第3話 窮地の目覚め

 としおは青ざめた顔で、縋り付くようにポケットからスマートフォンを取り出した。他人と接する機会すらなかった彼が登録している連絡先は、初めての友人である吉田と父の二件のみである。

 としおは震える手で父に電話をかけた。

「父さん、何してんだよ。いつも暇なくせにっ!」

 フリルとキーファは気まずそうに目配せしあって、微かに響く発信音の中苛立つとしおを見守っていた。

『おかけになった電話番号は、現在電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないためかかりません』

としおは父と二度と会えないような確信めいた予感を手にした。

『おかけになった電話番号は、現在電波の届かない場所にいるか、電源が入っていないためかかりません。おかけに——』

自動で流れる音声は繰り返しとしおを追い詰めるように流れた。

「なんで、なんでだよ!」

端末を投げ捨てようとしたとしおの腕は、そう言った後力無く垂れた。彼は一時間足らずの間に自分の歩んできた十二年と数ヶ月の全てを否定され続けている。としおの世界はまだあまりにも狭く明かされた壮大な人類の歴史よりも、自分自身のことの方が重大だった。

「出ません、でした。父は」

としおは呆然と消え入りそうな声で言った。

「お前、親父と仲良かったのか? なら、また会えるよ。必ず」

フリルは相変わらず薄笑いのまま、としおの顔を真っ直ぐ見つめた。それを見返すとしおの目に、強い怒りが宿った。

「簡単に言うなよ! 簡単に……ただでさえ意味わからない状況になってるのに——こっちは今まで生きてきたこと、見てきたもの、全部嘘だったって言われてるのと変わらないんですよ!」

としおはすっかり動転して、何に怒ればいいのかすら分からずにただ大声で怒鳴っている。

「それは嘘じゃない! お前こそ簡単に、そんなこと言うな」

フリルもそんなとしおに触発されたように声を荒げた。

「嘘だ……全部嘘だ。こんなの、全部嘘だ! 全部……」

としおはうわ言のように、自分に言い聞かせるのに必死だった。その目から涙が溢れていた。

 としおが崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ瞬間、鋭利な刃物で硝子を傷つけるような、耳を裂く不快な音が鳴り響いた。

「な、なんだ! 聖隷か!?」

フリルは頭を抑えながら辺りを見た。としおの体は微かに白く光り、透明な鎖できつく縛られている。 

 やがてとしおは糸で吊るされたように床から浮かび上がった。

「これ——強力な魔法か? としお、大丈夫!?」

キーファは揺らぐ空気に耐えながら、としおを見てそう言った。としおを縛っていた鎖が突然弾けて、まばゆく奇妙な光の点滅が溢れ出す。

「——あ、あ。あ」

フリルの薄笑いが、としおの周りからとめどなく現れ続ける光に照らされている。その様子は火を見て意味もなく飛び込もうとする虫のようだ。光がフリルの体を覆い、一瞬でそれが解け去った。フリルは先程パプリカ頭と戦っていた時の禍々しい翼を持つ姿に、文字通り変身を遂げていた。

 フリルはとしおの方へうわごとをぶつぶつと吐きながら、ぎこちない動きでゆっくりと近づいた。

「フリル!? キミまで一体どうしたんだ! 何が起こってるんだ——」

キーファは目の前のただならぬ事態に取り乱してそう言った。

 としおの目と鼻の先に、フリルが立ち止まった瞬間だった。

「何事じゃ。新学期早々騒がしい」

混沌とした部屋の中にやけに重たい迫力を持っているが、生意気そうな少女の声が響いた。

「大人しくしてもらおうか。騒ぎになったらどうする」

少女の声がそう言った瞬間、少し湿っていて、黴のような不快な匂いのする黄色い煙が部屋に立ち込めた。それを吸い込んだとしおとフリルは意識を失って、床に倒れ込んだ。あの妙な音ととしおの放つ光は収まり、フリルの格好はまた制服に戻っていた。

「全く。世話の焼ける」と少女は言った。

黄色い煙の中から姿を現した少女は、としおよりも年少に見えるほど幼い見た目をしているが、態度は誰よりも不遜に見える。赤紫色の髪からは一対の角がのぞいており、背中には大きな目玉の模様がついた羽が生えていた。歪んだ笑みを彼女は、明らかに普通の少女のそれとは逸脱した雰囲気を発していた。

「助かったよ、ディアボロス……」

キーファは少女をディアボロスと呼んだ。彼女とキーファは顔見知りのようだ。

「あまりにも桁違いの魔力の爆発を感じ取って来てみたら——我が校の新入生の小僧が光っていて、それでフリルまで何かに憑かれたように意思を失って——何があった」

床に横たわるとしおとフリルを交互に見ながら、ディアボロスはキーファに尋ねた。

「えっと、ややこしいんだけど——」

 フリルがとしおを助けて連れてきたこと、としおが異例のネフィリムであるということ。それからとしおの感情が昂った時に起こった異変、それにフリルが共鳴するようにおかしくなったこと。キーファから一連の顛末を聞いて、ディアボロスは驚くどころか、賭け事をしている時のような興奮をはらんだ笑みを浮かべた。

「——なるほど。新入生とフリルとは初対面だったようだが、この異常な反応——何らかの関係があるのやもしれんな。フリルの謎を解く手がかりになる可能性もある。しかしこの小僧、聞いたところ心は弱いし知識も覚悟も無い。手がかかることこの上無さそうだ」

ディアボロスは倒れているとしおの頭を鷲掴みにして持ち上げ、顔を見てまた笑みを浮かべた。

「ちょっと、としおに何をするつもりなの……」

キーファはディアボロスの口ぶりに、警戒するように尋ねた。

「それはもちろん、教育に決まっているだろう。イレギュラーな存在なら尚更放っておくわけにもいかん」とディアボロスは笑った。

「何も知らないその子を、こっちに引き込むつもりなの」

キーファは非難するように言いながら、前足を畳んでとしおを見た。

「聖隷の発現も増え、その力も増してきている。加えて人類側では原因不明の出生率の減少による次世代の担い手の減少——世界の均衡はまさに崩れかかっているのだ。こちらとしては、少しでも戦うための手札を増やしておきたいのだよ。それがどんなに妙なカードでもな」

ディアボロスはそう言いながら、フリルととしおの学生証をいつの間に手に入れたのか、見せびらかすようにそれらを煽いだ。

「——それにお前だってわかっているだろう? どちらにせよ、こいつにはそれ以外の選択肢など最初から与えられていないんだ。たとえ何も知らなくとも、な」

ディアボロスの口角から笑みが消え、彼女は物憂げな目で二人を見下ろした。


 溺れていたのを急に引き揚げられたような、そんな唐突な目覚めだった。としおは呼吸の仕方を思い出すのに少し時間がかかっているようだ。

「目が覚めたか」

ディアボロスが仰向けのとしおを、歪んだ笑みで覗き込んだ。

 意識を取り戻したとしおは見覚えのない奇妙な雰囲気の少女を見て、これ以上は勘弁して欲しいといった顔で呟いた。

「——何、今度は。これも、夢……?」

「残念ながらお前が夢だと思い込みたい事柄は全て、紛れもない事実だよ。お前はさっき感情が昂ったせいか、その内にある魔力を暴走させて気を失ったのさ」

ディアボロスは笑みを浮かべたままそう言った。としおは見知らぬ子供に見透かされたような目で見つめられて不快そうな顔をした。

 としおは半身を起こした。辺りを見回すと、そこは先ほどまでとしおがフリルたちと居た部屋ではなかった。この場所もどこかは分からないが、雲の無い空と広大な青々とした草原が視界を上下に二等分して広がっており、としおはその真ん中で横たわって眠っていたのだ。としおはディアボロスを訝しげに睨んだ。

「いきなり、何だよ。お前……そもそも、誰だよ」

「妾の名はディアボロス。お前ら人間の生涯の友であり守護者でもある悪魔の端くれ。しかも、その中でもとっても偉い!」

ディアボロスは声の質こそ少女のそれだが、その高慢な振る舞いと頭から伸びる一対の角が、彼女に少女らしからぬ妙な迫力を与えていた。

「また悪魔って……いい加減にしてくれよ。もうお前らみたいなのと関わるの、ごめんなんだよ!」

呆れ返った顔で、としおはディアボロスの自己紹介を鼻で笑った後俯いた。

「おい小僧、口の利き方に気をつけろ。妾はお前の通っている学園の理事長でもあるんだぞ」

ディアボロスは無礼な態度に怒るどころか、ますます口角を曲げてとしおの顔を覗き込んだ。

「理事長? 嘘ならもっとましな嘘をつけよ。偉い悪魔なら」

としおは苛々しながらそう言った。

「はあ。素直じゃない子供は本当に嫌いだ。ま、信じたくなければ信じなくてもよい。おい、お前も起きろ。いつまで寝ている」

ディアボロスは背後で薄笑いを浮かべたまま横たわっていたフリルへ不機嫌そうに言った。

 フリルは呼びかけられても目を覚まさない。無論、彼の顔を構成している一対の目と口に当たる部分は、人間の顔の部位のように動くことはない。

「起きろと言っている!」

ディアボロスはフリルの横腹を軽く蹴飛ばした。

「ぐあっ!」

フリルが呻き声を漏らしながら飛び起きた。

「なんであのフリルの人と、カブト——キーファもいるんですか。ここ、どこなんですか。何でもいいけど、早くここから帰してよ」

としおはその瞬間までフリルとキーファが居たのに気が付いていなかったようだ。無差別な憎悪の灯った眼差しで、としおはディアボロスを再び睨んだ。

「帰して? いつまで他人事でいるつもりなんだ。帰りたければ自分の力で脱出しろ。そこにいるフリル頭と一緒にな。楽しみにしているぞ」

ディアボロスはそう言い残すと毒々しい目玉模様の羽を広げて、怪しい清々しさを孕んだ空の方へと飛び上がってしまった。

「どういうことだよ、どうやったら帰れるんだよ。お前がここに連れてきたんだな!」

としおは声を荒げて、上から見下ろしているディアボロスに怒りをむき出しにしている。フリルはそんなとしおを見ながら、ため息をついて言った。

「やれやれ、あんなに怒ってたら早死にするだろ」

「フリル、気をつけて。ここ——」

フリルの肩に乗っていたキーファが何か言いかけた途端、ディアボロスが割り込んだ。

「おいカブトムシ。お前もこちらへ来い。手助けしたら妾が皆殺しにしてしまうぞ」

ディアボロスは紅い瞳でキーファを捉え、人差し指を曲げて指図した。この場の主導権を握っているのがディアボロスであると理解していたキーファは、大人しく指示に従うほかなかった。

「頼んだよ」とキーファはフリルに耳打ちした。

「ああ」

キーファはフリルの短い返事を聞いてから座り込んでいるとしおを一瞥してから、ディアボロスの方へと羽を広げて飛んでいった。

 フリルが座り込んで草をいじっているとしおの肩を叩いた。

「ムカつく気持ちはわかるけど、今だけは協力してくれよ。ここから出るためだ」

「——嫌です。別に僕にできることないでしょう。出口が見つかったら教えてください」

としおはフリルの方を振り向きもしなかった。中学生になって間もない少年の心は、度重なる理不尽に疲弊しきっているのだ。フリルも重々それを理解していたので、心苦しかった。

「ここの出口は、魔法を使わないと見つけられないかもしれない。俺がやり方を教えるから、手伝ってくれ。お前は魔法を使えるはずなんだ」

としおは怒りで額がちぎれそうになるほど歪ませた。

「そんなもの、使えてたまるかって言ってんだよ! 見たくないものが見えて、いらない力が使えるって何だよ!」

としおはフリルを突き飛ばした。フリルは薄笑いを崩すことはなかったが、声を荒げてとしおの肩を掴んだ。

「馬鹿! こんな時に仲間割れなんてしてる場合じゃないだろ、頼む。パプリカ野郎と戦った時、ちょっと怪我して今調子が出せないかもしれないんだ。手伝わないと——」

「うるさい……お前も化け物だろ! そんなのの仲間になんか、なった覚えないんだよ!」

としおが怒りに任せて放った言葉は、フリルを黙らせた。フリルは脱力したようにとしおの肩を離して俯き、それきり話さなくなった。

 十秒ほど誰も話さないまま時間が過ぎた。無辺の青空と草原だけが穏やかに風に揺らいでいる。

「おー! 来た来た」

飛んでいるディアボロスは草原の奥の方を眺めながら、わざとらしく大声でそう呟いた。キーファも何かに気付いたのか、フリルととしおに警告した。

「まずい二人とも! 逃げて!」

穏やかな草原の向こうからおぞましい何かが来る。としおが一瞬感じた不吉な気配で思わず立ち上がる頃には、もう遅かった。

「——!」

人の声に聞こえるが、それ以上に異様な音だった。

「まままままままままままま」

姿を表した形容し難い容姿の鼠色の怪物は、ずんぐりとした果実のような丸みを帯びた猪のような体を持っていた。前足は猪のそれと同じだが、後ろの脚は取ってつけたように生身の毛のない人間の脚が生えていて、前脚が後ろの脚に比べて遥かに短いために体が前に傾いてしまっている。大きさは目測五メートルほどで、明らかに均衡の取れていないその体は恐ろしく俊敏である。血を抜かれて干物にされたような干からびた人間の顔が、面のようにその体に張り付いていた。

 としおは自身がまだ悪い夢から醒めていないことを願った。人面猪の怪物は鳴き声を発しながらこちらへ走ってくる。あれは間違いなくパプリカ頭と同じ聖隷と呼ばれる怪物の一種である。あの身体の大きさで突進されれば、自動車に轢かれるのと遜色ない衝撃に襲われるだろうことは明らかだった。

「としお!」

フリルが叫ぶのを無視して、としおは怪物を前に何処を目指すとも考えず、一目散に、終わりの見えない広大な草原を走り始めた。

「くそっ、仕方ない」

フリルは小さくなっていくとしおの背中を見て諦めたように呟くと、向かってくる聖隷に向き直った。彼の体が光に包まれ、再び輪郭を顕にすると、彼はパプリカ頭と対峙した時と同様に禍々しい翼を生やした姿になった。

 変身したフリルは、正面から聖隷に立ちはだかった。

「——俺が相手だ!」

フリルの手の周りに冷気が立ち込めて、彼の手には霜が降りる。気づけば、彼の手には氷の剣が握られていた。

 しかし、人面猪の聖隷はフリルと対決することを拒んだ。聖隷はフリルの間合いに入る前に、異様な脚を動かすのをやめて草原を削りながら急停止すると、後ろ脚を折り曲げて飛蝗のように飛び上がった。

「くそ、狙いはやっぱりあっちか」

フリルは頭上を通り越した聖隷を見て言った。

 聖隷は着地した後すぐに無様に走っているとしおの方を目掛けて走った。

「はっ……はっ……!」

としおが後ろを振り返るたびに、聖隷の気色の悪い顔が近づいてくるのがわかる。脚がもつれて転びそうになる。息があがってきた。

「ままま。まままままままままままま」

不完全な呪文のような不気味な声が近づいてくる。草が踏み潰される音だけが後ろから聞こえる。人面猪の聖隷がとしおに追いつこうとしたその時だった。

「ぐっ……」

としおの背後にフリルが立った。彼は聖隷の顔を氷の剣で正面から串刺しにして、真正面から押さえつけ、その動きを食い止めた。フリルの腕は聖隷の力が強すぎるせいか震えている。としおはその隙にに逃げ出そうとした。

「あああ!」

としおの後ろからフリルの叫び声が聞こえた。フリルの服の右袖に血が滲み始めている。としおはフリルが怪我をしていると言っていたことを思い出した。聖隷を押さえつけるフリルの肩は千切れそうになり、血が噴き出している。その様子を見るとしおは逃げることもできずただ自身を庇うフリルの姿をじっと見ていた。

 そもそもフリルが前に怪我を負ったのも自分を助けるためである。としおは今まで大切なことを見落としていたことにようやく気付いた。フリルは少しずつ聖隷に押され始めている。

「まー。ままままま」

聖隷は痺れを切らしたようにまた不気味な鳴き声をあげた。聖隷が身震いしたかと思うと、次の瞬間その鼠色の毛が何十倍にも伸びた。その毛は一本一本がヤマアラシのそれのように逆立って、巨大な剣山のようになっていく。

「フリル!」

上空で見ているキーファが叫ぶ頃には、千本の針となった聖隷の毛がフリルの体を串刺しにしていた。フリルは痛みに身悶える暇すら与えられず、身体中から赤い血を撒き散らしてその場に倒れた。いつの間に変身前戻っている。

 としおは目の前の光景に息を詰まらせた。ついこの間味わった死ぬ間際の冷たく体が終わっていく感覚が巡る。フリルも同じような気持ちなのだろうか。聖隷がこちらを向いた。

「ディアボロス! 力試しならもういいだろ、やめにしよう!」

キーファはディアボロスに必死で訴えたが、ディアボロスは黙ったままだった。

「——二人とも!」

キーファがとしおとフリルの元へ向かおうとすると、ディアボロスはそれを手で遮った。

「手助けすれば皆殺しと言っただろう。限界状況からの超克——これこそ理想的で王道な教育だ。お前らは普段からフリルに甘すぎる」

ディアボロスは草原にフリルの血が滲んでいくのを険しい顔で見下ろしている。キーファは黙ってその横顔を見ていた。

 としおはこちらを見ている聖隷と、横たわるフリルとを交互に見つめる事しか出来なかった。

「はぁ……はぁ……」

フリルは一日のうちに二度も、赤の他人である自分の命を救ってくれたのだ。

 誰の助けももう望めない以上、としおは他ならぬ自身がこの状況をどうにかして打開する以外に自分とフリルが助かる道がないことを悟った。

 聖隷はゆっくりとこちらに近づいてくる。目にあたる部分はくり抜かれたように目玉がなく、ただ一対の深い穴がじっととしおを捉えていた。

 どうする。どうしよう。もう駄目だ。としおは血まみれで倒れたフリルの方を見た。自分も後数秒でああなってしまう。としおは死を覚悟した。こういう困った時にはいつも、としおの頭の中にはある人物が浮かぶ。

「自分だけは信じて生きろよ。そうしたら、最後に一人で戦わなきゃならん時も迷うことはない」

自分を絶海の孤島に縛りつけながら、働く様子もなく適当に放蕩しているようにしか見えなかった父の何気ない言葉だ。

「また適当なこと言って……そんなのいいから働け! そして僕に都会暮らしをさせろ!」

記憶の中のとしおはパンツ姿の父を叩いた。


こういう時にだけ頭の中に現れて説教していく父は、やはり憎めない。聖隷が高速で迫ってくる一瞬に、としおの頭にはあらゆる思考が浮かんだ。

 父には聞きたいことが山ほどある。

「そうだ。自分だけは——」

今は憎くて仕方のない父からの言葉を思い出したのにはきっと理由があるのだろう。しかし、それをじっくり考える暇すら与えず人面猪の聖隷はこちらに迫ってきている。としおは両手を握った。

 今ここで死ねば、フリルの懸けた命も無駄になる。この絶望的な状況を打破するためには人智を超えた力を使う以外に手段がない。

「僕にも、魔法が使えるのなら——」

「ようやくやる気になったようだ。ほれ、見てみろ」

ディアボロスがとしおの方を指差した瞬間、としおの体が先ほどフリルが変身した時と同じような色の光に包まれた。としお自身は今何が自分の身に起こっているのかがまるで分からないまま、ただ胸の奥から無尽蔵に溢れ出る、何か勢いのあるエネルギーを感じていた。

 そうしてとしおは、下ろしたての制服とは全く違う格好に変身を遂げた。

「ヒーローみたい……なんか、恥ずいな——っと!」

としおは目の前に迫った聖隷の突進を軽やかに躱した。

「危なかった!」

先ほどより明らかに体が軽い。目で追いきれなかった聖隷の動きが、はっきりと捉えることができた。勢い余った聖隷は草をまた踏み潰してカーブすると、またとしおを目掛けて弾丸のようにやってくる。

「おい! こっち来い!」

 としおが叫びながら倒れているフリルと反対へ向かい、聖隷は挑発に乗って同じ方へ向かった。

「ほら、ただのボンクラではなかったろ」 

ディアボロスはその様子を見下ろしながら、満足げに口角を歪めていた。

 聖隷の攻撃をどうにか躱し続けるうち、としおの中にある考えが浮かんだ。

「変身ができたんなら、フリル先輩みたいに武器も出せるかも——倒すにはそれしかない!」

武器が欲しい。戦うための力が欲しい。としおの望みはすぐに叶った。

 としおの掌がじんわり熱くなって輝いた。そして、聖隷が懲りずに立ち上がって体勢をまた立て直す頃には、としおの手にはとしお自身の背丈よりも大きな武器を手にしていた。

「ほら。ちゃあんとできるじゃないか」とディアボロスは呟いた。

としおの両手に、銀色に鈍く光る戦棍が握られている。立派な金属で出来ている様に見えるが、実際それを持っているとしおは重さを全く感じていなかった。

「出来た——でもこれ、どうやって使うんだ! 振り回せばいいの? えーと……」

武器の持ち方をあれこれ試しているうちに、聖隷がまたこちらへ向かってくるのに気づいたとしおは顎を外した。

「あああやばい!」

「まままままま」

聖隷はまた不気味な嗎をあげた。

「あ、なんだこれ……?」

としおは自身の持つ武器に、銃の引き金のような部品が取り付けられていることに気がついた。

「もう何でもいいや!」

としおは自分の武器を肩に担いで、正面の迫ってくる敵の方に狙いを定めて引き金に手をかけた。目玉のないあの顔が近づいてくる。としおは引き金を躊躇わずに引いた。

「いっけえ!」

 としおが叫んだ瞬間、武器の向く方の虚空に何重もの複雑な光の紋様が浮かび上がった。紋様は激しく回転して収縮し、一つの光がその中心を通っていく。としおは武器を支える腕に凄まじい振動を覚えた。

「少年の目覚め……なんと美しい!」

ディアボロスは興奮を隠しきれない様子で、としおの放つ光に目を細めながら叫んだ。

 光が最後の紋様を潜り抜ける。それはいよいよ形を成して、弾丸となって放たれた。

「びゅるっ」

そんな擬音が一番似合うだろう。その一瞬でとしおは武器から射出された何かを見て、混乱と絶望の入り乱れた情けない顔になった。

「えっ……」

勿体つけて放たれた弾丸の正体は、白い半透明の粘り気の強い謎の液体の塊だった。

流石のディアボロスとキーファも、愕然として言葉が出なかった。

 としおの放った粘液は聖隷に当たることなく、弧を描く前に地面にべしゃりと落下した。

 怪物を倒すヒーローならばそれなりに格好のいい力が与えられるはずであると、としおは思っていた。少なくとも氷の魔法を操るフリルの姿は、としおがこれまで憧れていた映画や漫画に登場する英雄のそれと全く遜色がないものである。

「ふざっけんな!」

としおが戦棍を投げ捨てる暇もなく、人面の猪はとしおを串刺しにしようとこちらへ向かって来ている。

「やばっ!」

間に合いそうにない。としおは覚悟を決めて目を瞑った。そしてその闇の中で、聖隷が何かを踏んだような湿った音を聞いた。

「ま、ままああああ」と聖隷のどこか苦しそうな声がした。

としおが目を開けると、人面の猪は叫びながらその巨体を捩らせてのたうち回っていた。

 よく見ると聖隷は四肢のうち、右側の前後の足をそっくりそのまま失っていた。としおが発射した粘液を踏んだ方の足だ。ディアボロスとキーファは、聖隷があれを踏んだ瞬間に、その脚が激しく蒸発するように消えるのを目にしていた。

「お前の出すその粘液、聖隷に絶大な効果があるようだ。試しにぶっかけてみろ。次は体の力を抜いて、量と勢いを出すことを意識しろ」

ディアボロスはとしおに向かって上から指示を下した。

「ちょっと。もっと言い方考えてよ」

ディアボロスの誤解を招きそうな口ぶりに、キーファは呆れていた。

「カッコ悪いけど効いてはいるのか……」

としおは初めて聖隷の方を真っ直ぐ見据え、先ほど投げ捨てようとした戦棍をまた強く握り直した。向こうでフリルは穴だらけの体で横たわっていて、相変わらず覆面を着けているようにしか見えない白い頭にも切り傷がいくつか付いていた。

「ま。ま、まままま」

聖隷は腐ったような紫色の気味悪い顔でとしおを恨めしく見つめながら、左の脚をばたつかせて、こちらにずるずるとにじり寄ってくる。フリルの血がべったりと聖隷の毛の先についていて、鉄のような生臭さが鼻をついた。

「——ああ、そうか。戦うことって、こんなに怖いことなんだ」

フリルが串刺しになった瞬間を思い出した。彼はたった一人で恐怖と戦って、赤の他人である自分を二度も助けたのだ。彼を化け物と罵ったことを、としおは酷く後悔した。

 武器をもう一度構え、息を整えて目を大きく見開く。漫画の主人公がやっていたように、中で眠っている力を呼び起こすために、体の芯を揺さぶることにだけ集中する。するとだんだん体が熱くなってくる。腕が痺れるような感覚と、体の奥底から何か懐かしく新しいものが溢れてくるのを感じる。としおの足元の草が騒ぎ始めて、光の粒がとしおの構える戦棍の周りに湧き上がった。

「ディアボロス、これ——」

としおの様子を見たキーファは、身震いした。

「これは見たこともないレベル! 途方もない魔力だ。あの小僧、今までどこにどうやって隠れていたのか知らんが、手に入って良かった!」

としおの纏う光が、ディアボロスの紅い瞳を怪しく照らしている。

「——!」

引き金をもう一度引いた時、としおは先ほどよりも重たい手応えを感じた。構えた得物の先端に、今度ははじめよりも大きく複雑な紋様の魔法陣が浮かび上がっている。幾重も重なり合った幾何学模様の中心を、純白の雷を纏った大粒の光の弾が一瞬でくぐる。それはやがて粘液の矢となり、情けなく這いずる聖隷を目掛けて虚空を激しく貫いた。

 としおの放った弾は命中した。まとわりついた粘液が人面猪の体中を食らい尽くすように、瞬く間に溶かしていく。

「ひひひ。凄まじいな」

そう喜ばしそうに呟きながら、ディアボロスはとしおの横に降りてきた。

 としおが聖隷を仕留めたのを確信したディアボロスとキーファは、虚空を浮遊するのをやめて、攻撃の反動で放心状態になって立ち尽くすとしおのそばへと降りてきた。

「ま あ ま」

身体のほとんどを焼かれるように溶かされて失った聖隷は、弱々しい最期の言葉を残すと霧になったように輪郭を失い、消えていった。景色が陽炎に抱かれたように揺れて、草原と青空の色が薄まっていく。

 気がつけばとしお達は打ち放しのコンクリートで四方を囲まれ、頑丈そうな鋼鉄の扉が一つだけある以外に何も無い、灰一色の空間に立っていた。

 としおの纏っていた衣装と持っていた戦棍もゆっくりと空気に溶けるように消えていき、やがてとしおは変身する前の制服姿に戻っていた。

 我に帰ったとしおは、灰色の床に倒れているフリルの側へ、血相を変えて駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか!」

フリルは薄笑いを浮かべたままだが、出血が酷く息をしているのかも判らなかった。

「ど、どうしよう……救急車とか、えっと、えっと」

としおは震える手で、ポケットからスマホを引っ張り出した。

「狼狽えるな。救急車なぞ呼んでも無駄だ」

ディアボロスがとしおの背後から嘲るように言った。

「じゃあどうしろって言うんだ! しっ、死んじゃうかもしれないのに!」

としおは涙をこぼしながらディアボロスに怒鳴った。しかし、彼女はとしおの怒声に怖気付くどころか嘲るように息をついた。

「ふっ。随分焦っているの。先ほどフリルに暴言を吐いたのがよほど心苦しかったのか?」

としおはフリルを見て、気まずそうに黙り込んだ。

「これも妾の大切な生徒。そして今回のことは教育の過程で起きた尊い事故だ。責任を持ってこちらで治療する」

ディアボロスはしゃがみこんで意識のないフリルの薄笑いを覗き込むと、おもむろに指を鳴らした。そうするとポップコーンが弾けるような軽い破裂音がして小さな椅子ほどの大きさの、手足の生えている妙なキノコ二匹が現れた。

「え!?」

としおは魔法を目の当たりにしてまた呆気に取られた。手足の生えたキノコは、としおの背丈の半分ほどの大きさだったが、胴回りはとしおの二倍ほどもある。手足は太くて著しく短く、肘と膝は見当たらないが五本の指を持っていて、それがかえって生々しく奇怪である。赤いかさには白い水玉の斑点が浮かんでいて、いかにも有毒そうないでたちだった。

「運べ」

キノコたちはディアボロスの指示通りにフリルを器用に担ぎ上げて扉の方へと運び始めた。そしてディアボロスはゆっくりとその後ろを進んだ。

「ちょっと——お、おい! 僕たちはどうすんだよ!」

置いていかれそうになったとしおは、ディアボロスの背中に叫んだ。ディアボロスは歩みを止めて、ゆっくりと振り返ってまた歪んだ笑みをこちらへ向けた。

「諸々は追って説明する。今日はまあ、夜までかかるだろうな。公欠にしておいたから、成績については案ずるな」

ディアボロスは扉に手をかけながらとしおへと言った。

「なっ……どういうことだよ!」

「言っただろう? 妾はお前の学校の理事長だと。その辺はどうとでもなるんだよ。今日のところはそこのカブトムシの案内に従え」

「ち、ちょっと。勝手に話進めないで!」

としおはたじろぎながら叫んだ。

「お前は今日からこのフリルと同じ妾の大切な教え子——逆らえば死ぬ! これが妾の教育方針だ!」

幼い声からは想像もし得ない物騒な脅しを満面の笑みで言い放ってから、ディアボロスはフリルを運ぶ部下たちと一緒に部屋を出て行ってしまった。

「おい! まだ話は終わってないんだけど! 滅茶苦茶だ……」

としおを無視して、扉の閉まる重たい音だけが大きく響き渡る。

「えっと——」

としおは苦笑いを浮かべながら、床の上で黙っていたキーファの方を見た。

「ごめんね……。ああ見えて本当に偉い悪魔だから、ボクも逆らえないんだ。理事長っていうのもほんとでさ」とキーファが言った。

散々無礼を働いた自分と普通に接してくれることに、としおはなんだかむず痒い気持ちを覚え、視線を落とした。

「あの、色々——ごめん」

「取り乱すのは仕方ないよ。それより、後でフリルの方に謝ってあげてね。まだ色々やることがあるから、ボクらも早くここを出よう」

「わかった」

キーファを肩に乗せて、としおは先ほどディアボロスが消えていった鉄の扉に向かっていった。

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