エイリアン

しおまねき

エイリアン

 満月のおぼろげな光が、真っ黒な海をやさしく照らし、浮かんでは沈む波の輪郭を、銀細工のように輝かせていた。しめっぽくなまあたたかい潮風の中で、裸足の少女の影が、ふたつ、弓なりの砂浜を横切った。少女らの名まえは、海月クラゲ珊瑚サンゴと言った。


「珊瑚、待って」

 波打ち際の砂を踏みながら、海月がそう言った。

「だめだったら」

 珊瑚が答えた。海月は、

「でも、みんなに知られたらどうすればいいか」

 と、神経質に眉をよせて、うなだれた。

「かまわないよ」

 珊瑚はそう答えて、ただ歩き続けた。もう街の明かりはずいぶん遠かった。時折、猛獣の唸り声のようなトラックのエンジン音が、どこかから聞こえてくること以外、ふたりの周りに、街のにおいはほとんどしなくなっていた。少女たちは、エンジンの音が聞こえるたび、少しだけ距離をつめた。自分の心細さゆえか、あるいは、相手を想いやる気持ちのためだったのか、それはお互い分からなかった。

「珊瑚」

 そう、海月が呼びかけた。

「どうして私を連れてきたの?」

 珊瑚は答えなかった。珊瑚の赤い髪が、左右に揺れていた。

「珊瑚」

 海月はまた呼びかけた。珊瑚が足を止めた。

「きれいな砂浜だね」

 こんどは、海月はそう言った。珊瑚は、振り向きざま白い歯を見せて笑った。

「気に入ってくれた?」

 海月がうなずくと、その金色の髪は、万華鏡のように偏光した。珊瑚が立ち止まって、足元の砂を一握り掬った。ほんのわずかにふくまれた珪砂の輝きがまぶしかった。シルクみたいに滑らかな砂を手で解きほぐすと、指の間から零れた砂粒が、青白い尾を引く彗星となって、さらさらと地面へ落下していく。

「珊瑚はここによく来るの?」

「いいえ」

 珊瑚は否定した。

「でも、あなたを連れてきたかったのよ」

 二人は、どちらからともなく、おもむろに手をつないで、水のやってくる浅瀬へと踏み込んだ。水の混じった砂の柔らかな冷たさが、無垢な足を包み込んでいく。

「また殴られてしまったのね」

 珊瑚が、心配そうに訊ねた。海月の手は絆創膏だらけだった。

「ううん。……ちがう、殴ったのよ」

 珊瑚は、そうね、とだけ言った。刃物で切ったような指の傷は、いろいろな想像を掻き立てたが、それ以上はけして質問しなかった。

 しばらくの沈黙があった。先に切り出したのは珊瑚だった。

「どうしてあなたを連れてきたか、と訊いたよね」

 珊瑚は、少女を見つめていた。

「私は、とても淋しいのよ。あなたと一緒にいるときでさえ、ときどき、自分がまったく世界に一人ぽっちなんだって思ってしまうの」

「私は珊瑚のそばにいれないの?」

「違うよ。でも、私は、どうしようもないくらい、私自身の気持ちから、あなたを守りたくなってしまう」

 それから、珊瑚は、ふわりと笑いかけて、言った。

「私、あなたが好きよ」

「でも、私たち、つきあうなんてありえないよ」

「好きな人が居るの?」

「そんなのじゃないよ」

 いつのまにか、二人の手は離れていた。珊瑚は、沖あいに揺蕩う月のほうに視線を投げかけた。やがて、瞼の裏からあふれだした涙が海へ濺ぎ、唇の端に、かすかな後悔の色が浮かび上がった。海月は、うしろめたそうに珊瑚を見ていたが、やがて、きっぱりと踵を返してその場を離れた。


 珊瑚は、遠ざかっていく海月の背になにか声をかけようとしたが、できなかった。珊瑚は、愛されるということを知っていたが、愛すということについては、あまりにも幼かった。彼女は少女を守りたいのではなかった。少女に、自分と一緒に傷ついてほしかったのである。だが、それがとうていみとめられないことであったし、また、ひどく卑怯で臆病な行いであることを、彼女自身も理解していた。


 海月が歩きながら砂浜に刻み付ける足跡のひとつひとつが、確かな疵痕となって、珊瑚の心をしめつけていた。彼女らのはるか遠くに見える街明かりは、ぼんやりと明滅しながら、真夜中を迎えようとしていた。


 了

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エイリアン しおまねき @oshio_oishii_

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