第5話 卵サンド、サバサンド、それから透明人間

朝。朝とは非常に哲学的な時間である。一日の始まりであり昨日の終わり、日付が変わる瞬間よりも、朝日が昇る瞬間こそが時の潮目であると私は考えるのだ。サボテンの並ぶ出窓のカーテンを開けると、今日もいつもと変わらぬ運河があって、軍の巡視船らしき船がのそのそと水面を移動していた。

「ふう……」

背伸びをすると肩が鳴った。昨日、大鎌を初めて振り回したせいなのだろうか。幻覚の中の体験で実際の肉体に疲労が溜まるのだとしたら、非常に迷惑である。否、野晒しにされて年々朽ちていく河川敷の粗大ゴミと同じく、私の身体も三十路を手前に着実に綻びが現れているに違いない。アオサギが窓の真正面を横切った。

 柱時計の指す時刻は、午前六時ちょうど。檸檬はまだ起きていないようだ。私は檸檬に素顔を見られる前に、顔を洗って歯を磨き、服を着替えたのち箪笥から予備のマスクを取り出して装着した。この兎のマスクは丸洗い可能で、しかもすぐ乾くし汚れない。通気性まで良いのだから、完璧である。私は姿見の前に立って、今日の自分を確認した。その姿は一見、いつもと何ら変わりはない。

「よし」

今日も一日が始まる。昨日とは違う日。不変こそ尊いものであるが、不変の日々など存在しない。現に、昨日の朝は想像だにしていなかった青天の霹靂に巻き込まれた上、今朝は災害のごとく目の前に突如現れた謎の少女を、家に泊めているのだから。階段を降りて二階のキッチンへと向かった。

 檸檬は今、二階の空き部屋で寝かせている。今のうちに朝食を作ってしまおう。

「さて」

冷蔵庫から作り置きしておいた茹で卵を取り出して、殻を剥き始めた。この殻を丁寧に取り除く時間は、人の生涯の中でも、非常に無駄でまどろっこしいものであると思う。しかし、私は茹で卵の旨さを知っている。ゆえに何とか応用を効かせて、この時間も有効に使いつつ、この薄くて硬い殻の向こうにいる卵を喰らう目的も達成したいのだ。だから私は、今日も懲りずに殻を剥く。キッチンに殻を剥く音だけが響く。静かである。

 昨日の夜は滝川も居たので、やたら騒がしかった。

***

「とりあえず、明日は檸檬さんの服とか色々買って持ってきますね。店長はどうせ、女子のファッションなんてわかんないだろうし! 領収書は人参房宛でいいっすよね?」

滝川は図々しくも、店のカウンターで檸檬と共に夕食として、本日出すはずだったハンバーグを頬張りながら、当然の如く私にそう尋ねた。

「費用は出すと言ったが……領収書をどうするのかは私から言うことだ」

私がため息混じりに言うと、滝川は憎たらしい顔をして手のひらを天井に向けて、やれやれと首を振った。

「全く、素直に許可だけしてくれればいいのに……」

「バニ沢と……滝川……あんたたちは、仲がいいのか?」

奇妙な手つきでフォークを持っていた檸檬が、突如意味不明なことを言い始めた。

「なっ!」

冗談じゃない。これとは利害がたまたま一致しているから、雇っているのみである。

「そうですよ! 僕と店長は仲良しっす〜ねぇ?」

滝川は白々しい笑みでカウンターから上目遣いで私を見つめてきた。

「気分が悪いよ。横になりたい……」

「あまり仲がいいわけでは、ないのか」

檸檬は一言だけ発すると、表情を変えることなくまたすわった目でハンバーグを食べ始めた。檸檬の機械のような佇まいは一見不気味だが、先ほどから時折、私と滝川に目的も分からなければ意味も無い質問を繰り返しては、一人で納得している。

「ふう! ご馳走様でした。それじゃ、僕はそろそろ帰りますね」

滝川は食器をシンクに置いたのち、手早くタイムカードを押して出口の方を向いた。

「滝川は、ここに住んでいるわけではないのか?」

「え〜! 嫌っすよ。店長と暮らすくらいなら、家でコオロギを大量に飼います。その方がまだ静かっすよ」

檸檬がまた質問をしたかと思えば、滝川は顎を引いてのけ反り、まるで嫌がらせでも受けたかのような顔をした。

「貴様……私から願い下げだよ」

何とまあ生意気な奴だ。私は静かに怒りを込めて呟いた。

「そうか、人は、別々に暮らすことも、あるのか」

「? とりあえず店長! 明日はちゃんと領収書渡すからお金用意しといてくださいよ! 聞いてるんすか!」

「もう! わかったっつーの!」

滝川は檸檬がまた一人で納得しているのを不思議そうな目で見つめたのち、店の出口から、きいきいと大声で伝えた。もう投げやりになって、私も大声で返事をした。

「いやっほー! 退勤!」

「はあ……」

滝川がけたたましく店を出ていくのを見送って、やっと店に静寂が戻った。

「あの……」

檸檬が申し訳なさそうに、カウンターの向こうからおずおずと目をやってきた。

「どうした?」

私が尋ねると、檸檬はソースまで綺麗に食べ尽くされた皿を差し出した。

「もう一つ、ないか」

「あ、うん……」

私はこの夜、確信した。檸檬の経費は思った以上にかかるぞと!

***

 時を戻そう。美しく静かな朝、私はすっかり茹で卵の殻を剥いて、露わになった柔らかい楕円を三つ、ボウルに放り込んだ。そこに少々のパセリと、塩胡椒、それからマヨネーズ。麺棒で卵を潰す。この時間は殻を剥いている時よりよほど楽しい。トースターが焼き上がりを告げてちりんと鳴いた。

「あの……」

私が鼻歌を歌いながら料理をしていると、檸檬がキッチンの入り口に立っていた。

「よく眠れたかい?」

無造作というか未開拓というか、とにかく度し難い量の髪の毛から覗かせている深海のような目を見ると、昨日よりもだいぶくまが薄くなっているのが分かった。キッチンに差し込んでくる朝日が、そんな檸檬の姿を幽霊のように発光させている。檸檬は着替えを持っていなかったので、とりあえずと思い去年の“商店街産業祭り”の際に使ったTシャツを着てもらったが、非現実的な見た目の彼女がそんなシャツを着ている姿は、何か意味のある近代美術のようだ。

「……お陰で」

「それならよかった。今卵サンドができたところだ。君も座って食べなさい」

私は檸檬に近い方の椅子を指してそう促した。今日の私の卵サンドも、見た目からして絶品であることを確信させる出来栄えだ。檸檬もすぐにかぶりつきたいに違いない。

 しかし、檸檬は席に座って目の前に置いてある卵サンドと、インスタントのオニオンスープと、豆苗のサラダを見て、また訳のわからぬ質問をしてきた。

「食事は、一日に一度、夜に摂るのではないのか?」

檸檬は物憂げと誤解されてもおかしくないような不安な顔で、卵サンドを見つめている。彼女がどんなところで育ったのかは未だ分からないが、私はそこに絶対に行きたくないと思った。食こそ、絶対に裏切らずいつでも私を幸福にしてくれる生涯の友である。なので、思わず熱を込めて大きな声を出してしまった。

「食事が一日一回!? 冗談じゃない。死んでしまうよ。ささ、君も食べなさい。朝食は一日を始める神聖な儀式と言っても、過言ではないよ」

「そう、なのか」

檸檬は私が答えるや否や、卵サンドをすぐに手に取って齧った。

「これは……! うまい」

「だろう。店でも出しているメニューだから、これから人参房で働く君も味を覚えてくれると助かるね」

彼女な何か、食事をすることに許可めいたものが欲しかったのかもしれない。そういったところからも、彼女がこれまでどこかで紡いできたであろう生活は、我々州ガモの住民の想像を絶するものであったことが窺える。しかし、これからは彼女も州ガモの人間となるのである。だから、朝食は食べるべきなのだ。

 朝食を済ませたのち、私と檸檬は一階、人参房へ降りた。モーニングの開始時間は朝八時半。開店まであと五分である。とりあえず目を離すわけにもいかないので、檸檬には滝川が出勤してくるまでカウンターに座っておいてもらうことにした。滝川は九時からのシフトなので、まだ少しかかりそうだ。

「——さて、じゃあもう開けちゃおうかな」

私は店先の看板を裏返して、“営業中”の方を表にした。今日も夜が明け、店が開いた。それだけで尊いことなのである。

 開店してすぐ、出入り口についている鈴飾りが鳴った。

「マスター! おはよう」

「羽渕さん。いらっしゃい」

今日一人目の客は、ここから徒歩五分ほどの位置にある鮮魚店、“ウヲミヤ”の店主、羽渕氏だ。人参房で出しているシーフード類は全て、そこから仕入れている。羽渕氏は見かけない顔の檸檬が、カウンターの席で虚空を見つめて座っているのをちらちらと見て、私に囁きかけた。

「あの怪しいべっぴんさんは一体何者だい? まさか配偶者……」

見当違いなことを言われて、私はすくみあがった。

「ち、違いますよ! 昨日うちの店に来たお客さんです。州ガモに越してくる予定らしくて」

檸檬については詳しく知らない。しかしだからといって檸檬が正体のわからない、ある種の怪異のように突如現れた不自然な少女であるということを、そのまま私が流布した上で檸檬が州ガモで暮らし始めたら、あらぬ疑いをかけられたり面倒なことに巻き込まれかねない。そこで私は咄嗟に、嘘ではないが真実とは言い難い、なんとも歯切れの悪い説明を羽渕氏にした。

「ほぉ〜ん。そうなのか」

羽渕氏は納得して頷きながら、店の入り口から見て一番手前のカウンター席に座った。

「エスプレッソと、サバサンドで」

「はい只今」

羽渕氏がモーニングの時間帯に来る時は、いつもこれを注文する。自分の店で売ったサバを、なぜわざわざ私の店で調理された状態で食べるのかはよくわからないが、とにかくいつも満足げにお金を払ってくれるので、私の方もわざわざ野暮な質問はしないようにしているのだ。

 トースターに食パンをセットし、サバの調理を始めるためにタッパーを開けようとすると、おもむろに羽渕氏が、怒った達磨のように見える険しい顔で話し始めた。

「マスター、そういや昨日は大丈夫だったか?」

檸檬が一瞬こちらに目をやったのを感じた。私の見立てでは、昨日のフロイトの件は、戦争用の兵器が誤射されただけ。つまり、我々は運が悪かっただけである。無闇に話のネタにすると、噂に尾鰭がついて面倒なことになるかもしれない。

「昨日? 昨日は——特段何もありませんでしたよ。強いて言えば、お客さんが午後過ぎくらいから全く来なくなりましたね。商売上がったりでしたよ」

これはフロイトや檸檬の件を伏せているのではない。本音である。今月も何かフェアをやらねば、赤字になりかねない。私はカイワレを箸でまな板に出しながら、肩をすくめて羽渕氏の顔を今一度見た。しかし、羽渕氏はなぜこのような奇妙な問いかけで世間話を始めようとしているのだろう。羽渕氏の赤みがかった顔に、何かただならぬものを感じた。

「いやいや、そうじゃない。今朝の新聞とかテレビは見とらんか?」

「見てないです。何か、あったんですか?」

私はそう尋ねながら、カウンターにあったリモコンを手に取って、店の奥に天井から吊るしてあるテレビの電源を点けた。

 州ガモの市内局にチャンネルを合わせると、桃色のスーツを着た犬の仮面をつけた女性がいつもの調子でニュースを読み上げていた。このアナウンサーはたまに、昼時にパスタを注文しに我が店に来ることがある。

『今朝のニュースです。昨日、州ガモ市内で起こった連続殺人事件につきまして——』

「これだ」

羽渕氏は、物騒なニュースを取り上げているテレビの画面を指差した。

 州ガモは平和な街である。静かで美しく混沌として賑やかな、人情の街である。そんな街で、このような事件が起こるなど、ありえないことだ。犬の仮面をつけたアナウンサーは、淡々と原稿を読み上げる。

『昨日午後三時から五時にかけて、州ガモ市内の住宅等十五個所で、計十八名が殺害されているのが見つかりました。自警団は通報を受け、昨日からすでに捜査を開始したと発表しています』

檸檬はテレビを見て、不吉なほどに顔を青くしていた。

「じ、じゃあ昨日お客さんが全然来なかったのって……」

おぼつかない手元で、サバになんとか衣をつけようとしながら呟いた。

「ああ、昨日の事件が騒ぎになって、学校は部活も中止、集団下校。昨日は商店街も全然人通りがなかったね。商店街でも何人かやられてる。クリーニング屋の旦那なんか、叫び声もあげず、いつの間にか休憩中の部屋で亡くなってたらしい。この店は中から通りの様子が見えにくいから、パトカーとかが走ってるのも気づかんかったのかもしれないな」

サバを揚げながら羽渕氏の話を聞いて、私は嫌な予感がし始めて、一つ、尋ねた。

「いつの間にかやられていたって、どういうことです」

テレビから流れるアナウンサーの音声が、私たちの会話に割り込んでくる。

『一連の事件は、発見されたすべての遺体が完全に他殺であると考えられる状態で死亡している点と、同日の近い時間帯に多発した事件であるにも関わらず、すべての現場から犯人の痕跡が何一つ浮上していないという二つの共通点があり、捜査が難航する可能性が高いと見られています。そういった中、住民からは被害の拡大を懸念する不安の声が相次いでいます——』

アナウンサーは丁寧に事件の特徴について解説をした。檸檬が先ほどから、ニュースを見ながら私に不安げな視線を何度も送ってきている。ひとりでに死んでいく被害者、不可視の犯人。私は脳の中で、嫌な仮説を立ててしまった。

「これは……いや、まさかな……」

羽渕氏は低温で揚げられるサバを待ち遠しそうに眺めながら、落ち込んだ様子で話した。

「巷じゃ、“透明人間”の仕業だって持ちきりだ。そうだ、滝川ちゃんは無事なのか?」

「透明人間ですか、あれは殺したって死なないので大丈夫だと思いますがね……あ、噂をすれば」

窓の向こうに、ピンク色の髪の毛がやかましく飛び跳ねてくるのが見えた。

 滝川は両手に檸檬の衣類が入ってるらしき大きな紙袋を抱えながら、息を切らして店に入ってきた。

「はぁっ……はぁ……店長! 大変っすよ!」

滝川は血相を変えて叫んだ。

「何があった」

「昨日家に帰るついでに服屋さんに寄ったんすけど、そこで服屋の店員さんから、“透明人間”の殺人事件が起こったって聞きました!」

「私も事件のことは今し方、羽渕さんに聞いたよ……穏やかではないな」

滝川は眼鏡の位置を直して、椅子に座りながら続けた。

「で、さっきお店に来る途中で、パトカーと人だかりがあって……。自警団の人に訊いたら、あのホラ、角のところのわたあめ屋さんのおじさんが、今朝“透明人間”に殺されちゃったって……」

「またか! わたやめ屋の親父まで……」

羽渕氏は頭を抱えた。あのわたあめ屋の店主はとにかく甘いものが好きで、我が店にたまに顔を出してくれた。去年の祭りでも子供達と楽しげに会話していたのが、記憶に新しい。昨日から、この街に何かが起こっている。日常はもう、砂の城のように崩れてゆく一方なのかもしれない。

「僕、思ったんすけど——」

「間違いない。フロイトの攻撃だ」

檸檬は毒を飲まされたかのような青い顔で、滝川に続いてはっきりと言った。私の仮説は、おそらく間違っていない。昨日、この人参房だけでなく、州ガモ全体がフロイトの無差別攻撃を受けた可能性がある。

「滝川ちゃんに嬢ちゃん、もしかしてマスターも何か、知っているのかい」

羽渕氏は怪訝そうな顔をした。

「ええ。心当たりがあります。滝川、いますぐ町会長に電話してくれ。これ以上犠牲者が出る前に! 今朝また犠牲者が出たのなら、まだ狙われている可能性がある」

滝川が普段からは考えられないほど真面目な顔で返事をした。

「——了解っす」

この街を荒らすこと。それは私が、そして誇り高き州ガモの住人たちが、絶対に許さない。サバサンドが、完成した。

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