第4話 彼との出会い

お腹が空いて目が覚めた。

(……そうだ 今日は一日 オフだった)

 アラームをかけなかったのは いつぶりだろう。本当によく眠った。

 昨日は最後が常連のお客さんで 店を閉めたのは日付の変わる頃だった。ドロドロに疲れた頭と体は 食事にもお酒にも全く興味を示さなかった。どうにかシャワーを浴びて 髪を乾かすのもそこそこにベッドにもぐり込んだのを思い出した。

(どおりでお腹がすくはずだ……)

 原宿のどちらかというと代々木寄り 少し奥まった所のビルの2階に私の仕事場はある。あの時間では県をまたぐ自宅までもう帰る手段が見つからない。そんな時 助けてくれるのは 新宿駅近くの背の高いホテル。彼氏から『いつでも使っていいよ』と言われている 。

 タクシーをひろって そのホテルの名を告げれば ほぼ迷うことなく送り届けてもらえる。そして勝手に用意されるジュニアスイート いつも同じ部屋だ。どんなに急でも 夜中でも『お部屋のご用意ができません』と言われることはない。本当にありがたいことだ。

(ひと思いにここに住んでしまおうかしら……)

 ふざけたことを思ってはみるが 実際 本当に困った時しかそこを利用することはない。優しい彼氏への最低線のエチケットだと思う。

 いつも ただただ睡眠を貪り 翌朝も慌しくチェックアウトする。極めて贅沢な素泊まりで 勿体ないこと極まりない。そして思えば 私はこのホテルで食事をしたことがなかった。というより食事をする余裕があったことがなかった。


(急げ!9時半だ! )

 顔を洗って 歯を磨いて 化粧水と日焼け止めをつける。メガネをかけて 唇にメンソレータムリップをつける。デニムのお尻のポケットにハンカチとワイヤレスイヤフォンを押し込む。財布とスマートフォンだけ持って 部屋を出る。

 エレベーターを27階で降りるとラウンジは目の前だった。入口に背の高い男の子が立っている。

「おはようございます」

 かけられたその声は低く落ち着いていて 少し乾いた感じがする。彼の顔を見る。長い前髪からのぞく一重の眼がクールだ。そしてその眼は笑うと線になる。二日月のように細くなる。

(あら 見えてるのかしら? )

 私はその可愛い笑顔に見とれた。

 はっと我にかえる。そっと自分の髪を触る。

(髪 はねてる?こんな子がいるんだったらもう少し気を使っておくんだった)

 小さなため息をつく。いい歳をして何を今更 思い直すと肩の力をがぬけた。

「おはようございます。まだ朝食 食べられますか?」

 私は笑顔を返した。

「大丈夫ですよ。ご案内致します」

(良かった!ご飯が食べられる! )

  まさに色気より食い気 空腹の勝利だ。

「こちらへどうぞ。ごゆっくりお過ごしください」

 案内されたテーブルは明るい窓際だった。磨き込まれ 一点の曇りもないガラスは存在感なく足元まで続き 見える景色は座ってからも変わることがない。都会の街並み 歩く人 走る車 全てがミニチュアのようだ。

 私が外の景色に気を取られている間に 爽やかな笑顔の彼は元いた場所にそっと戻って行った。そしていかにもベテランそうな女性のスタッフがオーダーを取りにやって来る。

「卵はどうされますか? 」

 目玉焼きにした。バターたっぷりのオムレツやスクランブルエッグはもともと少し苦手だ。飲み物はオレンジジュース それとコーヒーには温かい牛乳を少しつけてくれるようお願いした。そしてフルーツはたくさん食べたいと伝えた。

 料理が運ばれてくるのを待つ間 スマートフォンの天気予報のアプリを開ける。今日は1日晴天らしい。メールも大したものはなく ゆっくり出来そうだ。

(いい気持ち。出てきて良かった……)

 別にルームサービスを頼んでも良かったわけだ。

 景色だって部屋から同じように見ることが出来ただろう。なぜだろう。今朝は外で食べようと思った。

 5分程で料理が運ばれてくる。いい具合の半熟目玉焼きが2個 カリカリに焼いたベーコンが添えてある。パンも温かい。クロワッサンと斜めに切ったバケットだ。

(美味しそう!さあて 食べますか! )

 目の前の食べ物に集中する。久しぶりにゆっくりと食事をすることができた。


(さてと これからどうしようかな。ゴロゴロするか もう一回お風呂に入るか……)

 幸せな頭とお腹でラウンジの出口へ向かう。

(きっと このラウンジはここより上に泊まってる人しか使えないんだわ)

 空腹を満たすことに夢中で 今まで気が付かなかった。見回せばそんな雰囲気の人ばかりだ。デニムでサンダル履きの自分のカジュアルさが不安になる。

 出口に立っている彼が ふと目に入り私はほっとして声をかけた。

「ご馳走様」

「ありがとうございました」

 心地の良い乾いた声を聞きつつ 彼の眼がまた線になるのを確認して 前を通り過ぎる。

(なるほど ちょっと眼が離れてるんだ。だからクールなのに可愛いんだ。甘い 甘い お砂糖(笑) )

 気づいたことにちょっと得したような気分になった。

 エレベーターの上向のボタンを押す。その時 突然後ろから声がかかる。驚いて ふりむくとクールな甘い眼が駆け寄ってくる。

(何事かしら?)

「これ……」

 広げた彼の掌には銀のフープピアスがのっていた。

(まさか……)

 左耳を触ると さっきまでそこにあったはずのピアスが確かにない。

「ほんとだ ありがとう……」

 彼の掌にのったピアスをつまむ。ほんの一瞬 私の指先が彼の掌に触れる。その一瞬は場所や時間の感覚を曖昧にした。

 例えるなら童話の中の主人公の少女が魔女の言いつけに背いた時の罪悪感。現実は曖昧なのに 触れた指先に感じた彼の体温は私の中に好奇と羞恥の入り乱れた感覚を一瞬にして鮮やかに呼び起こす。

 そしてすぐ少女の良好さはすぐに終わりを告げる。その代わりに今ここから始まるかもしれない 善か悪かもわからない刺激に満ちていく。

 ただの中年女の 恥ずかしい妄想。

 私はすました顔で左の耳にピアスをつけた。

 私がピアスをつけ終わるのを待って クールな甘い眼が私の右手を下からそっと掴む。

(えっ……今度は何? )

 そして彼は私の掌に小さな四つ折りの紙切れを置いた。

 私は彼の顔を見る。視線が合う。緊張して真剣な彼の面持ちは 私の気分を満足させるのに十分だった。そのままクールな甘い眼が瞬きを何度もする。

(可愛いし……)

 妄想がほんの少し現実化し 私の瞳孔は弛緩した違いない。

 そしてまた時間が止まる。

 背中でエレベーターの扉が開く気配がする。少し間をおいて 静かに閉まり そして誰も乗せないまま登って行く。

 私はまだ動けない。

 彼が掴んだその右手を ほんのちょっと引っ張る。私は彼の腕の中に倒れ込む。更に身勝手な妄想が私を支配する。本当に悪い癖だと思いつつ 今はその妄想を取り払うことが大層難しい。

 自業自得。視線を合わせたままではその熱が伝わってしまいそうで 私は苦労してやっと声を出す。

「……ありがとう……」

 はっと我に帰った彼は 慌てて私の手を離す。

「いえ……」

 短く消え入りそうにつぶやいて ギクシャクとラウンジへもどっていった。

 彼が視界からいなくなり 私はひとつ肩で大きく息をする。

(なによ 全く 今時じゃないし。そして私は45歳ですが。いいのかしら?(自笑) )

 私は振り返り エレベーターのボタンを押す。

 1人きりのエレベーターの中で渡された紙切れを開く。エレベーターの路面側は全面ガラス張りで そこに寄り掛かかると 後ろから差し込む眩しい日の光が その白い紙切れに反射して一瞬何も見えなくなる。エレベーターの階が上がるにつれ日の入る角度が鋭角になり 紙の上に見えてきたのは携帯電話の番号と彼の名前だった。


 ぼんやりした頭のまま部屋にたどり着く。部屋の扉を後ろ手に閉め もう一度渡された紙切れを広げてみる。

「サクライ トウジ……誘うか?45歳を……(自嘲) 」

 独り言と大きなため息。

 でも気持ちは裏腹で右手の甲に彼の体温と指の感触が甦ってきてまた思考が止まる。否定したくて反対の手で握りしめると一気に耳が熱くなる。

 そして心の奥底には

(まんざらでもない)

と口角を上げる私がいる。

「世も末だわ……今日 髪もちょっとはねてたしな……」

 呟いて また 否定しようとする。

 背景や状況に関係なく 出会いは予告なく突然やってくる。恋に落ちる時 音がするとしたら 低く『ドンッ』だと思う。

「あー私 やばいかも……」

 思わずまた声が出る。


(とにかく 動かないと。)

 バスルームに行く。

 バスタブの栓をしてお湯を出す。そのあとは もうすることが浮かばなくて キングサイズのベッドに倒れ込む。お腹がいっぱいで直ぐに瞼が重くなる。

 クールな甘い眼が笑いながら両手を広げている。何の躊躇もなく私はその中にすっぽり収まってしまう。自分の手を彼の背中に回そうとして眼が覚めた。

 飛び起きて慌ててバスルームへ行くとバスタブからはお湯があふれていた。

 裸になって湯船につかる。

「いかんいかん……」

 でも 気がつくと考えている。

 振り払っても振り払っても 勝手に頭に浮かぶ クールな甘い眼。

 白いシャツと黒いスラックスと腰からの長いエプロンはラウンジの制服だろう。素っ気ないシャツを綺麗に着こなせる体幹と姿勢。きちんと手入れのされた紐付きの革靴をはいていた。髪は全体に少し長めで 前髪が眼にかかるほど。小さな顔は少し丸くて顎は少しとがっている。肉の薄い鼻は鼻先だけ丸い。

 唇は……綺麗な形をしていた。


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