第4話 枯れかけレモン
「え、それ……全然笑えないやつじゃ……」
滝川も、背筋を急に張って苦笑いをした。
「兵器って時点で笑えないだろう」
私がそう指摘すると、滝川は自分の左肘の擦り傷を、恐る恐る再び確認した。
「これ、もしかして当たりどころが悪かったら……」
少女は暗い瞳で滝川の肘を見つめて頷いた。
「骨折、あるいは死んでいたかもしれない」
「冗談じゃない!」
滝川は髪の毛をむしるように掴んで叫んだ。
「最初からそう言っている」
「ど、どーすんですか! そんなやばいのに襲われただなんて!」
滝川が叫びながら、私のマスクの耳をカウンター越しから引っ張った。
「いった! デコピンするなんて!」
「椅子に土足で乗るんじゃない、それから人のウサ耳を引っ張るんじゃあない! それから落ち着きなさい」
「もう! パワハラで訴えてやる!」
歯を剥き出しに、機嫌の悪い子犬のような顔で威嚇してくる滝川に、私も毅然とした態度で立ち向かう。
「望むところだ!」
全く、我が店はなぜこれしか従業員が居ないのであろうか。求人サイトに載せるのは余分な経費がかかるが、検討をするべきなのかもしれない。
「はー、もう店長はいいっすよ……。お客さん、あの黒いべちゃべちゃ、出てきたらどうやって倒すんすか? モップじゃ歯が立たなかったんですけど」
「私は戦えたがね……お客さんの言うところ、“全て思い通り”になって」
私は、イデアの中で第四の騎士として、死神として、あの黒い影を屠った時の快感を思い出した。ああ、あの時の私の勇姿を誰か、録画してくれていたりはしないだろうか。
「あの時の店長、ノリノリでマジ引いたっす」
「減給」
「撤回いたします」
この滝川というのはつくづく、くだらない奴だ! 少女は冷ややかな目で私たちのやり取りを見過ごしてから、また話し始めた。
「フロイトの攻撃から身を守る唯一にして絶対の力、それが“イマジネーション”。つまり、想像する力だ。檻に入れられた獣が暴れれば、檻が壊れるのと同様に、イデアに囚われた私たちの精神を解放するには、他ならぬ囚われた私たちの精神が、イデアの中で暴れることが有効なんだ」
言い終わって少女がまた一口カレーを食べるのを見て、確信した。彼女は明らかに、我が店のカレーの虜になっている。
「なるほどねえ。イデアに囚われた時は、イデアに現れるあの黒い影を、さっきみたいに想像力を使って倒せば、脱出できるということかい?」
「イデアから脱出するには、イデアの心臓、本質に当たる部分、“核”を破壊しなければならない。先ほど私たちが囚われたイデアの場合では、その核がたまたま黒い影の形をしていただけだ。イデアの核は、フロイトの攻撃によって構築されるイデアごとに、違うんだ」
「うーん、わかるようなわからんような……」
滝川はいつの間にか勝手に客用のグラスに水を注いで、飲み干していた。いつも紙コップを使えと言っているのに!
「イデアの核は簡単に見つけられる。先ほどこの店に突如黒い影が現れたように、イデアに囚われればすぐ、見ていたはずの景色に、こちらに敵意や悪意を持った異物が現れる。大抵はその異物さえ攻撃して破壊すればイデアから脱することが出来る」
少女は残り少なくなったカレーから立つ湯気をぼんやりと眺めながら言った。外のカラスがうるさくなってきた。
「うーん、まあとりあえずヤバくなったら、頭使って戦えばいいんっすよね? 頭使うのは得意っすよ!」
「よく言うよ」
自信満々そうな滝川を鼻で笑うと、向こうは眼鏡の奥から陰湿な視線の中に私を閉じ込めた。
「フン! 言ってればいいんすよ。次来た時は僕が店長なんかより早くぶっ飛ばしちゃうんで!」
「次ねえ……次なんかある方が困るよ。それに、私たちは運良く助かったみたいだが、逆に考えれば我々は運悪く、フロイトの誤作動で狙われたという見方が妥当ではないかな。戦争は市民には全く関係ないものだしね。今のところ報道されているわけでもないし」
この時、私は店先のカラスが気になって仕方が無かった。そしてすでになんとなく嫌な予感がしていたが、それを口にするとさらにその予感の現実性が増すような気さえしていたので、敢えて希望的な観測のみを口にしたのだ。
「確かに。そう考えたら二度目はもう無いっすね。よかったあ」
滝川は単純で助かる。少し煽ればすぐに取り乱し、反対に少し調子のいいことを言えば勝手に明るくなってくれる。助けられていると認めたくはないが、少なくともえも言われぬ、日常に弱い毒の霧のような不安から、存在しているだけで目を背けさせてくれるような存在であることは確かである。不安症で現実から常に精神の世界に逃避したがる傾向のある私は、この地、州ガモにそんな人々の逃げ場となる店を作りたかった。滝川はそういった店作りのマスターピースであると私は考える。だから、滝川のそういう才能を買って、安い賃金で雇っているのである。
「まあフロイトの話は置いておこう。戦争の兵器のことまでよく知っているお客さん、あなたは何者なんだい? 軍事オタク……にも見えないしね」
私が何気なく世間話めいた質問をすると、最後の一口をスプーンに集めていた少女の手が止まって、震え出した。
「わ、私は……私は……」
「あーあーあー、店長のせいっすよ。だからアラサーなのにモテないんすよ!」
滝川が呆れたように頬杖をついて少女を眺めている。
「うるさい!」
滝川には、言われたくない。
「すまなかった、プライベートなことを聞いてしまったね。答えなくてもいいんだ………」
少女はゆっくり、誰かに話しているというより、独り言を呻くように、静かに涙を溢しながら喋り始めた。
「私はずっと、あれと戦ってきた……日本国をまもるために……姉と、妹たちと……。しかし、外の世界は……」
滝川は少女の様子が変わったのを見て、私に耳打ちした。
「バニ沢さん、これはとんでもない訳アリ女子っぽいですよ。どうすんですか」
トランス状態に陥ってしまった少女を見ながら、私も声を出来るだけ殺して答えた。
「バニ沢と呼ぶな。私は店長だぞ。それに訳アリなのは見りゃわかるだろうが。なんかこう……服着てるかどうかも怪しいし……」
とにかく少女を落ち着ける方が良いと思って、私は彼女に適当な話題を振った。
「そ、そうだ! 自己紹介がまだだったね。私はこの人参房のマスター、バニ沢だ。そしてこっちが滝川。偽名でも構わない。お客さんの名前を教えてくれないかい!?」
少女はスプーンに一口分残ったカレーを見つめている。カレーを呪う霊のようにさえ見える青い唇を震わせながら少女はようやく答えた。
「檸檬……檸檬と呼ばれていた」
「へーそうなんすね! なんか……髪色的にはブドウっぽくないっすか?」
滝川は白々しく帽子のつばをいじりながら檸檬と名乗った少女の方を改めて見回した。
「滝川……もう黙ってなさい……。して、檸檬くん。君、行くあてはあるのかい?」
私が檸檬にそう質問すると、彼女は影よりも暗い表情をこちらに向けた。
「私は……抜け殻になってしまった……」
「センチメンタルっすね。振られたとか?」
「こら! んなわけないだろう」
滝川は相変わらず無神経である。
「……あそこは、もう、無い、帰る場所も行く場所も……」
檸檬は、寝言を言うようにぼんやりと呟き続けるのみである。“訳アリ”の彼女の、“訳”は、おそらく非常に根深い問題であるに違いない。
「あれ〜。行くあてが無くなっちゃったんなら仕方ないっしょ。適当に第二の人生、探しちゃえば良いんじゃないですか。死んだわけじゃないんだし!」
滝川が雑に檸檬を励まそうとしている。しかし、ここで無闇に詮索をしてより檸檬の心の傷を開くようなことをしないのは、流石であると言わざるを得ない。
「でも……私は……!」
檸檬はようやく声がはっきりとしてきた。
「人生とはまさに、カレーのようなもの! 米がなければうどんを! ルウが目減りしたら水を入れてスープに! 刺激が足りなければスパイスを、ボリュームが足りなければカツを足せばいいのだよ。逆もまた然り、何かがトゥーマッチなら薄めるなり引き算をすればいい。アレンジなんていくらでも効くのさ」
「まぁたそれっぽいこと言って……」
私の名言に冷や水をかけるようなことを言うのが、この滝川である。私はこれを無視して檸檬の真正面、カウンター越しに立って檸檬の前にある、スプーン一杯分の残ったカレーを指差した。
「君の食べているそのカレーだって、私が諦めずに味を足しては引いて、研究に研究を重ねた上で辿り着いた私の人生の集大成そのものなんだよ!」
「よく言いますよ。一回諦めかけて、こっそり市販のルウ使ってこだわりカレーとか言って出してたくせに。多分あれ、訴えられたら負けますよ。特定取引ウンタラカンタラ違反っすよ!」
「うるさい! 市民の生活は治外法権だから良いんだよ!」
この滝川というのは、やたらに私の言うことに噛みついてくる。雇われの身で! 生殺与奪の権は私が握っているというのに。滝川は全く私に怯んでいる様子はなかった。
「町会長に言いつけるって言ったら、時給上げてくれます?」
「その前にお前を殺そう」
「て〜んちょ〜、大好きですう!」
私が脅迫すると、音域が明らかに違う猫撫で声を発して、滝川は金縁眼鏡の奥から潤んだ瞳を輝かせて、カウンター越しからいかにも嘘くさい笑顔を向けてきた。
「しょうもない! 何処まで話したか忘れちゃったじゃないか……ああ、そうだ。檸檬くん。だから、カレーみたいにいくらでも誤魔化しが効くものだよ」
私は無責任に、強引に話をまとめた。外の烏もすっかりいなくなって、陽も傾き始めているのが外から見える。
「もういいんだ!」
檸檬はこれまでで一番大きな声を出した。
私と滝川は檸檬の悲痛な震えを纏ったその叫びに驚いて、そのまましばらく黙って俯いてしまった。
「……邪魔をした。もう行く。世話になった」
最後の一口のカレーをいつの間にか食べ終わった檸檬は、席を立って、外に出ようとした。
「どこ行くんすか!」
「どこでもいい。どうせ、このまま野垂れ死ぬ」
「んもう! 何があったかわからないっすけど。檸檬さん、行くあてないなら、州ガモ……この町に住んじゃえばいいんじゃないすか?」
滝川の問いかけに、檸檬は足を止めた。
「滝川にしては良い案だねえ。いかにも、このまま檸檬くんを送り出して、万が一野垂れ死なれでもしたら心情が悪いし、カレーもなんか……こう、店で出しにくくなってしまう。どうだい? 我々がここでの暮らしについては色々手配をしようじゃないか」
「……あんた方がそこまでする義理はないだろう。見ず知らずの私に……それでは、失礼する」
檸檬は諦めたようにまた立ち去ろうとした。
「待て! カレー、もう一杯どう?」
出血大サービスだ。彼女がカレーを口にした瞬間、絶望に満ちていたあの顔が一瞬、花が咲いたように赤くなっていたのを思い出して、私は彼女を引き止める餌に自慢のカレーの名前を出した。
檸檬は、カウンターに座って、二杯目のカレーを頬張っている。
「なぜ私にこんな……」
カレーの美味さにのぼせたような顔をしながら、檸檬は戸惑いを隠しきれていなかった。
「檸檬さんが居なかったら、僕たちもフロイトの攻撃で殺されてたかもしれませんし!」
「癪だが滝川の言うとおりだ。恩が仮になくとも、困っている人間を放っておくほど、州ガモの人間は冷たくないしねえ」
「そういう……ものなのか……かたじけない」
檸檬はあまり納得していないようであったが、申し訳なさそうに、微かに口角を緩めた。
「あ! 笑った!?」
「今時、ラブコメでもそんな台詞回しをするやつはいないぞ……」
私は滝川の古臭い反応にため息をついた。
「まあそんなのはいいんすよ。今日はなんか……記録的な客の入りの悪さだし、檸檬さんの新生活スタート支援のためにも、お店閉めちゃってもいいんじゃないですか?」
「店主は私だ、勝手に決めるんじゃあない。しかし、本当に今日は……人通りすらないのははっきり言って今までに一度も無かったけど、どうしたんだかね。これくらいの時間から混み始めるんだが……まあ。今日は色々あって疲れたし、店を閉めても良いかもしれないね」
「くどいこと言わずに、一言賛成だけ素直にしてくれりゃいいのに!」
滝川はぶつくさ言いながら、店の入り口の看板を裏返した。
「——さて、今日はまあうちに泊まってもらうとして、流石にずっと住み込みは檸檬くんも、私も気まずいからね。明日あたりから物件探しも行うとするか」
「何から何まで、すまない」
檸檬の顔は相変わらず疲れ切っていたが、カレーを食べたからか、瞳に微量の油を塗ったような、幽かな輝きが宿っているように見えた。
「まあ最初の資金は援助しよう。しかし、この世界には働かざる者食うべからずという言葉がある。申し訳ないけど、檸檬君にも明日から、店を手伝ってもらったりしようかね」
「私に出来ることなら……」
檸檬は自信無さげに返事をした。無理もない。カレーを見たことのない少女である。今まで、何処で何をして育ってきたのか知る由は無いが、恐らく我々の常識の通用しないような場所に閉じ込められていたのだろう。
「困っている人すら労働力に見えているなんて、流石の冷酷さですね。どうせ低賃金だろうし……」
滝川は眉を顰めて、心底軽蔑したような顔でこちらを向いた。
「で、檸檬くんの教育が終わって一人前になったら、お前、クビ」
「困っている人も雇用して、給料あげちゃう店長ってばやっさしー!」
滝川の掌は、何時だって私が今まで作ってきたどのオムレツよりも綺麗に返されるのだ。
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