第3話 カレー

「ええ? さっきの黒いやつが、戦争の兵器? なんでそんなもんが洲ガモにやってくるんすか? にわかには信じ難いっすね」

滝川はモップを掃除用具入れに押し込みながら、少女に尋ねた。

「何故って……戦争だからだ。戦争は市民をも巻き込んで、世界は今めちゃくちゃに……」

少女の青白い顔は、滝川の適当な対応で余計に青くなった。まったく、このバイトは客人になんて顔をさせるのだ。滝川が使えないのはいつものことであるので気にも留めないとして、少女の言っていることも、話題に分不相応な不自然な緊張感があって、引っかかった。

「市民を巻き込んだ戦争? そんなのとっくの昔の話じゃないかな?」

私の問いに、少女は昆布にすら見える重たい髪の毛の中から覗かせる瞳を、ますます不意をつかれたように丸くした。

「さっきから、何を言っているんだ。皆、戦争で苦しんでいるのではなかったのか……?」

声を震わせる少女の姿は、夜道に現れた幽霊に見える。私と滝川は少女

「戦争って政府の大臣とか大統領とか、なんか偉い人たちがやってることで、僕ら市民には全く縁のない世界っすよ。学校で習いません?」

少女は理解に苦しんでいるようであった。全て、滝川の言っていることが正しい。戦争についての認識は、この時代に生まれた人間ならば、皆同じように解釈をしているはずである。今この空間において、客観的に見て不自然なのは少女の方だ。私はようやく、この今にも消え入りそうな少女が、ただの逃げ出した売春婦ではないのであろうことに気付き始めた。

「何を……言っている?」

「それはこっちのセリフっすよ! 戦争の話なんて、学校以外でしたことないっすよ」

「なら、今は、本当に平和、なのか……?」

「さっきの変な黒いのはともかく、僕たち市民はすっごい平和に過ごしてるっす!」

少女は焦りさえ感じているように、切羽詰まった様子で滝川に問うたが、滝川はそれを全く気にせずに笑顔を向けていた。

「そう、なのか……」

少女は滝川の顔を見て、嘘をつかれているわけではないと判断したようであったが、何故か疲れてしまったのか、カウンターに両腕を乗せて俯いてしまっている。伸び切った髪の毛にみすぼらしい身なり、苦労と懊悩を点滴し続けたように疲れ切った顔、事情は分かりかねるが、そのままにしておくわけにもいかないと思った。

「カレー、温め直したよ。食べながらでいいから、もう少し色々、教えてくれないか?」

少女に提供したカレーも、さっき黒い影が暴れ回ったことによって床に散乱したはずだが、少女が全く手をつけていない状態のまま、カウンターの上に佇んでいたのだ。

「これ、どうやって食べるんだ。このような食料は、初めて見る」

「ええ!?」

少女は先ほどから耳を疑うことばかり言う。滝川は唖然としていたが、私はスプーンを指差した。

「カレーライスを食べるときは……まず少し香りを楽しんでから、スプーンを使って米とルウを出逢わせてやるんだ」

「まどろっこしい言い方して!」

滝川は無礼にも呆れたように吐き捨てながら、少女の二つ右隣の席に腰掛けた。

「こう……するのか……」

少女は乾いた唇で、ぎこちない手つきでスプーンで掬った、私の叡智の集大成であるカレーを一口、食べた。

「どうかな、人参房自慢のカレーは」

瞬間、少女の色が抜け切った顔に、ほとんどの人は気付くことのできないほど、あまりにも儚く薄い桃色が宿った。

「これは——!」

彼女が一口カレーを食べるごとに、死相が刻み込まれた顔に、微かに活力が現れ始めているように見える。少女は結局、無心でスプーンを皿と口との間で往復させ続けて、飢えた犬の如き速さでカレーを食べ切ってしまった。

「こんなに美味しいものが、あったのか」

カレーを食べている最中の少女の真剣な表情は、緊張感すらあったが、食べ終わると放心したように顔の強張りも緩めて、虚空を見つめていた。

「すっごい食べっぷりだね。まあそんなことはいいんだけど。確かに今の時代は滝川が言うように平和だ。しかし、さっきの黒いのが戦争の兵器だというのなら、穏やかではないね。して、フロイト——と言ったかな。お客さんは何か知っているのかい?」

カウンター越し、顔をこちらに向けた少女は、先ほどよりも明らかに顔色が良い。カレーを食べて元気になったのか、少女は先ほどよりもずっと流暢に、つかえることなく話しはじめた。

「フロイトは、現在の戦争で十年ほど前に打ち上げられた人工衛星だ。そしてさっきのあの黒い影は、フロイトの発信する電波によって現れた」

人工衛星、我が身には懐かしい響きだ。この狭い街ではなく、どこまでも広がる宇宙で孤独に漂う彼らについて、幼い頃は父と共に語り合ったものだった。それはそうとして、その説明だけでは先刻の日常に浸潤してきた突発的怪異について納得することはできない。

「ふうむ、人工衛星からの電波? では、それによって現れたというのは、あの黒い影は電波によって呼ばれたということなのかい?」

「いや。フロイトの正式名称は、“中枢神経逆流型精神干渉兵器”。フロイトは人の脳、精神に直接干渉する電波を、この星のどこへでも、無差別に発射することができる——」

今日はやけに店先のオリーブの樹に、烏が集まっている。少女はこちらに暗い瞳を向けた。

「フロイトの発信した電波を受けた者は即座にトランス状態に陥り、そして対象者の意識と感覚は強制的に“イデア”に転送される。イデアに囚われた対象者は、その内部で精神的、肉体的な傷害を負うことになる」

なるほど、訳がわからない。少女が当然のことのような顔をして言い出したのは、解説というよりも哲学者の妄言に近い代物であった。

「えーと……イデアって、なんなんです? 次から次へと専門用語が出てきてもわかんないっすよ!」

頬杖をついて顔を左斜め上に歪めている滝川は、悔しげな目で彼女を見た。

「イデアは、集団幻覚の箱庭、精神と物質の隙間に作られる場所。フロイトの電波を受けた人が見る、現実めいた夢のようなものだと思えばいい。イデアはフロイトの電波を対象者が受信した瞬間に展開され、直前まで対象者が認識していた空間を再現する。先ほどもあの黒い塊が見えた時点で、私たちはフロイトの電波に脳と神経をジャックされて、この店を再現したイデアに囚われていた」

少女の言っていることはにわかには信じ難く、そもそも理解し難い。狂人のような鈍い実しやかさを纏った言葉は、私の好奇心を不謹慎にも刺激した。

「僕たちはそのフロイトだっけ、のせいで眠らされて人参房に黒い影が現れる夢をみんなで共有して見ていたってことですか? でも、さっき吹っ飛ばされたのは、本気で痛かったすよ。ホラ、肘を擦りむいちゃった! 店長、これ労災認定ですよね?」

「これしきで手当は出せないよ、滝川……」

この滝川という人間は、恐ろしいことに全ての物事に対して、異様に飲み込みが早い。バイトとして雇って三日で、人参房の業務はこの者抜きには回らなくなってしまったほどである。無論、癪なので給料は殆ど上げていない。滝川は私よりも、この幽霊のような少女が語りはじめた世界を理解しはじめているようであった。

「フロイトは人間の神経に干渉して、イデアで起こったことが実際に体の中でも起こっていると錯覚させることが出来る。イデアの中で受けたダメージは全て、トランス状態になっている現実の体にも影響を及ぼす」

カレーを食べて少しましになっていた少女の顔色がまた、陰鬱な青さを帯びてきた。

「極端な話、イデアの中で窒息すれば現実世界でも窒息する。イデアの中で首を捻じ切られたら、現実世界でも切られた部分の筋肉、骨、神経、血管がその通りに断裂して死ぬ。イデアの中で発狂すれば現実世界でも発狂し、精神攻撃に錯乱して自殺すれば現実の世界でも自殺する」

皿を拭きながら話を聞いていたが、流石に私もその手を止めて、少女の方を向いた。店先に集まってきた烏の数が、三十羽を超えている。

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