第1話 助けて

ーー記憶は朧げで、自分が何者だったかも何を成し遂げたのかも良く思い出せない。

 分かるのは、自分がまだ年の若い少年の体をしているということだけだ。


 その日、少年は目を覚ました。


「......何も見えねえ」


 目を覚ましたと言っても、視界に広がるのは真っ黒な空間だけ。この暗闇に目が慣れるまで暫くの時間を要するだろう。


 視覚が本来の役割を果たせない間も、他の五感は十分に働いていた。

 どこかピリ付くような鉱物の匂い。うっすらと聞こえる何か重い物を引きずる音。口の中に入り込んだザラついた土の味。布越しだが背中に感じる冷たい岩肌。

 どの感覚がもたらしてくる情報も、ここが穏やかな場所でないことを示しているのは明白だった。


「ここは、洞窟の中か?」


 暗闇に目が慣れて視界がはっきりしてきた頃、ようやく少年は自分がどこにいるのか理解する。

 おそらく、ここは鉱山などに掘られた坑道の中だ。そこら中から鉄臭い匂いがする。


 なぜ自分がそんな場所に居るのかは分からない。だが、ここに長居するのが危険なことは分かった。

 あいにく、飢えを凌ぐ食糧も瓦礫から頭を守るヘルメットすらも持ち合わせていない。


 寝起きでまだ気怠げな体を叩き起こし、少年は立ち上がった。


「とりあえず、外に出たいが......」


 出口を探そうにも、ここは暗い洞窟の中だ。当然どっちに行けば出られるかなんて少年には分からない。

 だが、手掛かりになりそうなものはある。さっきから継続的に聞こえる物音だ。


 ここは鉱物を採掘する為に作られた坑道。誰かがいても何らおかしくはない。この物音は、荷車などを引きずる音なのではないだろうか。


 そんな希望に縋って、音の方向へと少年は足早に進み始めた。


 それが大きな間違いであることに気付かずに。



「......なんだよ、あれ」


 結論から言うと、件の音は巨大な蛇が移動する時に発生する音だった。


 坑道の中でも広く開かれた場所に、そいつは居た。


 蛇、とは言っても一般的な誰もが想像するような蛇ではない。大きさは、動物園とかにいる象くらい。その大きな体は、顔から尻尾までゴツゴツとした岩のような殻に覆われていた。


 例えるならそれは、動く岩の集合体だ。


「蛇型モンスターが岩の体を引きずる音だったってことかよ」


 幸いにも目に見える範囲には一匹しかいない。その一匹は、まだ少年の存在には気づいていないようだ。


 得体の知れない生き物を見ても、少年に不思議と恐怖感は無かった。むしろ高揚感さえあるかもしれない。

 だが、目の前の生き物に挑んで勝てるとも思わなかった。


 今はただ冷静に、この場から迅速に立ち去る。


 それが最善だと、少年は知っていた。

 

 だから、野生の勘なのか突然こちらに顔を向けた蛇そいつと目があった時、瞬時に最悪の状況に陥ったことを少年は理解した。


 ーー蛇が鳴き叫ぶ。



 蛇には発声器官が無い。そんな彼らは、尻尾を振って殻を擦り合わせることによって声を出す。普通の蛇でも人間に聞こえるくらいの大きさで音を出すことができる。

 だったら、硬い岩の殻を持つ蛇ならばどうだろうか。


 ーーその雄叫びは洞窟を一瞬、震わせた。


 威嚇と攻撃、それらは同時に行われた。尻尾を振り、耳をつん裂くような咆哮で相手を怯ませる。その勢いのまま、怯んでいる獲物へと尻尾を振り下ろす。


 それが彼ら岩蛇の必勝法。何者も、この必殺技から逃れる術は持たない。


 "蛇に睨まれたら、馬車に轢かれる蛙と思え"。


 この世界では、岩蛇の雄叫びを聞くことは即ち"死"を意味するのだ。


「っ、あっぶねえ!!」


 それ故に。五体満足で岩蛇の背後に立つその少年生き物に最も驚いたのは、攻撃した岩蛇自身だった。


 ーー蛇が鳴き叫ぶ。


 避けられたのは、ただの偶然。そう判断した岩蛇は再び同じ攻撃を繰り返す。


 ーーその雄叫びは洞窟を一瞬、震わせた。


「悪いが、その攻撃は」


 まただ。振り下ろした尻尾には獲物を仕留めた感触が無い。


「もう、見切った!!」


 獲物は、まだそこにいた。

 

 ーー蛇が鳴き叫ぶ。


 

 振り下ろされる岩の尻尾。当たれば即死であることは、岩蛇を初めて見る少年にも分かった。


 命の危機に陥った時、人は存外冷静に"死"を受け入れるものだ。そうした時、思わぬ"生"への抜け道が見つかることがある。


 岩蛇が鳴いた時、音が尻尾から出ていることに少年は気が付いた。音源である尻尾が宙に浮いた時、自然と体は動き出していた。


 強力な攻撃を放つ時ほど大きな隙は生まれやすい。大きな尻尾を振り上げる時、それが元々あった場所に大きな空間が生まれる。


 そこが岩蛇の隙だった。



 ーーその雄叫びは洞窟を一瞬、震わせた。


 岩蛇が尻尾を振り上げてから振り下ろすまで。その一瞬の間に、開かれた隙間に逃げ込む。


「攻撃する度にデカい声で威嚇しやがって、うるせえんだよ。まあ、おかげで攻撃のタイミングが読み易くて助かるんだけどな」


 これで何度目の攻撃か。岩蛇の攻撃を避ける程の素早さを持つ体にも、疲れが見え始めていた。

 防戦一方の消耗戦。このまま避け続けているだけでは、いずれ体力が尽きて岩の下敷きになるのも時間の問題だ。


 負け濃厚の一戦を覆す為、少年は賭けに出る。


「鬼が出るか蛇が出るか。つっても、蛇はもう出てるけど」


 ーー蛇が鳴き叫ぶ。


 ここだ。これまで通りなら、逃げるタイミングを測るために尻尾をじっと見るべき瞬間ときだ。


 だが、今は出来るだけ後ろへと。


「うおらああああ!!!!」


 跳ぶ!!


 ーーその雄叫びは洞窟を一瞬、震わせた。


 上手く着地ができず、思わず地面に手と膝をつく。岩蛇との距離を確認する為、顔を上げたその時。


「っ!?」


 目と鼻の先。まさに言葉そのままの距離を、岩の尾が上から下へと過ぎ去っていく。


「あっぶねえ!!」


 間一髪、岩蛇の攻撃を避けることに成功した。だが、まだあと数回はこれを繰り返さなければならない。


 そんな先の不安を取り除くように、少年は笑う。そして、目の前の敵を挑発するように声を張り上げた。


「お前の攻撃なんか当たんねえんだよ、デカブツ!!」


 ーー蛇が鳴き叫ぶ。



 ーーその雄叫びは洞窟を一瞬、震わせた。


 何度も、何度も、何度も尻尾で殴り続けた。


 動き続けることで少年が疲れを蓄積するように、岩蛇も尻尾を地面に叩き続けることで痛みを蓄積していた。


 とは言っても、岩蛇の尻尾は岩の殻で覆われているのだ。その程度の痛みでは岩蛇の動きは止まる事はない。岩蛇が痛みに耐えられなくなるよりも遥かに早く、獲物少年の体力が限界を尽きるのは明白だった。


 だが、少年獲物は決して止まらず、あろうことか馬鹿にするような笑みをこちらに向けたのだ。


 その笑みを見た時、岩蛇の感情は爆発する。今までよりも一層大きな声で叫び、一心不乱に尻尾を振り続けた。


 その甲斐あってか、少年を壁際まで追い詰めることに成功する。


 ようやくだ。ようやく、この戦いを終わらせることができる。


 岩蛇は最後の一撃に全ての力を込めて、ただ無心に尻尾を振り下ろす。


 今まで笑みを崩さなかった目の前の少年宿敵は、初めて驚愕の表情を浮かべていた。


 

 ーー蛇が泣き叫ぶ。


 岩蛇の尻尾が着地した先には、壁以外には何も無かった。寸前のところで少年は避けることに成功したのだ。


 ーーその悲鳴は、洞窟を震わせた。


 少しずつ痛みが蓄積していた尻尾を凄まじい勢いで壁に打ちつけた岩蛇は、爆発的な激痛に襲われた。

 失速して尻尾を着地させることができる地面とは違い、壁には勢いそのままで尻尾をぶつけてしまう。その衝撃は散々尻尾を酷使した岩蛇には強烈なものだった。


「名付けて、"壁に尻尾を打ち付けて自滅させてやろう作戦"だ」


 少年は右手で左腕を押さえながら、岩蛇が悲鳴を上げている様子を眺める。長く続く悲鳴は、洞窟中に響いていることだろう。それに気付いた誰かが来てくれるといいが。


「それにしても、まさか最後の最後に叫ばずに攻撃してくるとはな。まもなく左腕が持っていかれるところだったぜ」


 いつも攻撃の前には必ず雄叫びを上げていた岩蛇だったが、なぜか最後は雄叫びを上げなかったのだ。おかげで少年は反応に遅れてしまい、かすり傷程度だが左腕を負傷してしまった。


「最後は驚かされたが、結果的には俺の勝ちってところだな」


 少年の機転により、少年と岩蛇の戦いは少年の勝利によって幕を閉じた。


 ーー蛇が泣き叫ぶ。


 だが、あくまでそれは一つの戦いが終わったに過ぎなかった。


 ーーその悲鳴は、洞窟を震わせた。


「ん? 揺れが止まらない?」


 発声器官が無い岩蛇が、わざわざ尻尾を振ってまで音を出す理由。それは、決して威嚇のためだけでは無い。


 岩蛇は臆病な生き物だ。巣の外の世界を恐れ、他の生き物を恐れる。そんな彼らは自らが危険に迫った時、泣・き声を上げるのだ。それはいわば救難信号。


 恐怖に支配された岩蛇は「助けて」と叫びながら、なりふり構わず尻尾を振り回す。


 ーー蛇が泣き叫ぶ。


 蛇の泣き声に呼応し、洞窟の震えは一層大きくなる。地中から響く音がだんだんと近づいている気配がした。


「何かが、来る、っ!?」


 ーーその悲鳴は、大きく洞窟を震わせた。


 "一匹見たら、百匹いると思え"。


 地中から溢れ出てきた岩蛇の群れは、一斉に少年へと飛びかかった。

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