の部屋みたけど、梱包材ぐらい片付けろよ」

「そうだな」


 私はリビングに行ってお菓子を食した。

 その後、兄とは会話していない。私が家を出た後も。

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梱包材と肌の色 鍍金 紫陽花(めっき あじさい) @kirokuyou

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